猥褻と芸術
何を根拠にそれは猥褻であって芸術ではないと線引きするのか?人それぞれ感性が違うので、一般大衆的に言えば、それを仮にあなたのリビングルームに飾るとする。躊躇なく飾れるか、否かであろうか?
小学生の頃友達の家に行った際玄関の入って真正面に、成人雑誌の切り抜きが飾られていた。幼いわたしの眼に、その切り抜きは衝撃で、美しいものとは言えなかった。しかし、祖父の家でも同じような成人雑誌の切り抜きが、私たち子どもも寝泊まりする部屋に無造作に飾られていたのだが、それはなぜか美しかった。時代背景なのだろうか?それとも感性の問題?
友達の家に飾ってあったのはおそらく、80年代後半から90年代初頭のものだと思われる。一方祖父の家に飾られていたものは、60年代から70年代のものに違いない。
わたしは小さな頃から60年代、70年代の世界に憧れ、母のアルバムを眺めながらファッションの参考にした。そんな事もあってか、祖父の家にある裸の女性の写真はメークアップや髪形、背景に至る細部まで一種の芸術作品に見え、わたしは好きだった。
そして、ある意味わたしの育った80年代は全てが野暮ったくて、あまり好きじゃなかった。だから、友達の家に飾られていた裸の女性の髪形や、艶めかし過ぎる背景、メークアップのケバケバしさも不快なものとしてわたしの目に映った。
父は写真を撮る人だったので、それ関係の雑誌が山ほどあってわたしはそれを見るのが好きだった。そこに載ってあるヌード写真は全て美しく、芸術だった。しかし、どうしても好きになれない写真がたまにあった。決まって写っているのは、アンダーヘアーだった。そういうものが写っていると、一気にその写真の芸術性が失われる気がした。
2001年頃、パソコンを手に入れたわたしは世界と繋がりたくて、ウェブログサービスのライブジャーナルを利用していた。英語でブログを書き、自分の撮った写真をコミュニティーに投稿する。当時日本人が少なかったせいか、すぐに世界中の色々な友達が沢山できて楽しかった。その中のやり取りで、Suicide Girlsという有料のサイトを始めて間もない人から連絡があった。そのサイトは、ピンナップガールを思わせるテイストに重要性を置いたヌード写真を有料公開するといった感じで、まあお洒落だったんだけど、サンプルを見せてもらった時にやっぱり気になった。アンダーヘアーに生殖器さえも見事に映っているではないか!!
速攻お断りしました。あんな写真は撮られたくない。まあ、その写真を撮ってくれる人を自分で探す事や、ボツになったらお金は貰えない、など色々面倒そうだった事もあるのだが。今改めてそのサイトを見てみると、ずいぶん女の子の種類が変わっていて、気持ち悪いものになっていたので、断って正解だったと思ってみる。
谷崎潤一郎は猥褻か、芸術か?
もちろん芸術だとわたしは思う。なぜ、あんなにも猥褻と騒がれたのか、理解に苦しむ。彼は、生理的現象ひとつ(トイレの話)をとっても、あれほど芸術的描写ができる希少な芸術家の一人だと思う。卍のレターセットの描写に感化されたし、その作品では主人公とある女性との同性愛的描写があるのだが、あからさまな性的表現は一切含まれていない。
谷川俊太郎の詩に、わたしにはここでは書けない猥褻な題名の詩があるのだが、猥褻なのはわたしの頭にある固定観念で、その詩自体はすごく芸術的で素晴らしい。
それでは、ヴィンセント・ギャロは?バッファロー’66はあんなに芸術的な作品だったのに、ブラウン・バニーで性器丸出しでいっきに猥褻なものになってしまった。ギャロの人間性は、結構サリンジャーに近いものがあるのかな?なんて思えてきた。
サリンジャーは自分のどの作品も映画化させなかった事で有名だが、理由はただ一つ、自分が主人公を演じたかったのだ。否、自分が主人公だったのだ。
芸術とは不快にさせないものであり、猥褻とは不快なものなのだ。
芸術とはテイスティーであって、猥褻とはオフェンシブなのだ。
今は猥褻と騒がれている作品でも、時代が変われば芸術にだってなりえる。
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