第8話

 寝室に移動したのは十時を過ぎたころだった。

「寒くない?」

「うん、平気」

「豆球だけつけてるよ」

「うん」


 オレンジ色の明かりに染まった寝室で、僕と美智代は立ちすくんでいた。このままだときっかけがつかめない。一歩近づいて、優しく抱きしめる。美智代が両腕を背中に回してくる。少しゆるめて間合いを取ったあと、キス。舌先をくちびるにたどらせてから、進入させると、美智代が応えるように絡めてきた。その鋭さに頭の中が沸騰していく。抱き合いながら舌と舌を絡め合わせていると、美智代の意外にボリュームのある胸がぎゅうっと押し付けられて主張してくるから、僕の怒張も自己主張を始めていく。

 あまりに激しく抱き合ったせいか、美智代の体を覆っていたバスタオルがはらりと落ちていく。それでもかまわず美智代は、今度は覆うもののなくなった乳房を押し付けてくる。

「美智代……、見ちゃうよ」

「……いいよ」


 少し離れて、美智代を見つめると、そこにはあまりに神々しい肢体があって、僕は思わず息を呑んだ。スレンダーな体なのに、大きく育った乳房。引きしぼられたウエスト。ヒップはそれほど大きくはないけれど、十分に女性らしさをアピールしており、すらりとした脚へと続いている。

「きれいだ……」

 僕はまじまじと見つめていた。それは色欲からではなくて、感嘆からだった。美術の教科書に出てきそうな美しい身体がそこにあった。だから、これからこの身体を情欲をもって汚してもいいのだろうか、とさえ思ってしまった。

「みっちゃんやだ……そんなにじいっと見て……」

 両腕で胸と股間を隠そうとした、その姿がとても色っぽくて、妙に生々しく性欲を刺激した。再び美智代をかき抱くとくちびるからあご、首筋と舌を走らせていく。そのたびごとに美智代はぴくぴくと身体を震わせる。

「あ、あ、ひゃあ……」

 明確なあえぎ声を聞いて、僕のリミッターは完全に解除された。美智代の両肩を抱きながら、ゆっくりとベッドに押し倒した。ためらうことはなにもなかった。


 数日前、初めて美智代が泊まった夜とはまるで違っていた。僕はただ、「美智代を失いたくない」という気持ちと、初めての刻印を付けたいという欲望のままに、美智代を抱いた。美智代は僕の腕の中でいざなわれるがままに泳いでいた。そのまなざしはずっと僕をとらえ続けていて、熱い気持ちがそのまま伝わってきた。

 僕は初めてだった。だけれど、事前の予習が効いたのか、ターゲットを的確に捕捉し挿入することができた。


 僕と美智代は一つになった。ついにすべてを奪った。

 熱い。およそ、人の身体でこんなに熱を発している場所があるんだろうかと思うほど、美智代の膣内は僕のペニスを捕らえてその熱を伝えてきた。その熱さと律動に僕は我を忘れ、そして、僕たちは新しい時代に入ったのだった。


 真夏の夜の寝室。しばしの間、熱源が皓皓とともっていたが、今は小康状態だ。汗をバスタオルでぬぐいシーツの上で抱きあう。美智代が僕を抱きしめてくる。

「……離さないでいて。ずっと私だけを見てて」

 美智代がこんなに直接的に気持ちを伝えてくるのは珍しい。

「ずっと一緒だよ。誰にも渡さないよ」お返しとばかりにぎゅうっと抱きしめる。

「ねえみっちゃん……なんだか、私たちって、『事件』があると、前に進むね」

 美智代も僕と同じようなことを感じていたのだろう。

「今夜しかないと思ったんだ。美智代を不安にさせないように。俺が不安にならないように。……美智代が欲しかった」

「……うれしいよ? いっぱい愛されてるって感じてた」

「痛みは?」

「う……ん……その、触ったこともない場所だったから、痛いというよりも変な感じ」

「変?」

「例えば……歯医者さんで歯茎に注射されたときとか、耳掃除で少し奥を触っちゃったときの感覚みたいな」

「歯茎に注射はいやだな」思わず笑ってしまう。

「気持ちよくなるのかな……」体験談によく書かれている疑問を美智代はそのまま口にした。不安ではなく、そこはかとなく期待を含んだ口調なのが、美智代の欲望がにじみ出ていて淫靡に感じる。

「何度かしないといけないみたいだけど……」

「どのくらい?」そう問われてマニュアル雑誌で仕入れた回答をそのまま答える。

「人によるけれど……三回から十回くらいみたい」

「十回かあ……みっちゃんは、いっぱいしたいの?」

「そりゃあ、男だし。美智代は素敵だし。したいよ。はやく俺のものにしたい」

 そういうと「もうみっちゃんのものだよ」と首筋に抱きついてきて、「これが証拠!」って言いながら熱いキスをしてきた。舌をからませながら、その行為の意味を知る。


 美智代が二回目のお願いをしているんだ。


 気付いた瞬間に僕自身が急速に勃起して、即時稼働体制になった。


 その夜、僕は美智代を二度抱いた。美智代は正真正銘の処女だった。少なくとも僕にはそうとしか思えなかった。必然的に僕の運動量が大きくなり、二度目が終わって抱き合っているときに意識を失うように眠りについた。


 鳥のさえずり。左腕のしびれ。腹筋のだるさ。そんな感覚がないまぜになって、ふと僕は覚醒した。昨夜、あまりにも心が急いていたせいか、カーテンをきちんと閉めていなかったようで、その隙間から鋭い明かりが差しこんでいる。

 昔から夏の朝は好きだった。少し湿度を持った風が吹くと、咲いたばかりの朝顔が揺れる。朝露に日差しが映えて輝く。何者にも拘束されない夏休みの朝。

 今日も始まっていく。


「美智代?」

「ん……あさ?」

「日の出あたりかな」

「……なんだか大人みたい」

「そうだよ。大人のオンナになったんだよ?」

「やん! もう~」

 僕と美智代だから、深い関係になったとしても根本は変わらないわけで、そういう間合いが心地いいんだなあって思う。美智代が起き上がると全裸のまま窓へと歩いた。サーッとカーテンを引くと、朝の光が逆光となって、美智代のこれ以上にないシルエットを青空に画している。

「きれいだ……」

「ん?」少し振り向く形になると、今度は素敵なバストラインが、見事な隆起の尾根となって絶景を形作る。その視線を感じたのか、「もう、みっちゃんたら!」って両腕で胸を隠すんだけれど、その仕草がエロティックなのだ。自覚がなかったのだけれど、もしかして僕自身のマニアックな萌えポイントだったのかもしれない。

「美智代も、夏の朝もきれいって言ってるんだよ」

 僕も起き上がり、二人で窓際に全裸で立つ。目に入る範囲で高い建物はないので、誰にも見られることはないだろう。

「また、朝の景色を、一緒に見れたね」

「私……この日のこと、一生忘れないと思う。この夏の、朝の光を」

 それは僕も同じだった。だから、そのことを伝えようと口づけした。僕たちはひとまず、この夏、登ることができる階段の頂上に着いたみたいだ。


 あれから由有ちゃんやトシから連絡はなかった。けっこうひどい別れ方をしたから、これまでのようにつき合いをするのだったら、早々に修復すべきだろうけど、こちらから申し出ることでもなかった。なにより、この日だけは面倒な用件を入れたくはない。例によって二度寝して、眠気をすべて解消してから起床した。朝ごはんを作る。そして、例によって、美智代が僕の横にくっついて調理の模様を見ている。

 二度寝前にお米は仕込んでおいたので、もう炊き上がっていた。豆腐と油揚げのお味噌汁に、スクランブルエッグ、ウインナーを軽く焼いて。キャベツの千切りかレタスでもあれば完璧だけれど、あいにく在庫はなかった。

「みっちゃんって手際いいね。私よりいいお嫁さんになれそう」

 しげしげと僕の手元を見ながら言う。

「俺は美智代の作った味噌汁飲みたいな」

「えっ」

 なんだか、ビビッドに反応したので不審に思った。

「どうしたの?」

 すると、美智代が顔を赤らめながら「それってプロポーズの台詞だよ……」という。

 なるほど。そう言われれば。

「……そういうつもりで言ったんじゃないけど、でも、そういう気持ち、あるよ」

 そう言ったら、美智代は泣き出してしまった。


 夏の日。

 あまりにたくさんの魔法を使わないで。

 うれしくて、幸せすぎて、怖くなってしまうから。

 美智代は笑いながら泣きながらそう言った。


 朝ごはんを取りながら、この先の夏休みのことを相談する。まだ、八月に入ったばかりだ。九月の講義が始まるまでに一か月はある。

「そういえば、大家さんに聞いたよ。『屋上での送り火鑑賞、友達一人連れてきていいか』って。そしたら、いいって」

「ホント? やった!」

 八月十五日の五山送り火は、夏の京都を締めくくる風物詩だ。テレビのニュースで見たことがあるくらいで、生で見るのはもちろん初めて。それを特等席で見ることができるなんて。

「近所の人や他の部屋の人も何人か来るようだけど、お盆時期だから、みんな帰省しててそんなには来ないみたい」

「なるほどね」


 その日一日、僕と美智代は夏の休日をゆったりと過ごした。日中には二回セックスした。明るい中ですると、前日とはまた違った興奮があって、僕はとめどもなく勃起していた。セックスを覚えたばかりの若い男は、とにかくやりたがる、と言うけれど、その例に漏れず、僕は美智代を求めた。美智代もそれに応えてくれた。

「早く気持ちよくなりたい」

 単純にその気持ちかららしい。出血はわずかだったし、それほど痛みを感じなかったから、興味のままに行為を受け入れているようだ。もともと、好奇心は旺盛なほうだし、いろんなことを試したり覚えたりしたいと言っていた。

 一回目と二回目の間には、二人でバスルームに入り、身体を洗いっこした。「まるで新婚さんみたい」と言いながら洗っていたけれど、そのときに、美智代は口で僕のペニスを愛してくれた。

「一応、雑誌で読んだりして知識は入れておいたの。みっちゃんが私で満足しつづけてくれるようにって」

 いじましくそんなこと言ってくれるので僕は泣きそうになる。

「あれ、ちっちゃくなっちゃった。やり方が下手なのかなあ……」

 違うよ、美智代。僕の心が清純になっちゃってるからだよ……。


 二回目が終わって僕たちはブランケットにくるまっていた。二人で一つの存在になったように。美智代がもぞもぞしてきて、一仕事終えて休憩中のペニスを触ってくる。

「え、今日はもう無理だよ……昨日から四回だよ、いくらなんでも……」

 そういうと美智代を顔を赤らめながら「みっちゃんのレーゾン・デートルをなでてたいの」なんて、いかにも文学部な言い方で言い訳する。

「昔読んだ小説に同じようなシーンで同じセリフを言われる場面があったなあ」

「ホント? みんな、考えることは同じなのかな」

 いくら残弾ゼロでもそんなにさわさわしたら稼働体制になってきそうになる。しかし、美智代の話題は少し堅いほうへ流れた。

「どうしてみっちゃんは水素なみに軽くなろうとしたの?」

「うーん」

 暗黒の高校時代を思いだす。

「美智代はそういう話、興味はないだろう?」

「みっちゃんがどう思っていたのかは興味があるよ」

 そう言われて僕は簡単に語る。それはこれまでの哲学者や宗教者が一様に考え続けていたことを「深刻に」疑問に思ったからだ、と。自分がなぜここにいるのか、この世界はなぜ作られたのか、なにか理由はあるのか。

「神様が作った、なんていうのは俺には信じられない。クリスチャンやムスリムには悪いけれど。世の中には何か普遍的な『幸せになる法則』はあるかもしれないけれど、神様、なんていう擬人化された存在はいないと思うんだ」

「それはどうして?」

「神様の名前を出した瞬間に、戦争になるからだよ。幸せになるためにあるはずの存在で、みんな不幸になっていく」

「なるほど……それで、みっちゃんの結論は?」

 結論。それはあまりに無機質な結果。

「この世界があるのも、自分の存在にも意味はない。すべては偶然に出来上がった。これが俺の結論。宇宙の創生とか勉強したらそうとしか思えなくて」

「でも……そんなの哀しいよ」美智代がそういうのももっともだ。

「俺もそう思ったよ。きっと今までの歴史で、俺と同じ結論に達した人の何割かは自殺してるんだろうなって思う。自分の存在理由が『ない』って結論付けてしまうんだから」

「私はみっちゃんと一緒にいたいって、思うよ。私がいる理由はみっちゃんのそばにいることだって」

 美智代は切々と伝えてくれる。まだ、自分の世界の外側に気付いていないと、そう考えて当たり前だし、僕だって通常のときは同じように考えていた。ただ、ふとした瞬間にこの世界がすべて意味もなく存在していることを感じて、存在意義を失いそうになる。

「俺がそのことを考えているときに、そう思える人がいなかったんだ。誰かのために生きていければこんな邪念も紛れるんじゃないかって。でも、いなかったから、かわいい女の子には片っ端から声かけることにした」

「そこがみっちゃんらしい展開なのよねえ……」わずかにふくれる美智代がかわいい。

「根本的に生きている意味はないけど、仮にでも作り出せばいいんじゃないかって。女の子を好きになる、セックスのとりこになる、なんでもいい」

 美智代向けにやや偽悪趣味的に言ってしまったけれど、大意としては変わらない。僕は享楽的になることで自分の無意味さから目をつむろうとしたのだ。

「だから、私に声をかけた?」

「まあね。専攻で一番かわいくて、好みだったからね」

「最初は『なにこのチャラ男』って思ってたんだから」

「知ってる」

「でも、親切だし、たくさんかわいいって言ってくれるし。実は真面目なところもたくさんあるって感じてたから……それなのに」

 急に声が太くなる。どうしたんだろう。

「由有と急に仲良くなって。本当は由有とずっと語り合いたいんじゃないの?」

 そういうことだとはわかっていたけれど、あれほどわかりやすい態度変更はなかったなあと思う。わずか三カ月前なのに果てしなく昔に感じる。僕自身はそれほど由有ちゃんとベタベタしていたつもりはなかったのだが、あるいはこれから急接近すると踏んで、事前に釘をさしてきた、というあたりが真相なのかもしれない。

「いや……。確かに由有ちゃんは美人だよ。一緒に飲むだけなら鼻が高いさ。でも、話の内容がこんな救われないことだったら、語り合いたくないな」

「由有にはその結論、言ったの?」

「言ったよ。かなり飲んでたから、説明は相当すっとばしたけど」

「……一度だけ」

「ん?」

「由有も悩んでるみたいだし。一度だけとことんその話につきあってあげて。でも、二人きりじゃダメ。きっとトシくんだって知りたがるだろうし、心配だろうから、四人で」

「俺はもう話したくないな」前日に啖呵を切ったばかりだ。あのいらだちはまだ、心にくすぶっている。

「トシくんとつきあってずいぶん柔らかくなったと思うんだけど、でも、その分、闇が濃いっていうか……悩みが深くなっている気がする」

 美智代も同じような印象を持っていたとは。

「俺から言うわけにはいかないから。美智代にそういう気持ちがあるのなら、美智代が話してみてよ。由有ちゃんだって、もう俺とは話したくないかもしれないし」

「そうね。今度会ったときにでも……仲直りできたなら」


 その日は夕食を四条大宮のココイチで食べたあと、美智代の部屋まで送る。

「今日はみっちゃんが泊まる?」

 にっこり笑ってそんなこと言う美智代がいとおしい。だけど。

「泊まりたいのはやまやまだけど、毎日どちらかの部屋にいるのって、あまり健全じゃないと思うんだ」

「あー、みっちゃん最近、本当に人格者になってきた」

「美智代が不良化してきたからね」

「えへへ。不良娘にしたのはみっちゃんだもん」

「うん……だからだよ。一人でいる時間があったほうが、二人でいる時間のありがたさを感じるんじゃないかな。いつも二人だったら、いつか空気みたいになってしまいそうで。世界で一番大切にしたい美智代を、平凡な存在にしたくないんだ」

 そういうと、美智代は少し考えていた。

「じゃあ、週に三回、一緒に夜を過ごして。四回は我慢するけど、毎晩電話して」

「わかった。じゃあ、ひとまず今日は帰るね」

「うん。……明日、バイトで」

「おやすみ」

 玄関先で抱き合い、僕と美智代はさよならとおやすみの口づけをした。もちろん、帰宅したあとは電話して、おやすみを言った。


 翌日はバイトだ。十分前に控え部屋に着くと、すでに美智代が到着していた。

「あ……」

「おう」

 なぜだろう、なんだか気恥ずかしい。一昨日、初めて抱いた女の子。昨日一日ずっと一緒にいたときは、その延長だったからあまり感じなかったけれど、一晩置くと、まるで夢の中の出来事のように感じる。

「身体……大丈夫? どこか痛くない?」

「ん……平気」

「よかった」

「ありがとうね……みっちゃん、優しいね」

「まあね」

 照れ隠しに茶化して、あははははって笑いあう。それでいつもの僕たちだ。


 その日も暑く、客がごっそりやってきてかなりの忙しさだった。一時間休憩のあと、夕方近くになってようやく一段落してくる。ただし、夕食時が終わったあとの午後八時ころになると、また忙しくなる。レストランで食事した人たちがデザートを求めてくるのだ。その後、一杯飲んだ人たちも来たりする。総じて閉店の九時まで忙しい。

 だから、少し客が引く夕方にアイスクリームの補充、そのほかの食材の補充、アイスクリームマシンの分解洗浄などをやっておく。マシンは三台あり、一台ずつ順番にしていくのだ。

 バックルームにある冷凍庫で食材の調達をしていたら、表から美智代が緊張した面持ちでやってきた。

「みっちゃん……」

「ん? どうした?」

「由有が来た。トシくんと」

「え」

 そういえば一昨日飲んだときに「あさってどうぞ」と言った覚えはあるけれど。あんな派手な喧嘩してしまって来るとは思ってなかった。

 表に出ていく途中、ほかのバイトが「あの客、すげー美人だなあ」なんて言ってるのが聞こえて、「ああ、由有ちゃんのことだな」と思ってしまう。 

 カウンターに姿を現すと、フロアの端にトシと由有ちゃんがたたずんでいた。デート途中なのかちょっとおしゃれしている感じだ。由有ちゃんは身体にかなりフィットするピチTにホットパンツを履いてて、かなり悩殺度の高い服装だった。一夜をともにしたときには気づかなかったが、由有ちゃん、かなりグラマラスなんだな。こんなにピタッとした服を着ているのを見たのは初めてで、即時スキャンを発動してしまった。かわいい女の子には問答無用で作動してしまうのが欠点だ。


 86(E)-60-87


 瞬時に数字が浮かぶが、美智代に「なに見てるのよ」と後ろからこそっと言われてしまった。僕が出てきたのに気づいたのか、二人がカウンターにやってくる。

「三山くん、ごめんね、」由有ちゃんはそう言い出した。僕はそれを制する。

「まだ仕事中だから。なにかあるなら、終わってからにして。あと三十分だから」

「あ、うん……」

「どうせなら、食っていけよ」そういいながらトシに視線を移す。

「お、うん……その、仲直りはできたのか。それだけ教えてくれ」こっそり低い声で聞いてきた。この店で僕と美智代の仲は周知のものだ。それが、やばいことになっていると知らせるのはまずいと考えたのだろう。トシの義理堅く気配りできる一面は本当にありがたい。

「大丈夫、雨降って地固まる、だ」

 そういうと、二人はホッとした顔になる。横で美智代もニコニコ笑っていた。


 三十分後、仕事を上がり急いで着替えて二階の客席に行くと、トシと由有ちゃんがテーブル席に座って待っていた。

「来店どうも」

 とりあえずそう言ってみた。というのも、由有とトシの意図が読めなかったからだ。

「制服、似合ってるじゃん」珍しくトシが軽口をたたく。

「みっちゃん、モテるのよ。私と付き合ってるのが表沙汰になってないころ、私の前でほかの女の子に口説かれてた」

「マジか」

「うん」

 なあ、美智代、どうしてそんなにうれしそうに言うんだ。美智代セクハラ事件で僕との関係がバイト先にバレたあと、志村とバイトが一緒になったとき、志村が「三村くん、ひどいじゃない。松沢さんがすぐそこにいるのにさあ。もう、私、恥ずかしくてしょうがないよ」とかわいく怒られた。「申し訳ない。でも、表沙汰にして同じ時間帯に入れなくなるのが嫌だったんだ」と説明すると納得したようだ。「それに、相手が松沢さんなら私なんて無理ね……」なんて言うから「いやいや、志村かわいいよ。声もソプラノボイスで綺麗だし。その……身の固いところとかすごい魅力だよ」っていうと、キっと強いまなざしになり、「なるほど、それが水素なみに軽いって部分なのね!」なんて怒られてしまった。以来、志村とはバイトの一員としてのつき合いを継続している。


「ここのバイトの女の子、みんなかわいいね」由有ちゃんが言う。

「ああ、顔で選んだって、マネージャーが言ってたよ。由有ちゃんだったら、一発で採用」

「みっちゃん!」

 だめだ、つい、水素なみっちゃんが出てしまった。

「で?」とりあえず、話すべきことは済ませないと。

「本当にごめんなさい。もうあの話はしないから」。由有ちゃんが立ち上がったかと思うと、九十度腰を折って謝る。そんなことをされたら、またバイト連中に話題を提供することになるじゃないか。由有ちゃんは誰が見たってピカ一の美人なのに、その女の子が僕に頭を下げてるんだから。

「美智代にも。本当にごめん」

「その件だけど」

 美智代がおそらく意図的に仰々しく言いはじめる。

「昨日、みっちゃんと話したの。由有の考えてることもわかる。私はみっちゃんの考えを教えてもらったから、由有が納得いくまで語り合わせるのもいいんじゃないか、ってね」

「美智代……」

「でも、一度だけだよ。それが終わったらもう絶対話さないで。ちなみに、その話し合いは当然私とトシくん立会いのもとだよ。二人きりにさせたら、危ないし」

「そんな、私はそんなこと」

「なに勘違いしてるの、みっちゃんだよ、問題は」

 美智代がそういって、僕がてへへへって笑う。もちろん半ば冗談だ。


「送り火の日、みっちゃんの部屋に集まるのは? 私たちはバイト休みにしてるし。昼間に一時間くらいその話をしたあと、どこかで夕ご飯食べて、夜は屋上で送り火を見るの」

「確かにみっちゃんの部屋からだと、まんべんなくきれいに見えるだろうな」土地勘のある京都人のトシが言う。

「みっちゃんのマンションの屋上を開放してくれるんだって。私はもう許可をもらってるんだけど」

「さらに二人追加か……。大家さんに聞いてみるよ。いきなり行っても迷惑になるし」

「だめだったら、ベランダからでも見えるから」美智代がそう言うと、「そうだよな……、松沢はみっちゃん家に泊まってたから、景色わかるんだもんな」しみじみと言う。

「こんなときに自宅生の身分を恨むなあ」珍しくトシが欲望丸出しのセリフを吐いたので、由有ちゃんが「その件に関しては後でゆっくり話しましょ」と焦りながら後を引き取った。どんなふうに話をまとめるのか興味津々だったのだが、普通に考えるとトシが由有ちゃんの家に泊まるパターンになるだろう。男子大学生の外泊なんて珍しくともなんともないし、月例で朝帰りなんて何度もしているから、問題ないはずだ。

「トシくんは、由有の部屋に入ったことあるの?」美智代が鋭い問いを投げる。

「それは……あるけど……お茶したり、テレビ一緒に見てただけよ」かぶせるように由有ちゃんが言うので少し不審に思った。

「由有ちゃん、もしかして恥ずかしがってる?」

「え」図星を指されたようで、顔を赤くしている。大人っぽい由有ちゃんの子供っぽい一面が見えて、それはそれで落差にキュンとしてしまう。しかも、こんなに露出度の高い服装なのに。

「俺とか美智代が頭の中で、いろいろ淫靡な想像しているんじゃないか、他人の頭の中で自分がエッチなことさせられているのが嫌なんでしょ」

潔癖症のところがある由有ちゃんのことだから、少し考えればわかることだ。

「もう……なんでわかるの!  子供っぽいと思ってるんでしょ」

少し唇を噛んで、上目遣いに僕を睨む。でも、その表情がコケティッシュで色っぽい。思わず視線を外してしまう。

「子供っぽいというより、潔癖なところがあるからさ。それにしては今日のコーデは大胆というか……」思わず再スキャンしかかったところで、バシンと美智代に頭をはたかれた。

「まったくもう……おとといくれた言葉が信じられなくなる!」冗談めかして美智代が言ってるのがわかるので「えへへ」と笑って返したけれど、由有ちゃんは「もう!」って言いながら両腕で胸を隠すし、トシはニタニタ笑っているし。

「ちょっとね、気分転換に。今まで自分がしそうもなかったような格好してみようと思って」

確かに。これまでの由有ちゃんはどちらかというとクラシカルなお嬢様系の服装が多かった。それがまたぴったりとハマるのだが、今日のような少しギャル系の服装でも、また別の一面が引き出されている。

「ちょっと待てよ」トシが不意に言いだした。

「おととい? あの喧嘩した日? あのあと、そういえばどうしたんだ?」

 トシにしては今世紀最高の鋭いつっこみに僕と美智代は目を見合わせて固まってしまった。

「あれ? あれれれれ?」

 由有ちゃんが反撃とばかりにニヤニヤしながら突っ込みはじめる。

「また、朝までコース?」

「うん、まあ」僕があいまいに返事して、美智代が顔を赤くして俯いたおかげで、鋭い由有ちゃんが気付いてしまったようだ。

「三山くんはプラトニックラブ愛好家を返上したみたいね」

トシから聞いていたのか、僕の過去の冗談肩書きを利用してそう言う由有ちゃんの表情には、諦念感が漂っていて違和感を感じる。呆られてるのかもしれないけれど、そもそも僕がプラトニック主義を返上したところで、由有ちゃんには何も関係ないと思うのだけど。

「二人で……階段を登ることにしたの。私とみっちゃんが、お互いを失わないように」

 静かに美智代が言ったので、由有ちゃんの表情が緩んだ。

「階段か……いいね、その例え。私はどこまで登ればいいのかな……」

 視線を落としながら由有ちゃんがつぶやいた。

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