第11話

 バイクの上に腰かけてぼんやりと空を眺めながら美智代を待っていた。いつのまにか肌寒い空気に包まれ、空に雲が流れはじめている。そういえばよく考えたら、屋上でビールを飲んだから、飲酒運転だ。そんなことを今更気付いても遅いのだけど。三百五十ミリ缶の半分くらいしか飲んでいないから、たいして酔ってはいないけれど、そういう言い訳は通じないだろうなと心のどこかで思いつつ、そのことをまるで思い出せないくらいだったんだと、思い返す。

 本当はいい雰囲気で美智代を送り出せたハズなのに。痛恨の極みだった。

 ガサッ。

 ぼんやりしていた耳に立ち止まる足音が聞こえて、緩慢な動作で音の出所に目をやる。ブロック塀の端には電信柱が立ち、街灯が暗い光を放っていた。その下に美智代がたたずんでいた。ぼんやりした目でこちらを見ている。

 バイクから降り、美智代に近づこうと歩き出す。しかし、美智代はハッと気付いたかと思うと足早にアパートの外階段のほうへ歩き出した。

「遅かったじゃないか」

「……」

 何も聞かなかったかのようにプイと明後日の方向を向いている。

「話を聞いてほしい」

「私は話したくない」

「何してたんだ、こんな時間まで」

「……トシくんと飲んでたの!」


 そう言い捨てると階段を上がり始める。酒の匂い。やっぱりそうだったのか。どの辺で飲んだのかまるで見当がつかないけれど。四条大宮あたりか。

「美智代、嘘ついてたのは謝る。だけど、由有ちゃんとは本当に何もない。信じてくれ」

 何も聞かないかのように僕を振り切ると、扉にキーを差し込む。

「帰って」

「このままじゃ帰れないよ」

「これから荷造りするの! 邪魔しないで」

 扉を開けた美智代に続いて玄関に入ろうとしたら、ものすごい力で胸を押し返されてよろめき、外廊下に倒れこんでしまった。その間にパタンと扉は閉まり、ガチャと鍵のかかる音がした。

 僕はなんだか絵に描いたような情けない男になっていた。外廊下に倒れ込んでいた自分があまりにも哀れで、でもこれ以上情けない男になり下がりたくはなかった。ここでわめいたとしても事態は悪化するだけだろう。それでも、伝えておかなければならない。

 玄関扉についていた郵便用の受け口を指で押しあけた。中を見るためではない。

「美智代、今日はこれで帰る。ただ、信じてほしいとしか俺には言えない。帰るのは一週間だったと思うけれど、そのあと連絡を待ってる。バイトもあるし。それじゃ、気を付けて」

 隣近所に聞こえないよう、騒ぎにならないようにそれだけ伝えて美智代のアパートから離れた。心細い。夢のような二カ月とちょっとの日々が、今は幻のように感じる。美智代の息遣い、温かな身体。いつか見た、朝焼けを背景にした裸体の輪郭。


 もしかして、すべて失ってしまうのか。


 そう気付いた瞬間に、涙があふれて視界がゆがむ。いや、ここに来るまでその予測はしていたんだ。だけど気付かないフリをしていた。心のどこかで蓋をしていた。その蓋を美智代の小さな手が外してしまった。時速四十キロで走る顔には容赦なく風が当たり、涙を吹き飛ばしていく。けれど、後から後から涙がこぼれおちていく。心の痛みが内蔵に伝播したようで胃の奥がジリジリと痛む。だけど、今は、その胃にアルコールをぶち込んでいじめたい気分だった。自らへの罰だと。


 送り火の翌日は何も予定を入れていなかった。もしかしたら、帰省する美智代を見送りにいくかも、と思っていたからだ。部屋に着いて、ビールを飲みながら電話をにらんでいた。もしかしたら美智代からかかってくるかも、と思っていたけれど、結局誰からも電話はなかった。


 翌、八月十七日の記憶は雨だった、ということしかない。


 緩慢に恋人を喪失していく幻想に囚われて、僕は満足に眠れなかった。

 南国のスコールのような豪雨が夜半から降りはじめ、雷が光っていた。眠れなくても眠さは感じておらず、ただ胃の中に鉄の塊が沈んでいくような不快感を感じていた。

 ベランダのサッシには容赦なく雨が叩き続け、夜明けだというのにどす黒い雲が早い速度で流れていく。あの雲は数時間で美智代の頭上にも雨を降らせるのだな、なんて思いつくと、可能ならば原付バイクで鈴鹿まで行こうかと思ったほどだ。同じ専攻の名簿はあるし、そこには実家の住所も記されていた。道路地図を買い求め、道のりをたどっていく。意外に思ったのだが、滋賀県から伊賀を通って関西本線につながっている路線を見つけたことだ。美智代はどういうルートで帰省するか言っていなかった。東海道線の草津駅から分岐している草津線で関西本線の柘植まで行き、そこから河原田までいけばもう鈴鹿だ。この路線に沿うような道路もある。このまま何もせずに美智代を失うなんて我慢できなかった。

 けれど。

 美智代の実家に押しかけて、いったい僕は何を言えるだろう。それに翌日からはバイトに入っていた。こんな状態になってバイトに行くのもどうかと思うのだけど、僕は望月マネージャーに気に入られたのか、バイトを統括するサブチーフに任命されることになっていた。時給も上がるし、なによりがんばって働いて、培った自分の立場を捨てるのは嫌だった。


 十八日。久しぶりのバイトだった。お盆だと観光地の客は多い。前日とは打って変わって天気もよく、アイスクリーム店は盛況だった。その日はサブチーフとして二階に配属された。一緒にいたうちの一人は志村だ。

「サブチーフ昇格おめでとう」

 律儀というか、他人行儀な感じで志村は言ってくれた。

「仕事はこれまでと変わらないよ」

「三山くん、仕事がんばってたもん。たとえ恋人の前でいいかっこうしようとしてたとしても」志村としては多少皮肉を込めたつもりだったのだろう。だけど、僕にはそれはかなり痛い言葉で、少し顔がゆがんだ。

「そういえば、松沢さんは?」

「帰省中」

「そっか」

 あまり美智代のことに触れられたくない。だけど、それを露骨に出すと、今度は「なにかあったのか」と勘ぐられる。

 それは避けたかった。

 僕と美智代の仲は、例の事件もあって、バイト連中の中ではかなり有名かつ憧れの存在に祭り上げられていたからだ。ことに志村は僕に好意を持っていた。今はどうだかわからないけれど。


 仕事が多忙なのは助かった。その間だけ、何もかもを忘れられた。少し手が空けば什器を磨き、テーブルを拭き、床を掃除した。それを見ていて「昇格したからかなあ」なんて言うヤツもいたけれど。

 そんなことは、本当に、どうでもよかった。

 志村だけが黙って僕をサポートしてくれていた。


 仕事が終わって、着替えて店先に出ると志村が待っていた。

「三山くん、ダメもとで言うけど……お茶しない?」

 店先にいる志村の笑顔はとても爽やかだけど、そのときは普段と違って、とても硬い表情だった。それは志村の魅力を著しく損なっていたけれど、それでも十分に彼女はかわいかった。だけど。

「ごめん」

 一言そう言うと、志村は「さすが、私が見込んだ男!」なんて言って。

「なんか、元気ないなって思って。松沢さんがいないからかな、なんて思ったから誘ってみたんだけど、やっぱりラブラブなんだね」

「違うよ、俺はほとんどふられかけてる」と言いかけて口をつぐむ。

「俺のこと、どう思ってるかわかんないけど」

 それまでにずっと思ってたことが歯止めを失って流れ出していた。

「俺は志村が思ってるような男じゃない。軽くて、水素なみで、恋人を不安にさせて……」それ以上言えなかった。俺が急に饒舌になったからか志村が驚いた顔をしている。

「おつかれ」

 僕はくるりときびすを返して歩いていく。追いかけてこないことを願って。


 翌日、十九日もバイトだった。この日はより多忙な一階に配属された。忙しいほうが何もかも忘れられるから、僕は内心歓迎した。この日も暑い日で客は行列を作った。僕は能力の限りを使って対応した。望月マネージャーによると「鬼神の働き」だそうだ。

「サブチーフに推薦した俺の鼻も高いよ。このままがんばってくれ」

 休憩のときにそう言われたけれど、僕の心はもう何も感じなくなってきていた。

 夜六時。アイスクリーム屋が暇になる時間だ。僕はベンディングマシンを解体して洗浄作業に入った。たくさんのパーツを隅々まで洗っていく。なんだか僕はヤケになっていた。何もかもが無になればいい。

 そうさ、この世にどうせ意味なんてない。

 洗浄し終えたパーツを組み上げたとき、僕はそう思った。

 このまま帰ってしまおう。そして辞めてしまう。なにもかも意味のないものなんだから。そんなこと、最初からわかっていたんだから。


「みっちゃん……」

 店の玄関に背中を向けていた僕に、声がかけられて振り向くと。そこには由有ちゃんがいた。我に返る。目が真っ赤だ。泣きはらした目だと一目でわかる。いつもおしゃれだった印象はなく、まるで寝癖のように髪ははね、てろてろのTシャツに地味なGパンを履いて。

 それでも十分に彼女はかわいいのだけれど、それまでの姿を知っている僕にとってはまったく精彩を欠いていた。

「由有ちゃん……」

 力なく見つめてくる。

「バイト、いつまで?」

「あと三十分」

「話したいこと、あるの。いい?」

「わかった。七時にまた来て」

 そう言うと、由有ちゃんは去っていった。数少ない会話で意思疎通しているのが、まるで恋人同士に映ったのか、「三山、松沢はどうしたんだよ」「あの子もめちゃくちゃかわいいじゃん」「なんか、泣いたあとに見えない?」「かわいい子泣かせるなよ」

 好き勝手に言ってくれる。

「彼女は友達の恋人だ。俺とは同じ専攻。ただ、それだけ」

 傍らで口を硬く結んだままの志村に説明するように言った。志村にしてみたら、自分とのお茶は拒絶するのに、どうして? っていう気持ちはあるだろう。


 三十分後。バイトが終わり着替えて店を出ると、玄関脇に由有ちゃんがもたれて待っていた。

「どこかでお茶する?」

 うつろな目を僕のほうに向けた由有ちゃんは「飲みたいな」と小さく呟いた。


 話す内容が内容だけに、場所を選ばないといけなかった。終日営業している喫茶店チェーンのからふね屋のように、明るいオープンな場所で話す気にはなれない。かといって、居酒屋のわいわいとした雰囲気の中では到底話す気分になれなかった。結局、選んだのはあのバーだった。月例を二人で抜けて駆け込んだ大人の雰囲気の。

 あれから三か月。環境は激変していた。ぬったりとしたのも退屈だけど、今回はあまりに変わりすぎていた。ことにネガティブな方向に変わっているのが悲しい。

 まだ浅い時間なので客はあまりいなかった。店の端のほうのテーブル席に座る。背の高い仕切りで区切られており、人目にはあまりつかない。うすくジャズが流れており、こんな状況でもなければ、いい雰囲気で酒が飲める環境だった。

 二人ともビールを頼んだ。ほどなく、サーブされたが、乾杯をする気にもなれない。

「あまりいい話じゃなさそうだね」

 そう切り出した。由有ちゃんの真っ赤な目を見ただけで状況は推察できた。

 リュックサックから目薬を取りだす。

「これ、使いな」

 テーブルの上にぽつんと置かれた目薬を手に取り、不思議そうに「なんでこんなの持ち歩いてるの?」と聞く。

「聞かなくても、本当はわかってるだろ」

「……ん……まあ」

「客商売だから。充血した眼で店先には立てないから」

「そうね……じゃあ、使わせてもらうね」

 天井に視線を向けた由有ちゃんは目薬を慎重にさした。

「……っす」

 妙な声。

「しみる……」

「それだけ赤かったら痛いだろうね」

「ん……」

「で、トシとはどういう話をしたの?」

「ん……」

 あの日は三十分後に電話したけれど不在で、実家ということもあるし十時半に電話しても不在だったのであきらめたとのこと。その時間だとまだ美智代と飲んでたころだろう。

 翌日の朝十一時に電話したら本人が出たから、とにかく話を聞いてほしいとのことでアポが取れた。

 午後三時にトシの家の近くにある喫茶店で話をしたという。


「とにかくまずは黙っていてごめんなさいと謝ったの。そして、みっちゃんとは何にもなかったこと、泊めてほしいって言ったのは自分からだったと言った」

「そんなこと言ったら余計疑念を招くだろう?」

「あそこまできたら、全部吐き出すべきだと思ったから。変な例えだけど、致死量越えた毒はいくら飲んだって同じでしょう」

「そりゃ、そうだけど……」

 人の心は化学物質じゃないから、とは言えなかった。

「トシくんはなぜ自分からそんなことを言い出したのか聞いてきた」

「そりゃそうだろうな」

 僕だって知りたい。

「ますは一次会でセクハラされてイライラしてて二次会で飲み過ぎて、タクシーで帰るのが面倒だったこと」

「うん」

「それとみっちゃんが意外に固い人だったってわかったこと」

「俺が?」

「うん……あのときにも言ったじゃない、偽悪趣味でしょって」

「ああ……」

「それに……世界の成り立ちをあんなふうに考えてる人は、安易に女の子を襲ったりしないって」

「ふうん……それで、トシは」

「ずっと黙ってた……何か言ってほしいってお願いしたけど、ずっと目を閉じたまま難しい顔をして……」

「うん」

「少しは……みっちゃんのこと気にはしてたけど、みっちゃんは完全に美智代のほう向いてたし……だから、トシくんからデートに誘われたあとは、みっちゃんのことは例の話のアドバイザーみたいな位置づけになってたって。トシくんとデートしたあとは、百パーセントあなただけを見てるって、伝えた」

「それで?」

 内心、由有ちゃんがそこまで言ったのなら、トシは軟化したんじゃないかと思っていた。だけど、現実は由有ちゃんの目の充血が物語っている。

「私の気持ち、誠意は嘘じゃないって。それを証明するんだったら……抱いてもいいって言った」

 なるほど。

「そしたら?」

「怒ったの」

「え……なんで」

「女の子が一番大事なものをそんな取引に使うなって」

 トシ……どこまで固いんだ……。

 思わず僕はため息をついた。

「俺は由有を抱きたい。けれど、それは純粋な気持ち同士じゃないとイヤだ。人生でただ一度のことに余計なものをからませたくないって」

「トシらしいというか……」

「あとは……」

 そういうと由有ちゃんは口をつぐむ。

「どうした?」

「うん……本当にみっちゃんとは何もなかったのか、完全には信用できないって……。最後までしてなくても、キスくらいしたんじゃないか、とか……つきあう前のことだから、あれこれ言う権利はないのはわかってるけど、そこまで割り切れない。簡単に言うと、騙されて悔しい、みっちゃんに先を越されて悔しいって」

 そう言われたら、僕にはもう何もできない。すべては過去に終わってしまったことで、今からどうこうすることはできない。


「私を信じてほしい。全部あげる。全部捧げるから許してほしいって言ったけど……」

「事実だけ伝えて」

「今は無理だって……。それで、伝票つかんで店を出ていった」

「追いかけなかったのか?」

「だって……抱いてもいいって、ヴァージンを捧げるって言って、それで無理って言われたら、もう何もできないよ……」

 由有ちゃんのおっきな瞳にはまた涙があふれてきていた。

「ごめん、思い出して、そしたら、ここが痛いの」

 薄いTシャツを容赦なく隆起させている胸を両手で押さえて由有ちゃんがいう。

「今は、ってトシは言ってるんだから、もう何日か時間を置いてみたら」

「うん……」

 そうは言っても切り札を使って拒絶された由有ちゃんは、かなり落ち込んでいた。

「みっちゃんのほうは? 美智代と会えたの?」

「それが……」

 簡単にあの夜にあったことを説明した。

「不安だけど冷却期間だと思って、今は美智代が戻ってくるのを待ってる」

「戻ってきたら……?」

「話を聞いてくれるように頼む」

「もしダメだったら……」

「そのとき考える」

 僕だってただの十八歳のガキなんだ。なにもかも答えを知ってるわけじゃない。


 ビールにピスタチオ。

 気づいたら一時間経っていた。

「話はこんなところだよ。もう帰ろう」

「もうちょっといいじゃない」

「由有ちゃん、」

 僕は毅然として言った。

「特に根拠はないけど、こういうときこそ、キチンとしなきゃいけないって思う。他人に疑念を持たれないように。今日はもう帰ろう」

「……わかった」

「くれぐれもヤケを起こさないで。トシはきっとわかってくれる。自分の身体を大切にして」

 ほんの一時間前まで「なにもかもやめてしまおう」と思っていた僕がそんな言葉を吐いていた。

「大宮まで一緒に行くよ。そこから嵐電だろ?」

「ん……でも、なんだかお腹すいたな……」

「食べてないの?」

「朝、サンドイッチ食べただけ」

 しょうがないな。

「ラーメン食べにいこう。天下一品。スタミナスープ飲んだら元気出るよ」

 僕はそのあと、由有ちゃんとテンイチのラーメンを食べてから、阪急電車に乗り、大宮で一緒に降りた。時間は九時半。嵐電の改札に消えていく由有ちゃんを見送ってから、部屋に戻った。


 それから三日経った。誰からも電話はなかった。

 僕は何もかも忘れるようにバイトに打ち込んだ。ふと視線を感じると、志村が何かいいたげな目を向けていた。その視線はこれまでとは少し違う気がした。だからといって僕のほうから志村に何かを言うのは違うと思ったし、そもそも何を言えばいいのか。彼女はすでに僕に好意を伝えてくれていて、それを断り続けているのは僕のほうだ。これで、なにか思わせぶりなことをしたら、彼女をもてあそぶことになる。この大切な時期にそんなことをしたら、美智代とのことが破滅的な危機になると感じていた。論理的じゃないことはわかっていたけれど、人智を超えたものが、そういうことを司っている気がしていたのだ。


 明日、美智代が戻ってくるはずだ。仕事を終えて一人暮らしのマンションに戻ると、一階入り口に由有ちゃんがいた。

「どうしたの。トシと話せた?」

「電話したけど。いないって。居留守かもしれないけど」

 歩きながら話をする。

「そうか……」

「もうダメなのかな」

「あきらめるにはまだ早いと思うよ」

「もうずっと、こんな気持ちが続いてて苦しいよ。……みっちゃんのほうがうまくいかなかったら、つきあっちゃおうか」

「平塚」

 あえて、僕は名字で呼んだ。

「俺が怒る前に帰れ」

「どうして? どうして怒るの? トシくんも美智代もわかってくれない。本当じゃないのに、勘違いして誤解して。だったら、本当にそうなっちゃおうよ。わたし、みっちゃんだったら……いいよ」

 ……!

 それが何を指しているのかもちろんわかったけれど、腹立ちのほうが先に立つ。

「平塚、逃げるな。好きなら最後まで当たって砕けろ」

「それでダメだったら?」

「砕け散ればいい」

「え……」

「俺はもしダメだったら……考えたくもないけど……しばらくは喪中だな。誰ともつきあわない。少なくとも半年くらいは」

「わたしじゃダメなの?」

「あのさあ、」

 僕は子供をあやすように言う。

「もし俺と平塚がくっついたら、『やっぱそうだったじゃん』って証明することになるだろ。それに俺だっていっぱいいっぱいで、お前まで支えることはできない。つらいと思うけど、歯をくいしばって耐えてくれとしか言えない」

「みっちゃん、冷たい……」

「それでいいよ。俺は美智代のほうが好きだ。お前じゃない」

 鍵穴にキーを差し込み、扉を開ける。由有ちゃんは入ってこようとはしなかった。ただ、胸に両手を当てて、憐れみを乞うように僕を見上げていた。

 僕はその視界を遮るように扉を閉めた。

 その刹那、わっと泣き声が聞こえ、階段を下りていく足音とともに徐々に消えていった。

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