第1話 


 大きな手が、頭を撫でる。

 がっしりとした厚ぼったい、節くれだった武骨な手。

 ごつごつとした手。

 大好きな父の手だ。

 剣の鍛錬や、幾度となく繰り返される戦で鍛え上げられた骨太い手に、柔らかさは欠片もない。

 逞しい父の手は憧れで、大きくなったら自分も父のような手になるんだと心に決めていた。

 過酷な鍛錬にも、音を上げない。

 乗馬も、……きちんと練習をする。

 己の背丈よりも高い馬に跨る行為は怖いのだ。

 恐ろしさから、どうしても鬣にしがみ付いてしまう。

 馬の迷惑そうな顔を思い出すたびに、申し訳ない気持ちになる。


 父様、きちんと練習するよ。


 もう怖い、嫌だなんて言わない。言わないから。


 だから。


 離れていく父の手を、引き留めるようにぎゅっと掴む。

 困ったように微笑む父が、眼前にしゃがみ込んだ。

 力強い腕に、ぎゅっと抱き締められる。

 父の手が震えている。

 いや、違う。

 震えているのは己の身体だ。

 ひんやりと冷たい甲冑が頬に触れる。


 父様、どこに行くの?


 戦なんて起きていないって言っていたのに。


 何で、父様だけじゃなくてみんな鎧を着ているの?


 己を抱き締める父の後ろには、甲冑に身を包む幾人もの戦士たち。

 見慣れた顔の兵士たちは、皆一様に苦渋の色を浮かべている。

 何事が起こっているのか分からない。だが、非常事態が起きていることだけ理解した。

 腕を離した父は、もう一度、わしわしと頭を撫でた。

 唇が動く。何を言っているのか分からない。聞こえない。

 待って。行かないで。

 己の声が邪魔をして、父様の言う言葉が耳に入ってこない。

 手を伸ばす。

 が、伸ばした手は空を切った。

 別の逞しい腕が、自分の身体を抱き上げたからだ。

 優しく微笑する父が、手を振った。

 そして、再び唇が動く。


 しかし、キィン!という刃が触れ合う耳が痛くなるような甲高い音に、声がかき消される。


 何て言ったの?と口を開きかけた瞬間、ものすごい速度で父の姿が遠ざかる。

 瞬く間に、父の姿が見えなくなる。


 待って。


 まだ聞いていない。


 父の最後の言葉を。


 

 何て言ったの父様――……っ!



 悲痛な叫びは届かず、非情にも映像がそこで途絶えた。

 次第に意識が覚醒していく。

 開いた目に映るのは、見慣れた天井。

 白地に、これまた白色で雪の結晶のような絵が点描で描かれている。

 ベッドと机以外、荷物のない部屋の中でそこだけが賑やかだ。

 ああ、あれは夢だったのか、とイザヤは落胆のため息を吐いた。

 あの時、父は何と言ったのか。

 自分に何を伝えようとしたのか。

 今では確かめる術がない。

 外から聞こえる騒がしい声が、イザヤを思考の世界から現実へと引き戻す。

 正体は毎朝の恒例になりつつある行事。

 先ほど聞こえてきた金属音の正体。

 毎朝毎朝よく飽きないな、とイザヤは呆れたようにため息を吐いた。

(さて、今日はどっちが勝つかな?)

 ドン!と激しい音が、窓の外に響く。

 どうやら、決着が着いたようだ。

 ゆったりとした動作でベッドから降りると、窓を開ける。

 くっそ!と地面に拳を叩きつけながら、悔しそうに眉根を寄せる銀髪の青年が視界に映る。

 その隣で黒髪の隻眼の剣士が、意地の悪い笑顔を向け楽しそうに笑っている。

 一目瞭然。

(カイトが勝ったか)

 王国の王子を相手に一切手を抜かず、完膚なきまでに叩きのめす。実に彼らしいと、イザヤは薄く微笑んだ。

「ああ、くっそ!また負けた!」

「まだまだだなぁ。王子様よぉ」

 にやにやと笑う剣士に、「おめぇ、実は人間じゃねぇーだろ!」と悪態を吐く。

 王子にしては、乱暴な口調である青年は紛れも無くアルディナ王国の王子様である。

 銀色の髪が何よりの証拠だ。

 アルディアナ王家の血をひく者は、代々、銀の髪を継承する。

 優勢の遺伝子なのか、国王が異国の王女と婚姻し、子を成しても必ず銀色の髪の者が産まれる。

 それ故に、王家の血をひく者は一目瞭然だった。

 なぜ一国の王子様である彼が、一国民である自分の家に出入りしているのかというと。

 王族ならではの複雑な内情という厄介事が根底があるわけだが、人様の家の事情を詮索する悪趣味などなく詳しい事は聞いていない。

 ただの一国民である自分には、あずかり知らぬことだ。

「ジェイド、また負けたのか」

 からかうような口調で声をかけると、子供のように拗ねた目がこちらを向いた。

「あ、やっと起きたか。この寝ぼすけ」

 しかし、返事をしたのは彼の隣にいる隻眼の剣士だった。

「寝ぼすけ?」

「俺たちもう二十戦目だぜ」

 腰に手を当てたジェイドが言う。

「二十!?」

 朝から大層元気なことで何よりだ。

「太陽の位置見てみろ」

 ため息交じりに吐き出された科白に、視線を上げると、なるほど、確かにだいぶ高い位置にある。

 太陽が真上まできていないことから、昼餉にはまだ早い時刻。

 だが、朝というには遅い時刻。

「……そんなに寝ていたか?」

「珍しいな。お前が騒音にも気付かねぇーで寝てるなんてよ」

 結構派手な音を立てていたらしいが、全く気付かなかった。

 あの夢のせいだな、とイザヤは苦笑いを浮かべるしかない。

 ……まあ、いつもの騒々しさに安全だと脳が勝手に判断した可能性もあるが。

「おや、休憩かい?」

 朝から精が出るねぇと、にこにこと明るい笑顔を浮かべた中年の女性がこちらにやってきた。

 名をアプリコット。コットおばさんという愛称で呼ばれる彼女は、この近くで料理屋を営んでいる。

 彼女の料理はどれも絶品で、店は連日大繁盛だ。

「お寝坊さんのイザヤと、朝から御苦労さまなジェイドにお願いがあるんだけど」

 と差し出されたのは、大量に食材やら調味料やらを書き込んである羊皮紙と、銀貨や銅貨が入った袋。

 買い出し行って来て、と言わんばかりの荷物に二人の口が引きつる。

 アプリコットに頼まれる買い出しは、過酷な行なのだ。商人との戦いである。

 新鮮で良質な食材を、いかに安値で購入できるか、という売り手との戦争。

 値切り交渉という、口下手なイザヤとジェイドが最も苦手とする苦行だ。

 彼女には世話になっている分、実に断り辛い。

 イザヤはカイトを団長とした傭兵団に所属している。傭兵団自体は大規模なものではなく、反対にこじんまりとした少数部隊だ。少数ながら能力の高い人材が集まっている少数精鋭。

 人数にして三十名ほどだ。無闇に人数を増やせないという事情もあるのだが、とりあえずそれは置いておいて。

 戦や何か揉め事が起これば依頼が舞い込んでくる。

 だが、仕事が無い時は彼女の店の手伝いをしたり、用心棒として乱暴者を懲らしめたりして日々の銭を稼いでいる。

 アプリコットはイザヤ達の生活の生命線だ。彼女が仕事を斡旋してくれるから、イザヤ達は路頭に迷うこともなく、日々に食べ物にも困らずに寝心地の良いベッドで眠ることができる。

 そんな恩人の頼みを断れようか。いや、断れるはずもない。

 だが、嫌なものは嫌だ。ちらっと見えているだけでもびっしりと書かれた文字に、いや、それ二人で無理だろ、量多過ぎだろ、と突っ込まざるを得ない。

 二人が嫌そうな顔をしていると、彼女は餌を差し出した。

 特にジェイドに対して有効な餌だ。効果抜群の。

「クレメイアと一緒に行って欲しいんだよ」

 アプリコットの科白に、ジェイドの耳がぴくりと動く。次の瞬間、すごい速さで彼女の方へくるりと向き直ったジェイドは、頬を紅潮させながら叫んだ。

「い、行く!」

 何ともわかりやすい彼に、アプリコットとカイトがにやにやと意味ありげに笑う。

 二人の反応に、さらに顔を赤く染めたジェイドがアプリコットの手から荷物を奪い取る。

「行くぞ!イザヤ!」

 耳まで真っ赤にしてずんずん歩いて行く彼に、はぁっとため息を吐いた。

 ああ、やられた……クレメイアの名を出されては、彼が断るわけがない。

 本人は隠したがっているので、はっきりと聞いたことはない。だが、反応を見ればそれは明明白白で。

 兄として、何とも複雑な気分である。

 如何わしい男に目を付けられるより彼の方が安全だ。だが、何というか、うん、複雑だ。

 何が問題かというと、彼がアルディナ王国の王家の人間だということが一番の難題である。あと、彼女の年齢も。

 一度も振り返ることなく店の方へと歩いていく彼の背中に、着替えるから待ってろ!、と声をかけイザヤは支度にとりかかった。




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