心層学習
阿部登龍
心層学習
かつてこの国では、人が死ぬと煙が上がった。
屍体は摂氏900度の炉にくべられて白い骨だけが残った。
しかしいま、屍体は酵素液によって処理される。形あるものは骨片一つ残らない。分解処理を終えた十数リットルの蛋白液を前にして敬虔でいることは、誰にとっても難しい。
細く立ちのぼる煙が死を黙示した時代は過ぎ去った。だからその日わたしの目の前にあったのはただ青い空だった。大気の分厚さを感じさせる、鮮やかで濃いブルーが、わたしの頭上を果てなく覆っていた。
わたしが永遠に喪ったのは、恋人でも、友人でも、家族でもなかった。
しかし時にそれらすべてだった、
一頭の犬だった。
1
玄関口から小さな悲鳴が聞こえた。困惑と怒りが混じり合った足音がそれに続いた。
「何よあれ。リョウでしょ。いつの間にあんな大きな荷物」
部屋に入ってくるなりルイは言った。
「しかもわたしの名前で!」
鏑矢(かぶらや)ルイは野鹿のような女だった。背が高くて脚が長い。明日から世界でたった一人になったって生きていけそうに見える。そのくらい彼女は自立して見えた。明るい茶の髪を束ね、お気に入りのリーバイスと白いシャツ。ラフな恰好がおそろしく似合って清潔だった。
彼女の詰問に心当たりがあったので、わたしはソファに寝転んだまま肩をすくめた。
「昨日の夜中。仕事辞めたらクレジット使えなくなったから、ルイのアカウントで注文した」
「認証だってあるはずでしょ!」
「寝てるときだけは隙だらけだよね。ルイは」指を端末に押しつけるジェスチャー。「顔の落書き、まだ気づいてない?」
ルイは「え」と頬に触れ、間もなく騙されたのだと気づいた。手のかかる子どもを見るような呆れた目を向けてくる。彼女が時々見せる、こうしたあどけない表情をわたしは気に入っていた。
「くだらないこと言ってないで。何なのあれ。中味は」
あー、とわたしは唸った。適切な言葉を見つけるのは難しかった。
「ロボット」
「はあ?」
きれいな眉が困惑を表してゆがんだ。
「ちょっとちがうかな」わたしは言った。「犬だよ。ロボットの犬」
とたんに、ルイは痛みをこらえるように顔をしかめた。
理由はわかった。彼女は、二ヶ月前、わたしの飼っていた犬が死んだことを知っているのだ。その後でわたしが仕事を辞めたことも。この家を借りたのはそれからだった。以来、彼女とわたしは共に暮らしていた。
「なんで……」
そんな顔をする必要はない、とわたしは思った。
ルイはわたしとは違い、他者に共感することのできるひとだ。しかし、他人の苦しみや悲しみまでをも抱え込んだつもりになるのは愚かで、傲慢なのではないか。
「ネット見てたら、新商品のテスターを募集してるって。無料だっていうし、興味もあったし。まさか本当に当たるとは思わなかったけどね」
話すにつれてルイの表情が硬くなった。わかっていた。止める気にはならなかった。
「ほら、ロボットならルイも大丈夫でしょ。アレルギー。ルイって動物好きなのに、うちに来るといつも、鼻水止まらなかったじゃない」
「それって、本気で言ってる?」
ねえ、と問いかけるルイの目は、わたしに決定的な断絶を予感させた。
しかしそれは訪れなかった。何も答えないでいると、しばらくして、彼女はため息まじりに「名前は」と言った。その目はわたしを見てはいなかった。
「名前は決めてるの」
「ううん……でも、とりあえず顔を見てみないと」
「それもそうね。開けてみますか」
わたしはソファから起き上がり、ルイと共に玄関に向かった。
廊下の床板がキイキイと鳴く。知人から安く借りた古い平屋は、サービス精神に富んでいて、住人の動きに合わせてあちこちが音を立てる。
「箱、けっこうデカかったわよ。犬種は?」
「詳しくはわからないけど、中型犬って書いてあったかも」
「ええっ。それってうちで飼えるの」
「ロボットだし大丈夫なんじゃないかな。餌もトイレも、散歩もいらないわけだし」
「んー……それもそうか」
そう言う彼女をわたしは盗み見た。わたしたちの間にかかった細い糸のような何かは、まだ繋がれているのだろうか。わたしにそれが見えるはずもなかった。
結論からいえば、到着した荷物はそれほど大きなものではなかった。
企業のロゴが大書されたプラスチックケース自体はたしかに嵩張ったが、実際の内容の大半は、梱包材と、専用端末や充電用プラットフォームなどの付属品、分厚い仕様書の類によって占められていたからだ。
肝心の本体――ロボット犬の機体は、おおよそ小さめのコーギーくらいだ。実際、コーギーがモデルだった。ずんぐりした胴に短い足、大きな耳に太い尾。体に対して頭でっかちなところも、犬種の特徴をよく捉えている。
だが、それだけだ。
「もうちょっと似せる努力とかなかったのかな」
付属の専用端末でユーザー登録を済ませているわたしを尻目に、ルイが機体をそう論評する。
たしかにこれは、贔屓目に見ても犬とは呼びがたいだろう。
表面は人工毛で覆うどころか剥き出しの金属で、ほとんど工業機械じみて見える。デザインも生き物というには不自然に均整が取れていて、滑らかすぎ、顔に至っては、目鼻の代わりにちいさなカメラレンズが数列並んでいるだけという無愛想さだ。
わたしが諸手続を終える頃には、ケースの中味はすべて外に出され、各々にルイによるいちゃもんが付けられていた。いわく、充電プラットフォームが大きすぎる――無線給電式にすべきだの、そもそもなぜ今時自律型か……などといったところだ。
「さすが専門ってわけ」
「違うって」
わたしの言葉にルイは首を振った。
「私のはクルマ。専門だなんて言えない」
「そんなものかな」
「――それに、エンジニアと保険屋はぜんぜん別でしょ」
自動運転車と、そのシェアリングが普及するに伴って、責任配分が問題となった。事故が起きたとき――それは必ず起こる――使用者・所有者・製造者の誰がどのくらい責任をとるか。旧態的で複雑な法律と、日々変化する現実との間に立ち、それらを調停して利益を上げるのが自分の仕事である。
いつだったかそんな話をしたルイの目は、遠くを見るふうだった。わたしはそこに彼女の屈託を見たと思った。大学院時代、彼女が自動運転車の研究をしていたことは聞いていた。それから卒業後、大手の保険会社に就職するまでに何があったかは知らない。しかし、すくなくともそれが彼女の望んだ道のりではなかったのはたしかだ。
視線に気づいたのか、ルイは笑って言った。
「そういうリョウこそ、犬は専門でしょう」
直後、沈黙が流れた。しばらくして、ばつの悪そうに視線を落としたルイが謝った。
「……ごめん。つい」
「いいよ。気にしてない」
次はわたしの番だろうと思った。さっきはルイの気遣いに助けられた。ならば次は自分がそうするべきだと。わたしは機体のそばに膝をついた。胸と後ろ足の付け根に腕を入れて抱え上げる。
「けっこう重いなあ」
「金属の塊だもんね」
「ルイ。それ、持ってきてくれる」
顎でプラットフォームを指し、金属の犬を抱えたまま廊下を進んだ。
機体の重みと感触は、これまで何百と抱き上げてきた犬のどれにも似なかった。大きさと重量のバランスが違う。硬質でほんのり冷えた表面の手触りが違う。もっとも近いのは、犬の屍体。これまで幾度となく抱き上げてきた犬の屍体だった。
平たいクッション型をした充電プラットフォームを二人で設置し、そこに機体を横たわらせた。そうして見ると余計に屍体のようで、わたしは自分の選択を後悔しはじめた。このまま二度と起き上がらないのではないか。起き上がったとしても、それは動く屍体にすぎないのではないかと。
もちろん、そうなのだけれど。
「それにしても、色々と腑に落ちないわね。ロゴは見たことある会社のだったけど……」
「っていうと?」
悲観的な想像を払おうと、わたしは尋ねる。
「代替ペットならARでもVRでもあるじゃない? それをわざわざ機体を用意しといて、こんなデザインって。技術的にはいくらでも似せられるはずなのに。それにいちばん納得いかないのは自律制御ってとこ。せめて、クルマでやってるみたいなクラウドとの併用にしたほうが効率がいいはず。なんでわざわざこんな前時代的なロボットを……ああ、ごめん」
ルイが補足をする。
「ようするに、いわゆるロボットみたいに自分で考えて自分で動くか、それともガワだけ用意して外から操るかってこと。今どき自律制御との併用をしてるのはクルマくらいよ」
「どうして」
と尋ねるわたしにルイは頷いた。
「
認知・判断・操作。運転行動の三要素とされるそれらを、現代の
ルイが語ったのはおおむね、そうした内容だった。
「クルマはそうだとしても、ふつうのロボットは?」
「それこそ全部クラウドAIね。クルマは電波が途絶えて制御を外れた場合に備えて、ある程度の自律性が要求される。でも、そうじゃないなら、わざわざ制御機構を中に入れるのは非効率的。完全自律制御の家庭用ロボット犬なんて、ちょっと信じられないな」
「じゃあ……」
わたしがさらに尋ねようとしたとき、涼やかな鐘の音が鳴った。わたしたちが振り向くと、そこには白いクッション型の充電ターミナルの上で立ち上がろうとする、一頭のコーギー犬がいた。ルイが息を飲むのが聞こえた。さっきのは充電完了のチャイムだったのだと、わたしはぼんやりと考えた。
クォウ。
と、その犬は一声鳴いた。
2
リョウが(わたしのアカウントで)買ったその犬は金属でできていた。金属でできた犬なのではない。犬を買ってきたら、たまたま金属でできていたのだ。機体が届いて一ヶ月、その感覚が抜けなくなってしまった。
機体の動きは、それくらいに犬らしかった。無機質な質感の金属の体躯に、四列に並んだカメラアイ。口も鼻も形だけ。外見はぎょっとするほど作り物めいているのに、それが辺りを駆け回り、吼え、尾を振ってわたしに飛びつこうとするさまは、犬以外のなにものでもなかった。
とはいえ、わたしはペットを飼ったことがないから、この感覚が正しいかはわからない。生まれつき、毛をもつ動物にはみなアレルギーがあるのだ。子どもの頃から生き物に囲まれて育ったリョウとは真逆で、だからそれについて、リョウはわたしをたびたびからかった。
「ルイのさわれる動物は人間だけだね」もしくは、「ルイにさわれる動物は、かな」と。
そういう恥ずかしいことを平気で言う女はいま、公園でボールを投げている。キャッチボールの相手はもちろんシロと名付けた犬で、キャッチはもっぱらかれの役目だった。リョウは公園の芝生に座り込んで、ボールを受け取っては遠くに放ってやるのをくり返している。
五十年前には世界最長だったという長いベンチに座って、わたしはそんなリョウの様子を眺めた。彼女はここ三ヶ月で、いちばん生き生きして見えた。だからたぶん、かれは本当に犬らしいのだろう。わたしよりも遥かに長く犬と接してきた彼女が、うっすらと笑みさえこぼしているのだから。
ゆっくりと浮上してきた思いに、わたしは自分を恥じた。リョウは人よりも人以外を愛するひとで、出会って以来、わたしはそのことを思い知らされるたび、情けない気持ちを自覚させられた。ユキと名付けられた犬もそうだった。彼女を喪ったリョウは、まるで母とはぐれた迷い子のように見えた。
わたしは彼女の友人になれる。恋人にもなれる。けれど家族にはなれない。それは彼女の問題ではなく、わたしの問題だった。ずっと前に――彼女に出会うよりも前に受け容れたことだけれど、ときどき、たまらない虚しさが吹き寄せた。
ぱ、と陽が目を射した。益体のない考えを切り上げて、視線を移した。
シロが体を捻りながら跳び上がり、ボールをキャッチした。トンと着地してから、金属の機体が滑らかに駆けてくる。それは喜びに跳ねるコーギー犬にしか見えず、しかし表面に陽が反射するたび、物でしかないことに気づかされた。夏も終わりだからか、日曜の昼時にもかかわらず公園に人影は少なく、奇妙な外見の犬に気づく者はいなかった。
シロのAIには自己学習機能が与えられていた。もちろん、今日び洗濯機だって学習をする。使用頻度や洗濯物の重量、種類、個数、あるいは使用者のパーソナリティ情報から、自動で最適化されるという按配だ。しかしシロはそれより遥かに高度で複雑だ。シロは学習により成長した。到着時にはカーペットにすら蹴つまづく仔犬だったかれは、いまや青年期に差しかかっていた。
たぶん、それが自律制御を必要とする理由だった。すべての生き物の赤子がそうであるように、かれは環境を通して学習する。既存の動作パターンをなぞるのではなく、動作パターン自体を自ら発見していく。そうして個々の機体ごとに、いうなれば個性を獲得していくのだ。
なるほど、まさしく一頭の犬だといえた。
わたしはシロとじゃれ合うリョウを眺めながら、疑念が形になるのを感じていた。シロはあまりにもよく出来ていた。そこに投じられているのは、この分野の先端――あるいはその一歩先にあるような技術だ。
わたしは思いたって、携帯端末に自分のアカウントを呼びだした。そこにはネット上での購買履歴や閲覧履歴が、クレジット情報と共に記録されている。タイムスタンプを検索にかけて一ヶ月前のデータを呼び出した。
案の定、わたしがロボット犬のテスターに応募したという記録はどこにもなかった。
リョウが記録を消去したというのも考えづらかった。機体が届けば知られてしまうのに、履歴を消しても意味がないからだ。
だから、答えは簡単だった。テスターという話自体が嘘なのだ。
リョウが何かを隠しているのは、薄々わかっていた。そもそもの始まりからそうだったのだ。三ヶ月前の事故以来、すべてが変わってしまっていた。あるいはすべてが終わってしまっていた。ただ、わたしが、それを指摘してしまうのを怖がったのだ。
「リョウ」
声をかけると、リョウはシロと共に走ってきて、わたしの隣に腰かけた。肩を軽くはずませている。仕事を辞めて以来伸ばしている髪をかき上げて、首元をタオルで拭った。マルハナバチのロゴマーク。ここ三ヶ月は見る影もなかったが、元々、わたしなどよりよほどアウトドアな性格なのだ。
「どうしたの」
足元にシロを寝そべらせ、リョウはスポーツドリンクに口をつける。
「本当のことを話してほしい」
「本当のこと?」
ペットボトルから唇を離し、リョウはそう聞いてくる。
我ながら他に言葉を選べないのかと思った。大事なことを話すとき、わたしの言葉はいつだって安っぽくなった。その安さが、自分自身に由来するものであることをわたしは願った。
「シロのこと。わかるわよね」
傍らにペットボトルを置くと、リョウはかがみ込んでシロの頭を撫でた。シロは嬉しそうにリョウの手に自分の頭を押しつける。その頭部が柔らかくも、温かくもないことをわたしは知っている。
「狡い聞き方だね。誰だってそう言われたら、何かしら思い当たるに決まってる」
けど、と皮肉っぽくリョウは続けた。
「わかるよ、もちろん。思ったより遅かったくらい」
「じゃあ」
「うん、嘘だ。テスターなんて応募してないし、そもそもこの子は商品じゃない。まだ今は。あと何年かな……だから、機体もAIもテスト中っていうのはちゃんと本当。文字通り研究段階」
そこでリョウはわたしを振り返った。
「どうしてそんなものを?」
わたしは頷いた。
「ルイには、わたしが院で何をやってたか、話したことなかったよね」
リョウがわたしと同じ大学で博士まで修了したのは知っていた。しかし、学部も学年も違ったし、知り合ったのは卒業後だったから、それについて聞いたことはなかった。あえて話題に出すのが憚られたのもある。六年制の上、卒業後に大半が就職する学科にあって院進した彼女が、臨床医として働いているのを見れば、何らかの事情を察するのは難しくない。
だが、そういうことなのだ。
「仕事、辞めたわけじゃなかったのね」
「ううん、本当に辞めはしたんだ。退職じゃなく転職ってだけで。実際、すこし前から手伝ってはいたから、名目上に近いんだけれどね。本腰を入れるためにさ」
「これが本腰?」
わたしは足元のシロを示して言った。犬の姿をした機械が、これまで以上に遠く思えた。
リョウはわたしの言葉を無言で肯定した。
こんもりと盛りあがる梢を、雲の影がかすめていく。一年を通じて日照の多い十勝平野では、緑とは光ではなく影の色だ。澄んだ大気と高い空とたっぷりの日射しが、地上にまみどりの影を落とす。
「どうして嘘をついたの」
「説明するのが面倒だったから……って言ったら、怒るよね」
「当たり前でしょう」苦笑を浮かべているリョウに、深いため息が出た。「でも、それが本心ってわけね」
「うん」
わたしはベンチから立ち上がった。リョウはちょっと驚いたような顔をした。座ったリョウとわたしとでは、視線の高さはずいぶん違う。その距離を埋めるように、あるいは賭け金を置くように、意識して手をさし出した。
「もちろん、説明してくれるんでしょ。行くよ」
わたしは行きつけの定食屋の名を出す。
リョウの目はすこし揺れ、けれど、最後にわたしは賭けに勝った。
「うん、お腹空いた」
シロを抱え上げてリョウは言った。
「もちろん奢ってもらうわよ。仕事、辞めてなかったんだからさ」
不平の声を聞き流し、わたしは駐車場へ向かった。
3
わたしとルイの共通点は、互いによく食べることだ。
店選びの第一条件は量。次に味と値段が来る。そもそもの出会いからして、懐かしさにかられて立ち寄った学生街の大衆食堂だったわたしたちだ。二人で食事をする際の選択肢に、洒落たカフェやレストランが入ったことはなかった。
そうしてなかば必然のように、この店にたどりついた。
白樺通りから競馬場を通りすぎ、西町公園を回り込む。いかにも人好きのする関西人の店長が一人で切り盛りしている店で、メニューは昼・夜ともに日替わりの定食が二種類のみ。たいていはA定が肉で、B定が魚。珈琲を付けても850円。一般住宅を改装した佇まいや家庭的な味付けとも相まって、子どもの頃、友だちの家に遊びに行ったら料理好きの父親が昼食を作ってくれた、というような具合だ。
「いらっしゃいませー」
おお、とわたしを見た店長が声を上げる。
「二人で来られるのは久しぶりですね」
彼はわたしたちを学生時代からの親友として理解している。仕事仲間と来ることもあるルイはともかく、わたしがぱったり訪れなくなったのには、何か思うところがあったのかもしれなかった。
「あはは。ご無沙汰してます。仕事で色々ありまして」
「ああ、そうかあ。お医者さんともなると大変だよねえ」
店長は朗らかに答える。
「鮭の塩焼き、お願いします。二人とも」
話がこれ以上進む前にと思ったのか、ルイが話に割り込んだ。注文は入口のメニューを見て決めていた通りだ。店長が店奥に引っ込むと、やがて香ばしい匂いと音がただよってきた。食事時からズレていたからか、わたしたちの他に客はおらず、料理はすぐに運ばれてきた。
主菜の塩焼きの脇にサラダが盛られ、小鉢が四個と漬け物。大根の味噌汁。どれも並以上の盛り具合。これで750円だというのだから信じられない破格だ。
「相変わらず、日本昔話って感じよね」
店長が盆を置いて去った後で、ルイが目を細めてそう言った。それは彼女のお気に入りの比喩だ。たしかにテーブルの上では、漫画かアニメで見るようなこんもりと盛られた白飯が湯気を立てている。
「いただきます」
たぶんこれだけは出会ったときから変わらない熱心さで、わたしたちは手を合わせた。
肉厚の鮭は箸でつまむとほろりと砕け、口の中で滋味がひろがる。地元産の白米の甘みがそれに続く。今日の小鉢は、ほうれん草のお浸し、キュウリとワカメの酢の物、カボチャの煮付け、きんぴらごぼうといったラインナップ。どれも変わらない、シンプルだが間違いのない味。
まったく夢中になってわたしたちは食べ進めた。
発声器官と摂食器官が同一だから、食事は人間から言葉を奪う。食事は生存に不可欠だから、腹がみたされると人間は喜びを感じる。だから人間は誰かと食卓を共にしたがる。人が人を食事に誘うのは、それが最も簡単に他者との距離を縮める手段だからだ。
食事とは、だから、ある種のシグナルでもある。意思表明でもある。わたしはルイから手渡されたそれに名を付けられないまま、いまだてのひらの上で転がしていた。
「それで。言い訳を聞きましょうか」
それぞれにご飯をお代わりした後で、一息ついたルイが口をひらいた。
わたしは頷いた。
「犬は、嬉しいときに尻尾を振るよね。左右に。ぶんぶんって」
「そうね」
ルイはわたしを探るように見つめる。
「でも猫は苛立った時に尾を振る。振り方にもよるけど――何か気になるものを見つけたときはゆっくり左右に振ったりもする――大きく激しく振っているときは、たいていは怒りの表明。犬とは真逆だよね。面白いと思わない? わたしは子どものとき、このことを知らなかったから、初めて触った猫に思いっきり引っかかれて……ほら、右耳のところだけど、まだ傷があるでしょ」
「待って、リョウ。それが何に」
「関係ある。見ればわかるんだよ。その猫が苛立っているかどうかなんて、本当は。尾をばたばた振っている猫が犬と同じく喜んでいるんだと勘違いするのは、『尾を振っている生き物は喜んでいる』と教条的に理解している人間だけなんだよ。生まれつき、わたしにとってはすべてがそうだったんだ」
わたしは告げることにした。
「子どもの時からわたしには、他者の感情を読み取ることができなかった。犬も猫も、人間に対しても、まったくね。十歳の時、そういう異常で、障害なんだって教えられた。ちゃんと名前もついていた」
「でも、」
「そうは見えないでしょう。わたしだって気づかなかったくらいなんだから」
わたしは笑った。それをルイがどう読み取ったか、わたしはそれを真の意味で読み取ることができない。ルイはなにも答えないまま、わたしの話に耳を傾けている。
「幸運だったのは、犬が尾を振っているときはその犬は喜んでいる、というような知識が世界には山ほどあって、それを学ぶことができたこと。AIが普及してからはかなり楽になったよ。ある程度はリアルタイムで、他人の感情を分析できるようになった」
わたしは右耳の上を叩き、そこに埋め込まれた機器によるカンニングを告げる。
「だから人並みには人間らしく見えるはず。これでもだいぶ努力したんだよ」
だが、ひとつだけ恐怖が残った――恐怖と呼ばれるべきものが。
それは他者とのコミュニケーションではない。それはわたしが生きる上で不可欠なものではなかったから、多少の齟齬があっても構わなかった。こうしてルイが傍にいるのが幸運なのであって、それはわたしにとって自然ではない。
わたしの恐怖とは、わたし自身についてだった。
脳の器質として、わたしは他者の情緒を読み取ることができない。他人についてもそうだし、自分についてもそうだ。わたしには、わたしの持つ〈これ〉が、本当に感情と呼ばれるものであるのか確かめることが、原理的に不可能だった。陳腐な表現だけれど、わたしにとってのわたしは、他すべての人間がそうであるように、感情を持たない人間だったのだ。
「だから、わたしの研究は犬の情動になった」
動物の情緒と、それを示す行動のパターンのプールは、相互の感情のやりとりに基づく高度な社会を築き上げた人間のそれには、及ぶべくもない。だからこそ研究には最適だった。動物の感情表現の基盤を、わたしは犬の脳から探り出そうとし、そしてその一部に成功した。
「お待たせしました」
珈琲が運ばれてきて、会話は中断になった。店長が盆を下げながら尋ねてくる。
「ご飯、足りました?」
「はい。ごちそうさまでした」
いつも通りの受け答えの間、わたしは、車の中で眠っている犬のことを考えていた。ユキがわたしの母ならば、かれはわたしの子どもだ。あるいは彼女とわたしの子どもなのかもしれないと。
珈琲に口をつけたルイは、さほど動揺しては見えなかった。それじゃあ、と口をひらく。
「シロは、その研究成果を利用しているってわけね」
「そう。二年くらい前に、教授を通して声が掛かって。今はいちおう共同研究ってことになってる。もちろん主導はあっちだけどね。AIは専門外だから」
「どうしてまた始めようと思ったの。一度は、やめたんでしょう」
カップをソーサーに置いて、ルイは頬杖をつく。その綺麗な目がわたしを見る。それを見返すことができず、わたしは珈琲の黒い液面に目を落とした。
「やめたのは、わたしのアプローチでは、わたしの欲しい答えは得られないってわかったから。また始めたのは、それが得られるかもしれないと思ったから」
「答えって?」
本当に自分には感情があるのか――ないとしたら、〈これ〉はいったい何であるのか。
言葉にするには勇気が必要で、わたしにはできなかった。代わりに言った。
「パピーウォーカーってあるでしょう。盲導犬がいずれ職務についたときのために、社会化し、なにより人間に愛情を持てるように、
「ロボットの犬が、人間を愛せるかどうか?」
ルイが眉をしかめた。それが示すのは「不快」のはずだ。
「無理だと思うでしょうね。かもしれない。でも、すくなくとも、そうすればわかる。他者の感情に共感することができない存在が、感情を持つことができるのかどうか。そうすれば、」
「そうすれば、あなたにも感情があるって証明できる。シロに人への愛情が芽生えたなら」
鼻を鳴らし、ルイはゆっくり頭を振った。
「ばからしい」
わたしはルイを睨みつけた。それが怒りを示すジェスチャーだと知っているからだ。ルイには珍しい挑発的な言動もそうだが、口にしてもいないはずの内心を言い当てられたからでもあった。
「怒るなら怒ったら。気づいてないなら言ってあげるけど、わたしもずっと怒ってるわよ」
動じたふうもなく言ってのけたルイに、わたしは虚を突かれた。
「その愛情っていうのはどうやって測るのよ。シロに『愛してる』とでも喋らせる? いや、それじゃ本当のことを言ってるかわからないから、ポリグラフでも使ったほうがいいかもね。機械の感情を機械で測定するの?」
「行動を評価する。評価基準はいくらでもある」
「だったらそれを自分に使って、評価してみればいい。自分に感情があるのかどうかを」
わたしを睨んで吐き捨てると、ルイは珈琲の残りを飲み干し、横を向いた。彼女がこのような態度をとるのは滅多にないことだった。
その頬にひとすじ、涙が流れた。
――わたしにはその身振りの意味がわからなかった。
だから、わたしは叱られた犬のように黙り込むほかなくなった。
いつもであれば耳元でささやいてくれる声も、今回ばかりは沈黙していた。窓辺に置かれた鉢植えの葉が、わたしたちのテーブルにまみどり色の影を落としていた。わたしにはそれがわたしたちの間に横たわる暗い疎水であるように見えた。
コミュニケーション補助AIに問題はなかった。わたし自身の学習が不足していたわけでもないはずだ。そしてそれは、生得の脳の器質のせいでもきっとないのだ。
店のラジオでは古い歌が流れ、奥のキッチンからは洗い物の音がした。蛇口から流れる水と、食器がかすかに触れ合う音。美しい旋律と歌声が、その上にただ静かに折り重なった。
これほど人のこころに触れたいと思ったことはなかった。
長い時間があった。
「ルイ」
「リョウ」
わたしたちは同時に互いを呼んだ。
顔を上げたわたしの前で、ルイは、見たことのないほど穏やかに微笑んでいた。目尻には涙の粒がきらめいている。
「さっきから、理解できないって顔してた」
その微笑に釣り込まれるようにわたしは頷いた。
「お願い、教えて。いまのはどういう意味……」
それは初めての、これまで誰にも尋ねたことのない問いだった。
ルイは答えた。ずっと年下の子どもに向けるような、すこし呆れの入り交じった表情で。
「これがわたしの愛なのよ」
わたしはそれをずっと前から気に入っていた。
「あなたが人間だろうが、ゾンビだろうが、犬だろうが、AIだろうが関係ない。ただ、覚えていてさえくれればいい。これが、他の何でもなく、鏑矢ルイがあなたへと向ける愛情なんだってことを」
小さな咳払いが聞こえて、わたしたちは振り返った。
そこには珈琲のポットを片手に、困り顔の店主が立っていた。そうだった。この店では珈琲は、一度頼むとポットが空になるまで、勝手にお代わりが出てくるのだ。いかにもこの店らしいサービス。今日はそれが裏目に出た。
先ほどの台詞は聞かれていただろう。見る間に動揺の広がるルイを横目に、わたしは言った。
「実は、わたしたち付き合ってまして」
驚いてこちらを振り向くルイに、わたしは小気味よい気分になる。
「ああー……それは、そうか。そうなんだね」
人の良さそうな丸顔に驚きと戸惑いの表情が浮かぶ。そうだろうと思う。首都圏あたりはともかく、こんなド田舎で同性のカップルを見かけるのはヒグマに遭うより珍しい。他人にそれを告げることはもっとだ。店長の反応はごく自然なものだった。
「ありがとうございます」
「え」
ルイが目を丸くした。わたしも同じ思いだった。
「いやあ、そういう話って、定食屋のおっちゃんに、なかなか話してもらえるもんじゃないでしょう。だから、ありがとうございますと思って」
店主は恥ずかしそうな笑みを浮かべた。
「ごめんなさいね。立ち聞きしてしまって。珈琲、入れますね」
それぞれのコップにポットから珈琲を注ぐと、店主はキッチンに戻っていった。恰幅のいい後ろ姿を見送ったあと、わたしたちは顔を見合わせて、どちらからともなく笑いだした。
4
「あれがわたしのだよ」
細く開けたパワーウィンドウから夏の終わりの風が吹き込んできた。
運転席のルイは前を向いたままで、何も答えることはなかった。聞こえなかったのか、あえて答えなかったのか。あるいは、本当はわたしはそれを口にしなかったのかもしれなかった。
だが、どうだとしたって構わなかった。
わたしたちは学ぶことができるのだから。
足元で丸くなるシロは、ふつうのコーギー犬よりもずいぶん重たく、けれどその金属の肌は、陽射しを吸収してかほんのりと温かかった。
心層学習 阿部登龍 @wolful
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