後
学校から帰ると、二階の自分の部屋に直行して鍵をかける。
神経質なのは自分でもわかってる。最近、肌にざらつくような、嫌な感覚がつきまとっている。それを振り払いたかった。
制服を脱ぎもせずにベッドにもぐり込み、ヘッドホンをつけた。昔から好きなアーティストの曲。
階下でガラスの割れる、耳障りな音。明美はヘッドホンをずらし、怒鳴った。
「ちょっとー。なにやってんの!」
「悪ィ。コップ割っちゃって」
弟の声が返ってくる。中学生の晴夫は運動神経はいいくせに――サッカー部のレギュラーだ――がさつですぽんと抜けているところがある。
「かりかりしてんな。新しい学校、上手くいってねえの?」
美也子がおかしくなった時点で、とにかく理由は話さず――話せず――両親を押し切って転校させてもらった。両親も学校で不幸が続く今の環境よりは、と渋々認めた。
美也子とは小学校からの付き合いだ。あの美也子が精神を病むわけない。実際、あやかが死んだあとだって「あいつバカだね」って笑ってたくらいなのに。
何かがあったのだ。わからないけど、何かが。
時期的に珍しい転入生ということでちやほやされるのも、悪くなかった。ようやく新しいクラスの顔も覚えて、さあこれから――という頃。
テレビのニュースで流れるほどの事件が起きた。
『ホワイトエンゼル心療内科殺人事件』。
錯乱した看護士が、医師と、いあわせた患者と、そのつきそいで来ていた母親を殺して、最終的には自分の首を切った。
普通ではない凄惨な事件。その患者というのが美也子だった。
スマホを使い、明美はネットに流れている情報を調べた。最初のニュースで見たのとは違い、首にある傷口の方向と様子から判断して――美也子は自殺だったらしい。凶行を目の当たりにし、もともと自傷癖のあった美也子は発作的に自殺したという書かれ方をしていた。
美也子が? 自殺?
「姉ちゃん最近ぼーっとしすぎ。 生理かよ?」
「うるさいな!」
「おーおー怖ェ」
ぷるるるるる。
スマホの振動と共に着信音が鳴る。
「んもう。誰?」
明美は画面を見て、凍り付く。
『みゃーこ』。
美也子から? 嘘、もう死んでるのに、
美也子の家族、とか?
ぷるるるるる。
出ちゃ駄目だ、と頭ではわかってる。でも。耐えられない。
「誰?」
『明美? みゃーこだよ。新しい学校もう慣れた?』
「嘘!! 美也子じゃない。いったい誰よ!」
『あれ――似てなかった? 今ちょっとハイでね。あたしの声、憶えてない?』
まさか。
「……あやか?」
「――みつけた」
電話からの声ではなかった。
鍵はかけたはず。
ぱりん、とスマホの画面が割れた。何もしないのに。大量の髪の毛が噴き出して、内側から壊していく。
真っ黒になった画面に、明美の顔が映った。
――背後に立つ、もう一人の顔も。
「ひっ……」
明美の意識が飛んだ。
気がついたとき、明美は自分の身体が乗っ取られているらしいことに唖然とした。
――いったい何してるんだ、あたし?
ベッドのシーツを窓の外の手すりに結び付け、反対側を丸く縛って。首にかける。自分の意思では止められない。
首吊り!? なんで? あたしこんなことしてるの?
「近所の人にも明美のしまらない死に方見てもらおうか。運が良ければ、通報が間に合うかもしれないよ」
あたしがしゃべっている。このままじゃ、あやかに殺される!
足が窓枠にかかる。
――觀自在菩薩行深般若波羅蜜多時
もし美也子の件があやかのしわざならと、密かに覚えてた般若心経。一か八かで唱えてみる。
ぴくりと体が震えた。効いた!?
――照見五蘊皆空度一切苦厄舍利子
「ううっ」
怯んだ。身体が動く! 明美は素早く首のシーツの輪を外し、鍵を開けて部屋を飛び出す。
「ママ! 晴夫! 助けて!」
階段を駆け下りようとした時。
足が急にもつれた。階段を転げ落ちた、その先に――。
ガラス瓶を割った破片が敷き詰められていた。
「うぎゃあああああぁああ!!!」
「霊力もない、そのために修業してもないあんたのお経なんて、ただの
晴夫が包丁を持ってにやにや笑いながら――立っていた。
全身の激痛に涙が止まらない。お腹にも足にも大きな破片が刺さっていた。
向こう、台所に母親が血だらけで倒れている。
晴夫もあやかに乗っ取られて――いったい、いつから?
「今日の夕食は天ぷらだったんだね。もう食べらんないけど」
晴夫は――いや、あやかは――言った。
鍋の中の油を床にぶちまける。
「男の子だもんね、こういうのも隠してるんだ。知ってた?」
ポケットから煙草とライターを取り出す。
煙草に火をつけ、一服する晴夫。
涙を流しながら明美は言った。
「ママも、弟も関係ないじゃない!なんでよ!!」
「そうね、関係ないよねえ。まあ――ついでかな」
晴夫は血まみれの包丁を喉に当て、掻き切った。
鮮血を噴き出しつつ、晴夫の身体が崩れ落ちる。
明美は火のついたタバコが床に落ちるのを見ていた。
瞬く間に火柱が立つ。
必死に外へと這い出ようともがく。全身に激痛が走る。
「たすけ……て……」
「バイバイ、明美」
絶望に振り向く。
自らをも焼き尽くすであろう炎を、明美は見ていた。
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