録 ――裏、2

「忘れる――つもりだったんですね、先生」

「そ、そうだ。生きてる人間は忙しいんだ。いつまでも関わってらんねえよ!」


 照明が消える。

 圧倒的な、粘りつくような、闇。

 咲枝が転倒した。

 つないでいた手が離れる。


memento moriメメント モリ,memento mori――死をおそれよ。そう、いつもおまえの背後にる」 

 うたうようなあやかの声。


 闇の中――床に伏す、白い咲枝の顔が見えた。

 思わず駆け寄り、抱え起こす。

「咲枝――?」


 咲枝が顔をあげた。

 うつろに空いたふたつの眼窩。

 あっという間に肉を失い、ミイラのように萎れていく。


 貴広は声にならない喚き声をあげ、闇雲に後退あとずさった。


memento moriメメント モリ,memento mori――ただ踊れ、ただ狂え。見るがいい、死が街を蹂躙じゅうりんする様を」


 が目の前に立った。貴広の口を無造作に両手で開くと、いびつに形を変えながら体内に潜り込んでくる。

 かろうじてっていた貴広の意識が、ぶつんと切れた。



 前触れもなく照明がついた。

「大丈夫、貴広!? 今の、何なのよいったい――」

 咲枝は近寄りかけて、止まる。

 

 この眼は。

 貴広の身体が咲枝に襲いかかる。



 貴広が目を覚ましたのは、雨音に似た、水の流れる音のせいだった。

 ――どうして水が出ているんだ?

「助けて、貴広! 溺れる!!」

 ただごとではない女の叫び声で我に返る。

「咲枝! どうした!?」

 バスルームだ。ドアに鍵がかかっていて、開かない。

 必死でドアを叩き、小さな窓から中をのぞく。りガラス状になっているので見えにくい。

 ユニットバスに、手足を縛られた咲枝が逆さまに入れられていた。両足を高い位置でシャワーに縛りつけられているので、頭の方が浴槽の底に近い格好だ。さらにシャワーからは浴槽に入るように、水が出ている!

 このままでは、本当に溺れ死んでしまう。咲枝も何とか逃れようともがくが、今の態勢では無理だ。

「咲枝! 咲枝!!」

 ドアを何とか開けようとするものの、うまくいかない。

「下に降りて! 向かいのコンビニなら絶対、人いるから! 助け呼んできて! このままじゃ死んじゃう!!」

「お、おう、待ってろよ、すぐ来るからな!」

 貴広は走り出した。

 異様な状況、それが思考を麻痺させていた。もしも冷静だったなら――咲枝が猿轡をされていて、喋れなかったことに気づいたかもしれない。



 走る。そんなに残された時間はない。

 エレベーターのボタンを押すが、待ちきれず、階段を駆け降りる。

 絶対に助ける!


 煌々こうこうと明るいコンビニは貴広に安堵感をもたらした。きっと、大丈夫。

 奥にいるバイトらしい店員に話しかける。

「きみ、手を貸してくれ! 人が死にそうなんだ。すぐ前のマンションなんだよ、一緒に来てくれ――工具も、バールとか金槌とか……」

「いや俺、店番だから無理ですよ」

 カウンターの奥から間の抜けた返事がくる。

 無理矢理にでも連れて行こうとしたまさにその瞬間、凄まじい音がした。

 貴広は突っ込んできた車に撥ね飛ばされる。


 背中をもろにやられた。全身が痛いが、不思議に下半身の感覚がない。

「咲枝……助ける……」

 目の前に、あやかが立っていた。

「脊髄やっちゃったかな? これから一生車椅子だわ。先生はいいわよ、みんなが必死で助けてくれるもの。ありがたいわね、善意のかたまりよ。先生を救うこと第一で、その本人の言うことなんて誰も相手にしてくれない。かわいそうなのは咲枝さん? 死んじゃうね。そろそろ首まで沈んでる頃だし」

「おまえは――はじめから……」

「気分はどう? 恋人は死んで、体力自慢の自分は半身不随。仕事も当然失うわ。車椅子の体育教師なんて笑っちゃうもの。ねえ、言ってよ――死んでも何にもならん。生きることこそ大事だ、って」

「……」

「え、なあに?」

「……殺してくれ、お願いだ」

 貴広は泣いていた。

 全身の痛みと――心を覆う絶望。


「しょうがないなあ、先生」


 再び車が動き出し、貴広の上に乗り上げた。肋骨が折れ、肺がつぶれる。

 大量の血が床を濡らし、二度と動かなくなった。


 ふと、あやかはコンビニの天井についている監視カメラに気づく。

 誰かがこれを見るかもしれない。

 笑みがこぼれた。

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