第2話 死ぬまでにやりたいこと

 眼鏡橋と呼ばれる橋を渡った先に編入先の高校がある。僕は今日からそこの生徒になる。制服を着た人影がふざけあったりしながら橋を越えて桜坂を上り、校門へ消えていく。昔は眼鏡橋に一本だけ残っている垂れ桜も、歩道を挟むようにしてにぎわっていたらしい。都市化が進み、道路整備に伴い、次々に伐採され、残ったのがあの垂れ桜と言うわけだ。

 人は希少価値と言うものに弱いらしい。まだ桜坂に桜があった頃に比べて観光客は増えて、それに比例して近隣には旅館が増えた。

 僕は滅多な事では下を見ないことにしている。ただ、ここだけは見事だ。綺麗な桜色の川が流れている。


「編入生の空知です」

 頭をさげると、空気を読んだ拍手が起こる。

「えー、じゃあ、空知の席はとりあえず窓際の最後尾がいいかな。初日で緊張もしてるだろうし」

 実に朗報。あの夜。僕はフェンスを越えて死にたがっていた彼女と夜通し流れる星屑を眺めていた。彼女は死にたがっていた。おそらく僕が帰れば、彼女は死ぬ。また目の前で人が地面に吸い込まれる。

 彼女はなにも語らずただ星空を眺めた。祈るでもなく、足を宙に任せ、両手を冷たいコンクリートに委ねて。まるで楽しみにしていた映画を見るみたいに。

 僕はそのあと、目を細くした彼女を病室へ連れていった。その途中で拾い上げた大学ノートをなんとなくもって帰った。

「…明日も来る?」

 個室のベッドに乗せてやるとうわ言で彼女は聞いてきた。来るもなにも、僕にはそんな義務はない。天体観測をしに来ていただけだ。

「わからないな、天気次第」

「来なかったら死んでやる」

 そんな会話をする頃には空はうっすら明るんでいた。

 つまり、今、眠い。

「そこじゃないぞ空知」

 担任の話で意識が鮮明になる。見ると、目の前に細い花瓶が。一輪だけ赤い花が備わっている。

「誰だ?こんな陰湿な真似をするのは?」

 見回す担任の白い視線に誰もが黙る。

 ブス、死ね、うざい。呪詛のように、怨念でもこもったみたいな深さで机に掘られていた。シャーペンの芯が入るほどの深さ。根深く、救い用のない邪念。

「空知、くん?だっけ?」

 声の主は隣の列の女子だった。名前も知らない彼女は小首をかしげる。

「早く退いた方がいいよ?そこの席の子、重病で入院しててさ。さすがにヤバイよね、それ」

 指を指す面前の傷ついたぼろぼろの机には名前も彫られていた。

 秋月爽専用。

 その名前を口ずさむと担任がやかましく騒ぐので、僕はそそくさと指定された隣の席についた。


 その日、夕飯を済ませると僕はそのまま二階の自室にこもった。

 今日こそは自分の星を見つける。

 とりためたいくつかの写真や、望遠鏡が入った鞄から無地の昨晩の大学ノートが出てきて彼女を思い出す。

 一体これはなんなんだ?

 表紙は汚れひとつないくせにいくつかページが破かれている。何かで切ったというよりは手で引きちぎった感じ。だから妙に薄い。

 一頁目。ひどく小綺麗な字で「死ぬまでにやりたいこと」

 二頁目以降はズタズタに引き裂かれてぼろ雑巾みたいだ。

 最後数頁残して裏表紙に「秋月爽」と書かれていた。

 やはり、冷たい夜はコーヒーに限る。僕はそんなことを思いながら、鞄にいつもの道具と例の大学ノートを詰めた。

「あんた、またこんな夜中に出ていくのかい?」

 玄関で靴を履き替える背中に呆れた声が突き刺さる。

「すぐ帰るよ」

「悟の事、気にしてるんだろ?」

 僕は振り向かず、そのまま黙って家を出た。


 僕が天体に興味を持ち出したのは兄貴の悟の影響を語らないといけないだろう。

 うちは母子家庭と言うやつで父親はいない。小学生の時に両親が離婚して、僕の名字も母方の空知を名乗る事になった。

 同時に母は毎日スーパーのレジ打ちのパート、帰ればスナックで働き出した。来日も来日も母さんは家にはいなかった。

 多分小学3年生辺りか、その日母さんは珍しく家にいた。台所からはカレーの匂い。僕はそれでその日がなんの日か思い出した。我が家では誕生日だけ夕飯を指定できるルールがあった。

 僕らの誕生日。

 それに気づいた僕の興奮は双子の兄、悟にも伝わっていた。

 手作りの飾りつけを施された茶の間に手作りの帽子を被る悟。「恥ずかしいからやめろよ」の笑いはいつしかふざけあう笑いに変わっていった。

 暗闇の灯火は僕らの歳の合計を表していた。ふっと急に暗くなる。次の瞬間、100均クラッカーが狭い茶の間一杯に響く。

「誕生日おめでとう」

 母さんの声と部屋の照明がぱっと辺りを照らす。目はまだ明るさに慣れずうっすら開くにとどまっている。薄い視界の中に、無理して買ったホールケーキ。僕らはそれだけでもはや天にも昇る勢いだった。

「今年は母さん奮発したよ~」

 ジャーンと言いたげな顔で、母さんは古びたおもちゃの箱のようなものを差し出した。

「これはいつも頑張ってる二人に私からのプレゼント」

 藍色の下地に白く「Astronomical telescope」と書かれていてなんのことだかわからない僕はとにかくその横文字に強く心を揺さぶられた。何か近未来的な特別な、面白い何か。僕はそう感じてやまなかった。

 ただ、箱のすみに書いてあった「天体望遠鏡」の文字は、僕を天から地獄へ叩き落とすには十分すぎる効力を持っていた。

 僕は泣いた。母さんを恨んだ。何が天体望遠鏡だ。そんなもんかっこよくとも楽しくもないじゃないか。それだったら近くのデパートで何か美味しいものを食べた方がずっといい。

 散々泣いて、僕は隣の四畳半ほどの寝室に膝を抱えていた。母さんはそんな僕をなだめ疲れたのか悟と会話をしていた。

「母さん、見てみて」

 悟ははしゃいでいた。

「どれ?お!すごい、中古にしては細かいとこまで見れるじゃない、暁も来なよ」

 僕はそんな二人のやり取りがどこか別世界に見えた。僕は孤独だ。

「いつまですねてんだ?お前にはこれを使わせないぞ?いいから黙って見てみろ」

 無理やり引き離されて、連れ出されたレンズの向こうには天体図では描ききれないような、万華鏡のような星屑が輝いていた。


「…またか」

 僕は走り出した。月夜の病院の屋上にまた彼女がパジャマの裾をヒラヒラ揺らし、立ち尽くしていた。

「また見に来たの?」

 相変わらず無言でこちらを見返す。

 こっちは息切らせて走ってきたんだぞ?

「それともまだ死ぬ気なの?」

 彼女の背中は妙に静かで、やけに冷たい。

「ねぇ」

 背中は誰に言うでもなくポツリと呟いた。

「本当にさ、誰しも死ぬ確率は同じなの?」

「あぁ、少なくとも僕はそう思う」

「変な話。私はとっくの昔に寿命はつきてるはずなのに、生きてる」

「明日なんて不透明なもんさ」

 フェンスを飛び越える。彼女は動じない。

「だから、明日僕はが死んでもおかしくはない。だから、今を生きる」

「何?おじさんみたい」

「うるさい」

 一歩、また一歩。近付くたび、夜風に流れる彼女の香りが辺りに漂う。お風呂上がりみたいないい匂いだ。

「学校、来ないの?秋月爽」

 僕は鞄から大学ノートを取り出す。

「死ぬまでにやりたいこと、やりつくしてなかったみたいだぞ?」

 最後の数頁数。ちょうど真ん中に「友達が欲しい」と書かれていた。

「ちょっと、それ」

「学校行かなきゃ友達作れないな?」

 視線を反らす彼女。僕はあえてフェンスの反対側。つまり、危険を冒す形で彼女を越えて、視線を追った。戸惑っているのか、目が泳ぎ、うつむいている。

「仕方ない、明日迎えに来るよ」

 僕は彼女の冷たい手を握った。

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