忠犬はバーに行く
柱時計が六回鳴った。
就業時間の終わりははじまりでもある。残業の。お先に、と帰る同僚をうらやましい思いで見送りつつ、今日中に終わらせねばならない仕事の続きに取りかかる。
本当は休日のはじまりとしたかった時間から遅れること四時間、ようやく仕事が終わった。
ぐったりしている暇などない。会社を出ると、首輪を外すようにネクタイを外す。会社の犬から、違う犬へと変わるのだ。
まっすぐ向かったの繁華街の片隅。週末だというのに人気のない暗い路地裏に、けばけばしいネオンサインを掲げた店がある。
看板のけばけばしさとは裏腹に、扉の向こうは落ち着いた雰囲気だ。カウンター席しかない店内に、客は一人もいない。
店主は今夜も端の席にいて、グラスを傾けていた。
物憂げな目が向けられる。
「また来たの」
「つれないね」
隣に座ると、待っていたかのように空のグラスを出された。氷が入れられ、琥珀色の液体が注がれる。
「寝ても覚めても、君のことしか考えていないのに」
「うそ」
店主がグラスを置いて、私の左の頬を指さす。
「あまり寝てないし、ビタミン足りてる? 吹き出物」
照明は抑えられているが、隣にいれば小さな吹き出物でも目に付く。だが、すぐに気付かれるとは思っていなかった。
「こんなところに寄らないで、まっすぐ家に帰ればいいのに。今からでも遅くない」
「一人寝は寂しいし、犬はご主人様のところに帰りたいものだよ」
「週末しか帰ってこないくせに、忠犬気取り?」
言葉ほどには怒っていないのは、店主の顔を見れば分かる。
「忠犬だから、今日はこういうものも用意したんだ」
スーツの内ポケットから、小さな箱を取り出した。店主のグラスの隣にそっと置く。掌に収まるくらい小さな箱は、きれいにラッピングしてもらった。
店主は無言でラッピングをほどく。包装紙の下から現れたのは白い紙の箱。箱と同じくらい白い指先が、紙の箱を開ける。その中には、ベルベット生地の箱がぴったりと収まっていた。
やはり無言で、店主はベルベットの箱を取り出した。そっと開ける。
柘榴石のはまった銀色の環が鎮座しているのだが、これまた無言で指に通す。
しばらくの間、色々な角度から眺めていた。
私は琥珀色の液体を舐めながら、観察するように店主の行動を見つめていた。
「週末しか来ない忠犬にしては上出来ね」
店主の唇の端が、少しだけ上がる。
私は喉を鳴らして、酒を飲みこんだ。
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