録 ――裏、1
「
シャワー上がりの濡れた髪で、下着姿のままの
冷蔵庫から、買い置きの冷えた缶ビールを取り出す。
夜も一時を回り、惰性でつけっぱなしのテレビはたわいもない深夜番組を流している。
「服、着ろよ。パジャマでもなんでもいいから」
「あ、
にやりと笑うと咲枝は、豊満な胸を両手で寄せてみせた。
「そういうんじゃないんだよ」
貴広は苛々と咲枝の言葉を遮る。
「誰かに見られている感じがして、さ」
「気のせいだって。ここマンション五階よ、どうやってのぞくっていうの。ちゃんと鍵はかけたわよ。こんな深夜にいきなり来る奴もいないだろうし」
咲枝が缶ビールに口をつける。いつもうまそうに飲むよな、と貴広は思う。
「それはそうだけど――」
ここ数日、粘るような視線を首筋に感じていた。振り向いても、当然のことながら、誰もいない。
まるで不安障害だ。
他人に来てもらえば気が紛れて、いやな感覚も消えるかもしれない。そう思って貴広は、付き合って二年になる咲枝に泊まってもらったのだ。
まったく効果がなかった。
「まだあのこと、気にしてるの」
鏡の前に陣取った咲枝は、ドライヤーで髪を乾かしながら訊ねる。
「そりゃ教師になって初めて担任受け持ったクラスで自殺した人が出ちゃ、トラウマにもなるわよね。でももう一年たつのよ」
「そうだな。もう一年か」
「その子には悪いと思うけど、もう済んでしまったこと。貴広はこれからも生きていかなきゃいけないの。あたしと一緒に、ね?」
貴広は感激した。
「ありがとう、咲枝――」
「貴広、重いって。ちょっと……あ」
咲枝はのしかかろうとする貴広を押しのけて、半身を起こす。
「何。どうしたの」
「そこの貴広の
「着信音、鳴らなかったぞ」
「だから一瞬で、すぐ止まったのよ。間違い電話かな」
「誰だよ、こんな時間に」
「あたしに怒らないでよね」
盛り上がった気分に水を差された貴広は乱暴に携帯を
「着信はしてないな。お、マークがついてる。……? 留守電?」
「それって変じゃない? 着信してないのに伝言があるの?」
「壊れたのかな」
テレビが急に、消えた。
「おい、テレビもかよ。家電が壊れるときは同時ってよく言うけど――」
呟いて、貴広は伝言サービスを呼び出す。耳に当てる。
『お久しぶりです、先生』
――声に聞き覚えがあった。それが誰だったか……。
『自分のクラスにいじめなどなかったと言い切られましたね。死んだやつには何言っても構わない、そう思ってらっしゃるんですか』
「わああっ」
画面から突き出した白い――血の気のない手が貴広の手をつかんだ。反射的に携帯を投げ捨てようとするが、離そうとしない。
「貴広っ!」
咲枝が
「大丈夫? 今の何!?」
手に爪の跡が残っている。携帯は床に落ちてブラックアウトしていた。完全に壊れたようだ。
「死んだ――自殺した子、鏑木あやかの声だった」
音が鳴りだした。
貴広の携帯はもう動いていない。別の、なにか。
咲枝にはバッグに入れっぱなしの自分の携帯の着信音だとわかった。箒を持つ手に力が入る。怖い。
「まさか――ね」
音が途切れない。普通ならとっくに不在として留守電サービスに切り替わっているはずなのに。
鳴っている。
「おいやめろ、出るな」
咲枝は
速攻で電源を切る。
「何だか知らないけど、死んでからも人に迷惑かけんじゃないわよ!」
「それは逆だわ」
――声。機械を通してではない、生の囁くような声が、咲枝のすぐ後ろから聞こえた。
足が硬直している。動けない。
全身が総毛立つ。
――いる。後ろに、いる!
「あたしは人に迷惑かけるために、ただそれだけのために、自殺したんだもの」
「咲枝!!」
貴広に強い力で引っ張られながら咲枝は見た。
髪が長く、顔の輪郭がぼやけてはっきりしない、だが眼だけが異様に光る少女を。
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