第6話

 うっすらと明るくなってきたと思う。カーテンの隙間から鈍い光がぼんやりと暗闇に輪郭を示している。

「ん……」

 僕の腕枕の中で美智代がこごえた子猫のように丸まっていた。

 僕たちは初めて、同じ夜を明かしていた。


 思えば、僕と美智代が恋人同士になったきっかけは僕への由有ちゃんの接近だった。

今回、初めて夜をともにしたのは美智代へのセクハラ案件がきっかけだ。僕たちの歯車が動くのは、いつも外圧によってだった。

 夜をともにした、というのは語弊があるかもしれない。僕は美智代と、しなかった。男に言い寄られて傷ついた恋人の、ひしゃげた心につけこむような形でそんなことをしたくなかった、ということもある。だけど、直接的な理由はもっと単純なものだった。


 昨夜、手をつないで僕の部屋へ歩いてたとき。美智代がおずおずと言ってきた。

「ごめん、みっちゃん。今夜一緒にいたいって言ったけど、……できないの」

「あ、……うん、まだ早いよね、そういうの」

 もしかしたら、と淡い期待はあった。泊まりに来ると言ってるのだから。でも、まだ恋人になって一カ月だ。キスしたばかりなのに同じ日に最後まで、というのはやはり早すぎるだろう。

「ううん、そういうんじゃなくて……その……女の子の日なの」

「あ、なるほど……」

 それは避けたいだろう。いくら「流血する」と言っても種類が違う。僕にはそういうときにどうしたらいいのかの知識がない。

「もう終わる頃だけど、お布団、汚さないように気をつけるから、一緒に眠ってくれる?」

「もちろん」

 そう答えると、美智代は「よかった……」と僕にしがみついてくる。


 すっり暗くなった鴨川べりで初めての口づけを交わしたあと、僕たちはこじゃれたイタリアンレストランに入った。すっかりお腹はぺこぺこだったので、二人でパスタセットにサラダにスープまでつけて。そして、白ワインをデキャンタで。なんだかこの日は、ちゃんとお祝いしたい気分だったのだ。

 いつも学食で食べるときはものすごい速度で食べてしまうんだけど、この夜はゆっくりと味わいたかった。いくら安物のワインでも目の前に美智代がいると、年代物の味に感じてくる。僕たちはこの夏、いくつ階段をともに昇ることができるだろうか。


 四条大宮で電車を降りて、小路を歩きながら僕の部屋を目指した。予定していなかった「お泊り」だから何も用意していない。途中のコンビニで「お泊りセット」を買う。由有ちゃんもそういえば買っていたけれど、具体的に何が入っているんだろう。歯ブラシ、歯磨き、シャンプー、コンディショナーはわかっているけれど、それ以外にもなんだか入ってるように見える。

「それ、どんなのが入ってるの?」と聞いても「恥ずかしいからダメ」と断られてしまった。

「美智代さ、今回みたいな不意の泊まりもあるから、それ買ってもいいけど……何度も来るんだったら、歯ブラシとかシャンプーとかコンディショナーは大きいの買っちゃえば? それでウチに置いておけばいいかなって」

 僕は合理的に考えてそう提案したんだけど、美智代は違うベクトルでとらえたようだ。

「それって、なんだか大人って感じがするね。まるでシャンプーのボトルキープみたいな」

「いいね、それ。ボトルキープか。歯ブラシや歯磨きもさ、お気に入りのがあるんだったら一つうちに置いておけば」

 頭の中に二つの歯ブラシが仲良く洗面台に並んでいる絵が思い浮かんで、とても大人になった気分になる。高校生のころには考えなかったような出来ごとを経験して、やがてなじんでいく。

「歯ブラシはそうしようかな。でも、歯磨きはみっちゃんのでいい」

「なんで?」

「だって、同じ味の……キスができるよ?」

 こんなにかわいい子が恥ずかしがりながら、こんなことを言ってくるなんて。僕は世界一幸せなはずだ。

 僕の一人暮らしのマンションは商店街の一角にある。その中にスーパーマーケットも入っていた。そこで美智代はシャンプーとコンディショナー、そして歯ブラシを買った。

 閉店間際に入ってそれだけ買うと商店街はもう閑散としている。夜九時。美智代は初めて僕の部屋にやってきた。


 部屋はそれほど片付いていなかった。

「ふふ。予測はしてたよ。まだ、片付いてるほうじゃないの?」そんなことを言いながらリビングの壁際にちょこんと座った。

「みっちゃんちって追い炊きできるタイプのお風呂だっけ」

「うん。もう沸かす? 昨日掃除したばかりだからキレイなもんだよ」

「よかった。一週間前のだったら、さすがに遠慮しようって思ってた」

「だったら、すぐ掃除するさ」

 バスルームへ行き追い炊きスイッチを入れる。ふと、洗面台の下にある由有ちゃんの「忘れ物」が気になった。でもまあ、あんなところは開けないだろう。今日、美智代が来るのだったらやはり処分しておけばよかった。

 バスタオルとフェイスタオルは、予備があった。母親が多めに持たせてくれたのをこれほど感謝したことはない。由有ちゃんが来たときに使ったものがあるけれど、彼女の裸に触れたものを美智代が使うというのは、やはり抵抗がある。そういえばパジャマはどうしよう。

 真夏の夜。扇風機だけだ。夜具は薄手のブランケットをかぶるくらいしかない。そういえば、ベッドのシーツはあれから換えたっけ。いや、いくらなんでもあれから二カ月近く経っている。二回くらい換えていたはず。少なくとも一度は換えた。

「美智代、何着て寝る? パジャマあるけどちょっと暑いかも」

 たたまれたパジャマを差しだすと「みっちゃん、これ着てるの?」と聞く。

「いや、これは予備。俺はいつもTシャツに短パンで寝てるから」

「みっちゃんがいつも着てるTシャツ、なにか一つ貸して」

 意外なリクエストに、和箪笥からTシャツを数枚取り出した。

「これがいい」

 波打ち際の風景がシンプルなタッチで描かれたグレイのTシャツ。

「実は私、これが好きなの」

 そうだったんだ。


 いくら美智代が長身なほうだといっても男物のTシャツを着ると、太ももあたりまで隠れる。

「ジャージだったらあるよ」と渡して、とりあえず寝る体制はできた。美智代はスーパーで買っていたハーフサイズのタオルを腰の辺りに敷いている。

「たぶん大丈夫だけど、汚さないようにって……」

 なるほど。長い間男の子をやっていたら逆にわからないこともあるもんだ。

 生理については触れてはいけない問題だと思っていた。生理用品のCМが流れても関心持たないようにしていた。男同士ならまず話題にも上らない。親しい友人の女の子相手でも、まずしない。

 でも、恋人同士なら。

 ことに、「そういう関係」になるのなら。避けては通れない問題だ。それが自分的には大人になった感じがしてうれしく感じた。面倒だと思う男は恋人を作らないほうがいいと思う。


 お風呂が沸いて美智代に先に入らせた。由有ちゃんのときもそう感じたけれど、風呂場から物音が聞こえてくるのって、なんだか色っぽい感じがする。これで、鼻歌でも聞こえてきたら完璧だ、と思っていたら、♪ラララ~と美智代の歌声が聞こえてきたのだった。

 とてもいい。この部屋でリラックスしてくれたら。

 美智代の歌声を聞きながら、リビングの片付けを終えた。


 ハンドタオルを頭に巻き、美智代がバスルームから出てきたのは三十分後だった。

「やっぱり湯船につかれるっていいね」

「気持ち良さそうに歌ってたね」

「え? ほんとう?」

「あれ? 無意識に歌ってたの?」

「なんだか、恥ずかしいな……みっちゃんに、私さえ知らないことを知られそう」

「いいじゃん、恋人なんだから」

「……うん」


 お風呂あがりだからなのか、今の言葉のせいなのか、美智代はほんのりと上気していた。かわいくて、自分一人のものにしたく思う。僕は、今夜、耐えられるだろうか。


 由有ちゃんのときは、恋人でもなんでもなかった。由有ちゃんに心の中を見透かされたような言葉を言われて、逆にそれが強い威嚇になっていたと思う。なにより酔ってたので、もう何かをする力が残っていなかった。

 でも、今日は飲んでいるとはいえ、まだ全然平気なのだ。それに相手は恋人の美智代で、今日キスを交わしたばかり。あんなに情熱的な口づけをして、それでお泊まりなんだから。


 湯船につかる。


 いやいや、今日はシチュエーション的にダメだ。

 美智代と自身のために、完璧な「はじめて」の体験をしなきゃならない。そのためのリハーサルとでも思わないと。

 それでもあれだけかわいい女の子が隣で眠るんだからな……。今この場で自慰をして性欲をダウンさせようかとも思った。しかし、結局それはやめた。もっと根源的な部分で僕は耐えなければならないと思ったからだ。


 リビングからはドライヤーの音が聞こえてきていたが、やがてそれも止んだ。

「ねえ、みっちゃん、歯磨きしていい?」

 バスルームの扉の外から美智代の声が聞こえてきた。

「もう、何も食べないよね。いいんじゃない?」

「うん」

 シャカシャカとブラッシングの音が聞こえてきて、その音にあわせるように体をごしごしこすってなにげにアンサンブルしてみる。美智代が歯磨きしているということはもう寝る体制に入っていることだよな。もう十時を回っているし。寝るにはまだ早いけれど、でも、何も話さずに寝るということはないわけで、その時間を考えるとそろそろ上がるべきだろう。

 美智代が洗面台兼脱衣所からいなくなったのを見計らって、風呂から上がる。どんな夜にしたらいいのかわからないけれど、結局のところ、美智代が安心する夜を過ごせればいいんだと結論づけた。


 風呂から上がり、歯ブラシをくわえながら出てくると、美智代は壁際にちょこんと座ってテレビを見ていた。

「テレビつけてるね」

「うん」

 ニュース番組が流れていたけれど、あまり見ていないようだ。間を持たせるために流しているような、そんな感じだった。時間は十一時になろうとしていた。

 歯磨きを終え、麦茶を飲む。

「そろそろ寝よっか。飲む?」

 コップに注いだ麦茶を差し出すと、「あ、うん……」。歯磨きしても、麦茶は許されると僕は思っているのだが、これは自分ルールだろうか。

 美智代はその時が来るのをじりじりと待ってるようで、僕のほうにまで緊張感が伝わってくる。ふだんは洗いざらしの髪のまま放置しているけれど、このまま乾くまで起きてはいないだろうからドライヤーをかけた。

「みっちゃんいつもドライヤーかけてるの?」

「え? いや……」

「だよね、乾かしてから寝たらあんなに寝グセつかないはずだし」

「なるほど、そういうことなのか。洗いざらしのまま寝るから寝グセが激しいのか」

「今まで気づかなかったの?」

「うん」

「なんかおかしい」そう言って笑うけれど、緊張のせいかお互いぎこちない。

「で、どうして今日はかけてるの?」

「あ、ええと……いつも放置して乾いたと思ってから寝てるけど、今夜はもう寝たほうがいいのかなと思って……」

「あ、うん……」

 二人はリビングにいるけれど、意識は隣の寝室に飛んでいる。このまま、大事なことを避けていたら、この緊張感だけで心が割れそうだから思い切って言った。

「ねえ、美智代。今夜は一緒に眠るけど、……帰りに言ったけど、しないから。安心して」

「……うん」緊張をはらんだ顔で美智代が見つめる。きれいだなあって思う。

「だけど、絶対に……抱くから。いつかきっと」

 言った。言ってしまった。宣言した。

「……ん」

 美智代は顔を赤くして、小さくうなづいた。

「じゃあ、寝よう?」

 手を差し出すと、美智代はリモコンでテレビを消して、僕の手を取った。


 寝室に入る。扇風機をセットする。直接身体に当てず、壁に当てることで部屋の中の空気を循環させる。そういう方法だ。でも、今夜はそれだけでこの「熱さ」が緩和できるのか不安だった。

 二人で眠るつもりで買ったわけじゃないけど、このセミダブルのベッドは大活躍だ。春からの四ヶ月ですでに二人か……。

 押入れから予備枕を出しておいた。二つ並んだ枕。なんだか淫靡な絵だ。


 ブランケットを風にはらませてかける。ふわりと二人の上にかぶさっていく。僕と美智代が向かい合っている。美智代の吐息が聞こえる。

「みっちゃん、真っ暗派?」

「灯り? そうだけど」

「そっか……」

「点けて寝るタイプなの?」

「豆球だけ」

「いいよ、点けてても」どのみちそれほど気にしない。

 蛍光灯の常夜灯だけを点けると、ベッドルームはオレンジ色に染まる。

 振り向いて美智代を見下ろすと、ブランケットに浮き出た、美智代のプロポーションがいやがおうにも目に入る。そこにある肉体。誰もが振り向く美しい身体……。

 もう一度ベッドに入る。

「腕枕したい」

 そう言って、美智代の首の下に左腕を通した。もう、ぎゅうっと接近していて、常夜灯に浮かぶ美智代の瞳を見つめて。右腕で背中をかき抱くとくちづけをする。鴨川でしたのよりも、激しいキス。舌先で美智代の口内をなぞるように。抱きしめて。息もつかせないほど。

「同じ味のキスだあ……」

 美智代がとろんとした目で見ている。

「今夜はいつまでもキスできるね」

「みっちゃん、激しい……頭の中ぼーっとしてきちゃう」

「せめてキスだけは……」

 そういうと。美智代は伏し目がちに、「胸も……触っていいよ」と言った。

 ずしんと脳天に響く。美智代がそこまで言うなんて思わなかった。じつはもう、抱きしめてキスしているときから、Tシャツごしにやわらかなふくらみが僕の胸板に当たっていて、より一層劣情を増幅していた。背中に回していた右腕を身体の前に持ってきて、おそるおそる美智代の乳房にあてがう。

「んあ……」

 張りのある、ボリューミーな膨らみが伝わってきて、股間の怒張がこれ以上になくいきり立っている。しかも、初めて聞く美智代の声。普段よりも高いトーン。快感を感じてる嬌声の成分が含まれていて、淫靡な気配が濃厚に感じられる。やばい。

「今日は、……ここまでにしておくよ」

「……え」

 美智代は安心したような、残念なような複雑な顔をしている。

「これ以上、美智代の身体を触ったら、約束を守れるか自信がない。我慢する」

「ごめんね……日が悪かったね」

「もともと今日、そういう予定でもなかったし。気にしないで。でも、この夏の間に、少なくとも十月の俺の誕生日までに抱くから」

 さっきは「いつかきっと」と言ったけれど、今度は明確に期限を切った。僕の誕生日は十月十日だ。

「……うん」

 美智代は期待と不安をはらんだ瞳で見つめる。このまま見つめあってると息がつまりそうだから。

「えいっ」

 腕枕していた左腕で美智代の身体を引き寄せる。僕の胸に美智代の頭がのっかかる形になって。

「このまま寝ていいの?」

「もちろん」

 すると美智代は左腕を僕の右胸に置いてくる。僕は右手で髪をなでて。

「そのまま触られてたらすぐ眠れそう」

「そう? だったらずっとこうしてるよ」

「私、みっちゃんの彼女になれて幸せ」

「ありがと……世界中でいちばんかわいい美智代の彼氏になれて、俺も幸せだよ?」

「……ふふ」

 やがて、波乱万丈だった一日の疲れが押し寄せてきたのか、僕も眠りに落ちていった。


 朝焼けの明かりで目が覚めて。丸くなってくっついてる美智代を起こさずに起きるのは無理だと思って、ゆらゆらと美智代を起こす。

「美智代、ちょっとだけ起きて」

「ん……」

 まぶしげに手を顔にやりながら少し目を開く。

「あれ? あ、そうだ……みっちゃんちに泊まったんだった……」

 恥ずかしそうな顔している美智代に「なんだか外が赤いみたい」と言って、カーテンを開けると、見事な朝焼けで町が照らされていた。

「夕焼けでは見るけど、朝焼けでこんなに紅いの見るのは初めてだな」

「だって。寝てる時間でしょ」

 あははは。そのとおり。

 彼女と初めて見る夜明けがこんなに情熱的な紅でよかったなと思った。


 そのあともちろん二度寝をして、八時半ころに起きた。ベーコンエッグとトーストの簡単な朝食を作る。ベーコンを半分に切って、サラダ油をひいたフライパンで軽く火を通したあとに、卵二つの目玉焼き。塩コショウでもいいし、醤油でもいい。ちなみに僕は醤油派。半熟の黄身をスプーンですくって食べるのが至福だと思っている。トーストはバターといちごジャムをお好みで。葉っぱから入れた紅茶を、クラッシュアイスを入れたグラスに注いで急速に冷やしてアイスティーを作る。


「みっちゃん、料理できるんだ」

 興味津々といった感じで、美智代はちっちゃなキッチンの横に立って見ている。

「こんなの料理のうちに入る?」

 そう言いながら出来あがった皿を差しだす。

「すごーい。私、実は不得意で……」

 それは意外だった。美智代はおよそ、女の子がする家事すべてがうまいと思っていたんだけれど。でも、そういう欠点さえ、人間味を感じていとおしいと思うのは、やはり「あばたもえくぼ」なんだろうか。


「でも、みっちゃんに食べてほしいから、練習する」

「美智代が作ってくれるなら、なんでもおいしいよ」

 たぶん、僕たちは今、無敵状態なはずだ。幸せ光線が四方八方に広がっていて、不幸な風をさえぎるバリアを作っている。まるで、バン・アレン帯のように。

 

 朝の日差しが降り注ぐリビングで、軽めのポップスをかけながら恋人と食事。たまにカーテンを躍らせるそよ風が室内に入って、すがすがしさを運んでくる。理想的な、夏の朝食だ。


 そこに電話が鳴った。


「朝早くに悪い。折り入って相談があるんだけど」

 トシだった。

「深刻そうになんだよ。由有ちゃんとなんかあったのか?」

 そう言ったので、美智代も相手がトシだとわかったみたいだ。

「なんかあったわけじゃないけど、その……俺の知識がなさ過ぎて由有ちゃんの話についていけない」

「たとえば?」

「例の話だよ。『人はなぜいるのか』みたいな禅問答。俺にはさっぱりわからなくて。みっちゃん、けっこう話したんだろ。どんな本を読めばいい?」

 うーん。悩める男子にどういえばいいのだろう。だいたい、この手の話、僕は大嫌いなのだ。だけど、話はできる。

「だいたい、俺の返事だって怪しいよ。由有ちゃんがどう思ってるのかわからんし」

「『三山くんはこう言ってたけど』」

 いきなり、トシがきしょい声色で物まねらしきことをしたので、とうとう恋わずらいが脳に達したのかと思った。

「へ?」

「由有ちゃんがよく言うんだ」

 由有ちゃん、そりゃダメだ……。トシは義理がたくて真面目な男だけど、真に受けすぎる。今だって、俺が適当に流した話題でこんなに悩んでて……。にしても、そういう知識がないってのもこの先困るかもしれない。

「とりあえず哲学の入門書と三大宗教の概略くらい押さえておけば。それ基本」

「みっちゃん、宗教の本なんて読んでたのか?」

「別に信者じゃなくても聖書くらい読むだろ。旧約はユダヤ教の経典になってるし。コーランも岩波から和訳が文庫で出てる。読むと面白いよ。あとは仏教系か……訳出した法華経が出てたはずだから、それも。法華経は問答形式になってるからわかりやすい」

「すごいな……ただの水素じゃなかったんだ」

「俺だって悩んでた時期はあったよ」

「な、久しぶりに四人で飲まないか? 今週のどこか」

「あー、バイト終わりならいつでも。美智代、トシが四人で飲みたいって。今週ダメな日ある?」何も考えずに、テーブルの向こうにいる美智代に声をかけてしまった。

「あれ、松沢いるのか? こんな朝に」

 しまった。うっかりしていた。

「あー、うん、まあ」

「まさか……泊まってた?」

「……あー、うん、まあ」トシには別に言ってもいいだろう。

 しばし、沈黙。大きなため息。

「そうか……。まあ、でも、つき合ってるし、もう大学生だし、別に珍しくはないよな」

 最後は自分に説き伏せるようにトシは言う。ちゃんと事実を教えなければ。

「勘違いするなよ、俺たちはまだ清い関係だ」

「え? なんでまた」

「プラトニックラブ愛好家だからな」

「……よく言うよ」

 そういうと、美智代が「受話器貸して」と言ってきたので渡す。

「もしもしトシくん? みっちゃんの言ってることは本当だよ? まだまだプラトニック時代を満喫しようと思って!」そういうと受話器を僕に戻した。

「というわけ」

「俺もう、みっちゃんのことがわからない」

 ……最近、よく言われる。


 その日はバイトは休みだったので、河原町あたりをふらふらと二人で流して、マクドでお昼を食べた後、シフトの確認とデザート食べにバイト先へ寄った。二人で店先に現れると、「ひゅーひゅー」とはやし立てるやつら。バカどもめ。表階段から二階に上がりバックルームへ行くと、昨日までなかった掲示があった。


 端的に言うと、美智代にセクハラした篠原は懲戒解雇。今後、勤務中に過度なナンパは禁止。


「『過度な』っていうところがキーポイントだな」

 独り言を言ってた。

「そこそこならかまわない? ってこと?」

 少し高いトーンで美智代が言う。

「そういうこと。そこまで目くじら立てたら楽しみもなくなるよ。仕事をちゃんとした上で、手すきのときに『お話』するくらいはいいんじゃない?」

「なんだか、みっちゃんが人格者みたいに思えてくる発言ね」

「あれ、知らなかった? 俺、人格者なんだぜ?」

 きゃはははは、って笑いながら、僕たちは裏階段から一階に降りた。前日の現場である冷凍庫・冷蔵庫のほかに事務所がある。。

「よっ、ちゃんとフォローできたか?」

 昨日、気を利かせてくれたマネージャーがにこやかに聞いてくる。

「ばっちり朝まで」美智代がそう応えて。おいおい、僕でもそんなリアクションしないって。

「おいおいおい、そこまでは言ってなかったぞ」案の定、驚いたマネージャー望月氏。

「心配しないでください、三山くんは、私に指一本触れなかったんです」

 うるうる目で訴える美智代に望月氏はあっさり騙された。

「三山って、意外に人格者だな」まるで仏像でも見るような目で僕を眺める。

「意外に、は余計です」

 きゃははは。

 みんな、僕のこと、どう思ってるんだ?


 とりあえず、バイト先で起きた事件に関しては、すべて片付いたようだった。


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