十八匹め『廊下でどきどき』

 クシビの後について暗い廊下を進む。


『――センセイ、原稿はどうするんです?』


 スマートグラスの電源を入れると不満そうなひつ字の顔。

 のけぞった礼人はなぜか後ろめたい気分になって弁明べんめいした。


「い、いや、追い返すわけにもさ。それにもしかしたら小説のヒントがあるかも――」

『ヒントなら私に聞けばいいじゃないですかっ。こんな夜ふけに女の人にフラフラとついて行って、く、来島さんに申し訳ないと思わないんですかっ?』

「なんでそんな話になるんだ!?」


 何ひとつ色っぽい話ではなかったろうに。

 確かに来島は特別だが、それは礼人の中で完結するべき思いに決まっている。


「来島さんって編集の? ふぅん」

「なんですか」


 耳ざとくクシビが歩調を落としてくる。

 礼人はそれに付きあわず追い抜いた。


「別に。ただ思ったよりいいキャラクターだと思っただけ」

「……?」


 意味をとりかねて思わず振りかえる。

 クシビはその反応に満足したように口端をあげた。


「言ったでしょう、創作物からは作者が透けて見えるって」


 追い越しながらぴっと人さし指を立てる。


「あなたは作家を孤高であるべきものと考えている。未来には一瞬の安息もなく、であればどうして自分の身よりほかを運んでいけるだろう、とね」


 『旧世界のしるし』に込めた思いの一端を寸分違すんぶんたがわず言いあてられ礼人は息をのんだ。


「そんな心持ちでなお誰かを思うのは愛情を受けて生きてきた証拠だわ。知っているから切り捨てられない。手に入らないと分かっていても。でしょう?」


 沈黙。なんというか穴があったら入りたいような気分になる。

 確かに自分は感情をきっかけに書き始めるが、主張が表に出過ぎないようあくまで娯楽小説のかたへ落とし込んでいるつもりだった。だというのに。


「他人の葛藤かっとうは美味しいわ。はた目に見るぶんには余計にね。よくよく悩んでいつか来島さんを助けてあげてちょうだい」

「いや、ですから――助ける?」


 気になる単語につい反論をやめた。


「来島さん、何かあったんですか?」

「シンプルに働き過ぎね。今50作家くらい受け持っているんじゃないかしら」

「ごじゅっ……」


 編集の仕事はあまり知らない礼人にも常軌じょうきを逸した数だと分かった。

 年季のはいった編集者が積み上げた人数だと言うなら分かる。それならば百人、それ以上とコネクションを持つ人もあるだろう。だが来島はまだ20代のはずだ。


「昔より便利になったと言っていたけれど、それでも頭がおかしいくらいに働いてるわ。それこそ何かにかれたみたいにね」


 礼人は猛スピードで去っていく来島のスポーツカーを思いだす。


「もしかしたらどこかでガス抜きしてるのかもしれないけれどね。理解のある恋人の一人くらいいてもバチは当たらないと思うわ。あれだけ頑張っているんだもの」


 胸の奥がかすかに疼いた。クシビに同意しながらもすべてにおいて足りない自分を思って。


「あの、どうしてそんなに仕事熱心なのか、理由は……」

「それは私から聞くことではなくてよ。くす」


 クシビはわけ知り顔で笑い颯爽さっそうと先を歩く。

 が、その足がぴたりと止まったので礼人はぶつかりそうになってしまった。


「っ」


 息をのんだのは自分か彼女か。

 視線の先。庭に面した板戸がほそく開いて月の光が差し込んでいる。

 

 無地の着物にほつれたおかっぱ頭。部屋の障子を凝視ぎょうしするその横顔は髪に隠れてうかがえない。輪郭りんかくはぼんやりとして、全身が透けたように向こう側の景色をうつしていた。

 その首がぱっとこちらを向く。

 小柄な四肢が獣のようにはじけた。まさに驚いた猫のように大きく飛び退くと、がりがりと廊下をひっかくようにして板戸をすり抜け消える。

 しん、とした静けさが場を満たした。


「……あの」


 礼人は振り向く。

 いつの間に入れ替わったのか、三歩半ほど後ろでまし顔のクシビが目をそらした。

 不意に背中がひやりとする。


「あ!」

「な、何!?」


 部屋着のすそが破けていた。

 ぷぅん、という羽音。


「うぐッ!」

「へえっ!?」


 耳元を叩いたがつぶれていた。

 鼻がツンとする。


「ぃいイッキシ!」

「何なのもう! なんなの!」


 かすめた夜気にくしゃみした礼人へ耐えかねたようにクシビが文句を言った。


「あ、すみません、怖がらせてしまって」

「べつに怖がってはいないけれど!」

『お、姉さ、ぁ、ぁう……』


 黒ひつ字が抱きつぶされている。ひつ字がそれを羨ましそうに見て寄ってきた。


『センセイ、今のは“怖い”ですか?』


 学習の評価を求めつつ、抱きます?とでも言うように腕を広げる。


「いやさっきのは……ひつ字はどう思った?」

「ARオブジェクト、ですよね?」

「うん」


 要はスマートグラスなどを通して見ることのできる仮想の物体だ。市街地にいけば無数の看板や店のマスコットキャラクターを見ることができる。公共の場所では設置できる範囲が定められており許可も必要だが、私有地での規制はゆるい。


「八ケ代先生から何か聞いてますか?」


 クシビは首を振る。なら。


「イタズラ……」

「挑戦よ」


 礼人の結論をさえぎってクシビは断言した。仕切り直すようにその髪がかき上げられる。


「もちろん映像だってことは分かっていたわ。そう、これはよそ者である私たちへの挑戦に違いないわ!」

(違うと思う)


 少なくとも礼人は含まれていまい。本能が鳴らす警鐘に従って回れ右した。


「そうですか、じゃあ僕はこれで」

「お待ちなさいな」

「原稿があるんです、勘弁してください」

「逆に聞くわ。これから部屋に戻ってあなた書けるの?」


 ぎくりと足が止まる。


「そ、れは、書くしかないでしょう」

「違うわ。あなたはここから逃げ出すための口実こうじつに執筆を使っているに過ぎないのよ!」

「うっ!? そ、それは――」


 その通りだとは口が裂けても言えなかった。

 小説家は己が常に小説を書きたくてしかたないと信じている。そう思い込もうとしている。そうでなければ収入も立場も不安定極まる職業に生涯こうとする自身を正当化できないからだ。

 逃げ口実に使うなどもってのほか。それはイコール小説が目的ではなく手段であると認めることになる。

 この傾向は「現実から逃げている」と身内知人に言われつづけた、または自分でそう思っている作家ほど顕著けんちょであり、売れない作家に多い。つまり礼人がそうだった。


(言いたい……っ! 関わりたくないので帰って小説を書きます、と……!)


 だが言えば自分が信じる執筆という行為の神聖性をそこなうことになる。書くことへの幻想を抱かずして作家であり続けることはできない。


「そ、そんなことはありません、ひどい侮辱ぶじょくです!」

「なら来るのでしょうね? 書くべきものを掴めていない作家に許されるのは取材だけ。おめおめと机に向かってどうするつもり?」


 退路を断たれ礼人はうなだれる。


「……分かりました。アイデアが浮かぶまでは付き合います」


 が、逆に言えばひらめきさえ得られれば万事を投げ出して原稿に向かうことが許されるのが小説家だ。ここは早々に笑いの極意とやらを会得して戻るのが最善だろうと考えた。


「いいわ、ならまずはあの子のあとを追いましょう」


 クシビは部屋の前の板戸を開けはなった。

 子供が逃げ去った方角には本堂、そして物置だという建物がある。


「……ところであの、落雷坂先生は原稿は?」

「半分は書けたわ。あとは熟成中よ、ココでね」


 クシビが頭を指さす。礼人は脱力した。

 なんのことはない。煮詰まった作家がふたり、脳涼ノウリョウのためさまよい出るというだけの話だった。

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