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 扉の開く音がして、君は顔を上げた。

 寒そうに手をこすり合わせながら入店した女性が、店員に人数を聞かれている。その隙に、母親の足元を元気よく子供が通り抜けて、一足先にテーブルを目指す。遅れて父親らしき男性が現れ、母親と一緒に我が子の待つテーブルへ向かった。

 君はその家族を目で追いながら、ゆっくりと見回した。

 お昼時を過ぎているから空席も目につくが、店内はまだにぎわっていた。店員は忙しそうに歩きまわり、ドリンクバーには入れ替わり立ち替わり人が訪れている。

 そんなファミレスの片隅で、君は彼と向かい合って座っていた。

 喫煙席の壁際にある四人掛けのテーブルだ。隣のテーブルには誰もいないから、落ち着かないほど広々と感じる。

 ランチタイムには満席だった喫煙席も、今は空席が目立つ。大学生らしい男性客三人、遅めの昼食をとっているサラリーマン風の男性が一人いるだけだ。大学生たちは話が盛り上がっているようで、明るい笑い声が絶えない。

 僕は喫煙席の、入り口に近いテーブルを陣取っていた。壁際にいる君と彼の様子が二組の客越しに見える。

 君と彼は食事のために店を訪れたわけではなかったので、ドリンクバーを注文してそれぞれ好きな飲み物を取りに行き、それから一度も席を立っていなかった。最初に注いだ飲み物をテーブルの上に置いたまま、三十分は経っている。彼の飲み物はもうほとんど残っていないが、君のグラスにはまだ半分以上残っている。氷が溶けて小さくなり、せっかくの濃縮還元100%のオレンジジュースの味を薄くしていく。

 大学生たちのように話が盛り上がっているわけではなくて、君はうつむき加減にじっとグラスを見つめている時間のほうが長い。彼が話しかけてくるときも、グラスを見つめたままでいることが多かった。真正面に座る彼を正視できなくて、その代わりとするように、じっとグラスを見ていた。

 彼は、そんな君の態度に不愉快を表明することは一度もない。君が彼を見てくれなくても仕方がないと、最初から諦めているようにさえ見える。

 見てもらうのは諦めていても、彼は自分の言葉を君に届けようとしていた。彼の話を聞いているのかいないのかも定かではない君に向けて、辛抱強く丁寧に言葉を重ねている。口調は終始穏やかで、君に向けるまなざしも温かい。

 それなのに君は、彼に視線を投げかけられなかった。それだけじゃない。時折唇を引き結び、眉根を寄せることさえある。何かに堪えるように、両腿の上に置かれた手を固く握り締める。

 彼は、君が何故そんな表情を浮かべるのか、自分を見てくれないのか、その理由を知っている。

 君が彼と知り合ってからもう五年経っていて、プライベートでも遊ぶことのある同僚の一人だ。同期で入社して配属先も同じだったから、仕事の悩みや愚痴も言い合った。僕は君から、仲の良い同僚だという話を何度も聞いていた。

 君がしょっちゅう苦しげな表情を浮かべるようになって、もう二年が経つ。

 最初の半年くらいは、君は涙と悲しみの海で溺れていた。昼間は気丈に振る舞って仕事をしていても、家に帰ると君の我慢は簡単に限界に達して泣き崩れていた。

 僕はそれを目の当たりにしていたのにどうすることもできなかった。励ますこともできず、ただただ君の嗚咽を聞くことしかできなかった。

 やがて泣く回数は減っていったけれど、胸に重い詰め物をされてしまったように、苦しそうな表情が顔を横切ることが多くなった。

 僕はそれを間近で見ていたし、彼も見ていた。

 彼は君をよく気にかけていた。君が苦しくなりそうな話題は極力避けて、君がほかのことに気を移せるように努めた。君が感情の海に溺れなくなっていったのは、時間の流れもあるだろうけれど、彼の気遣いも大きかっただろう。

 彼は同僚という枠を踏み越えて、悲しみの淵に立つ君の手を取ろうとしていた。

 そして君は、差し出された彼の手に確かに触れた。だけど、どうしても握り返せなかったのだ。今も握り返せないままでいるから、君は彼の顔を見ることができない。

 彼が君のことを想っているのは間違いなくて、君もそれをはじめ薄々と、徐々にはっきりと感じるようになった。

 君は彼の人柄をよく知っているから、戸惑いながらも嫌だとは思わなかった。むしろ近頃では、同僚で友人だったはずの彼を、それ以上の存在として意識するようになっている。

 君の気持ちは、少しずつだけど確実に変化しつつあるのだ。

 僕にはそれがよく分かっていた。君が、僕の前でしか見せていなかったはにかむような笑みを、彼の前でも浮かべるようになったから。

 だけど今の君には笑顔がない。ファミレスを訪れたときから表情は沈んでいた。彼から想いを打ち明けられて明るくなってもおかしくないのに、君はむしろ彼の言葉を聞けば聞くほど胸が苦しくなっていた。

 彼から告白されたのは今日が初めてではなかった。もう二度も、君は彼の告白を受けている。

 君は本心では、彼の想いに応えるのを望んでいるはずだ。だけど、それをしてはいけないという戒めの感情が冷たく太い鎖となって君をがんじがらめにしている。

 君は、これまでの君と僕を裏切ることになると思っているのだ。だから、彼の手を握り返せない。



 僕と君が恋人になってから七年、僕と君が別れてから二年が経った。

 君が今でも僕のことを恋人と思っていてくれるのは嬉しい。だからこそ、悲しみに暮れていた君を彼がわずかでも救ったという事実には胸が痛む。

 君が少しずつ立ち直る姿に安堵しながらも、僕は彼に嫉妬していた。僕ではどうしようもなかったと分かっていても、君を励ますことのできる彼がうらやましかった。できることなら僕が君の悲しみを止めたかった。涙を拭う手を差しのべたかった。

 だけど、時は流れていく。悲嘆に染まっていた心も、ゆっくりと変わっていく。僕も、君も。

 君の気持ちが彼に向き始めていると気がついたとき、僕は本当にどうしようもなくなってしまったのだと愕然とした。

 だけど、それではいけないのだと今はもう分かっている。苦しむ君を見ているうちに、僕は分かってしまった。

 君もこのままではいけない。彼の想いに応えられないと苦しんでいてはいけない。

 君が、僕と彼のあいだで揺れ動いているというのは、本当に正直なことを言えば、今でも辛い。だけど、君が苦しみ続ける姿を見ているのはもっと辛い。

 胸はきりきりと痛むけれど、彼の想いに応えることが君の幸せに繋がると信じている。

 僕ではもう君を幸せにすることはできないから。悔しくて悲しいけれど、絶対にできないから――。



 いつの間にか、サラリーマン風の男性客はいなくなっていて、大学生たちも腰を上げてレジで支払いをしている。禁煙席の客も減っていて、君と彼の周りは波が引いたように静かになる。

 彼が、いつまでも待っている、と言った。

 ありったけの真摯さがこもった声に、君はようやく顔を上げた。

 恋人だった僕のことを忘れなくてもいい、僕のことをひっくるめて君が好きなんだ、と彼は言葉を重ねる。

 君の唇が小刻みに震える。目にいっぱいの涙をためて、忘れないといけないと思ってた、と声を絞り出す。涙が筋を残して君の頬を伝い落ちていく。

 彼は優しく微笑んで、忘れなくていいんだよ、ともう一度言った。

 君は嗚咽をこらえるように手で口元を覆い、小さく何度も頷く。

 僕のことを忘れてほしくはないけれど、もうこれからは心の奥にそっとしまっていていいんだ、と君に伝えたかった。君が前に進むために。新しい恋をはじめるために。

 君は、まだ時間はかかるかもしれないけど、と彼の想いに今までとは違う言葉を返した。声は涙で震えていたけれど、君の気持ちはしっかりと彼に届いていた。

 彼が、いつまででも待っているから大丈夫、と応えて君はようやく、かすかではあるけれど笑みを浮かべた。

 その笑顔に、僕は安心した。君はこの先きっと、もっとたくさんの笑みを彼に見せることができるだろう。

 僕は席を立つと、君と彼のほうを向いた。

 末永く幸せに。

 もしも僕の声が君に聞こえていたら、満足そうな表情を浮かべる僕の姿も見えたかもしれない。

 だけど君に僕の声は届かない。僕の姿も見えない。



 二年前、僕は車にはねられてこの世を去った――はずだった。

 でも君のことが気がかりで、悲しむ君を置いてこの世を去ることができなくて、死んでからも君を見守り続けていた。

 それもとうとう今日で終わる。

 僕はゆっくりと店の外へ向かう。自分が存在しているという感覚が、一歩前に進むたびに薄くなっていくのを感じる。

 それでも僕は立ち止まらなかった。僕もまた、前に進まなければいけないのだ。

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