第5話
七月に入り間もなく夏休みになる。大学一年の夏休みをいかに過ごすか。それは人生の一大問題だ。
「ねえ、みっちゃんはどうするの。帰省」
美智代が聞いてきた。いつもの学食でいつものとりあわせ。美智代は日替わり定食で、僕はラーメンとカレー。
「俺はいつでも帰れるからなあ。お盆あたりにと思ったけれど、五山の送り火は見たいし。うちの部屋から見えるし、マンションの屋上開放してくれるって、大家さんが言ってて」
僕の実家は大阪だから、帰ろうと思えばいつでも帰れる。新幹線を使わないといけない美智代や由有ちゃんとは違い、阪急を使えばいいだけだ。
「え、本当?」
「うん。屋上からだと全部の送り火が見えるみたいだよ」
「それいいなあ。ね、私も行っちゃいけない?」
「聞いてみるよ」
そういえば、恋人になって十日間たったけれど、美智代はまだ僕の部屋に来たことがなかった。僕たちの仲は専攻じゅうにすぐに広まったようで、「やっぱりな」「いいなあ」と男性陣から「感想」をもらっていた。
「ここ最近、松沢さらにかわいくなってない?」なんていう声も聞こえてきた。僕と恋人になる前と接し方がやや変わったというか。少し照れが見えるのだ。それまではただの友人だったけれど、恋人になって意識しているのがわかる。それに恋したらやっぱり女の子はきれいになるんだと思う。たとえ相手が僕でも。
「美智代は? いつ帰る?」
「私もお盆あたりと思ってたけれど、その話聞いたらちょっとずらそうかな」
「一緒に見れたらいいね」
「うんっ」
そう言ってにっこりほほえむ美智代はやっぱり美少女だ。たとえ、ほっぺにご飯粒がくっついていても。と思っていたら。
「ねえ、みっちゃん……一緒にバイトしない?」
「バイト? どんな?」
確かにそろそろバイトしたいなと思っていた。奨学金に親の仕送りもあるがそれだと毎月ギリギリだ。自由になるお金は欲しいし、夏休みに何もバイトしないというのはありえなかった。
「新京極に新しくできるアイスクリーム屋さん。東京で行列が出来て超有名なんだって」
店名を聞くと僕も知っているお店だ。雑誌で見たことがある。京都に支店を出すということか。
「条件は? 時給とか」
「ええとね……」
ポッケから手帳を取り出してページをめくり、読み上げてくれる。割にいい条件だ。シフト制だから美智代とスケジュールを合わせられるだろう。
「それって今募集中?」
「来週から採用開始だって」
「問題が一つある」
そういうと、美智代が心配顔する。僕が心配しているのはごく簡単で、重要なものだ。
「俺たち二人とも採用されたらいいけど、美智代だけ、あるいは俺だけ、になったどうする?」
そういうと、美智代は虚を突かれたような顔をした。
「面接落ちるなんて考えもしてなかった」
「美智代は受かるよ」飲食店のバイトでこんな看板娘になりそうな、かわいい女の子を落とすなんてありえない。
「俺のほうだよなあ、問題は」
「その時は……私もやめる」
「いい条件なんだから、やればいいのに」
時給はそのほかの飲食店とくらべて二十円ほど高い。流行のお店だから、ステータス・シンボルにもなる。雑誌で見たオシャレな制服を着て働けるというのは、大学生のバイトではお金には換えられないものだ。
「ううん、みっちゃんと離れたくない」
そんなふうに言ってくれるだけで切なくなる。
結果的に僕の予測は杞憂に終わった。二人とも採用されたのだ。面接現場にはひっきりなしに若い男女が出入りしていたので、相当な競争率になっていたに違いない。採用の電話は僕と美智代とほぼ同時にかかってきており、僕が美智代に連絡しようとしたら、美智代から「合格の電話が来たけど、みっちゃんはどう?」って電話がかかってきたくらいのタイミングだった。そのあと、1週間の研修を経て、僕たちは同じ店で働きはじめた。
さまざまな雑誌やテレビで紹介されていた店の京都支店なので、開店当初から行列が出来、採用されたアルバイト百人がシフト制でフル回転していた。ほぼすべてが大学生だ。立命館、同志社、龍谷、京産大、大谷、仏教、同志社女子、京都女子、ノートルダム女子大、平安女学院、京都外大……と京都にある大学の学生が勢ぞろい、といった感じだった。京都大学の学生だけはいなかったが、彼らは単純労働のアルバイトなどしないのだろう。
後に社員マネージャーに聞いたところによると、バイトは「顔で採用した」とのことだ。なぜ僕が採用されたのか謎が残るが、女の子のルックスを見てみるとうなづけるほど、美形が揃っていたのは確かだ。しかも、その中でも美智代はトップクラスのかわいさを誇っていた。バイトに行くようになって一週間もすると、「あのスレンダーで丸顔の」「脚がほっそりしたアイドル系」というような形容詞で男子バイトの中で噂されるようになっていた。
その日までは僕と美智代は同じフロアで仕事していたから、彼女がどんな男にどんな言葉を掛けられていたのか聞くことが出来ていた。遠まわしに、または直接的に美智代はよく口説かれていたけれど、いつも「彼氏がいるの」と即座に断っていた。バイト先では僕と美智代がつきあっていることは公表していなかった。芸能人じゃあるまいし、自分から言うことでもないと感じていたし、言い出すにしてももう少しお互いの事情がわかって仲良くなってからにすべきだと思っていた。それに、恋人同士であることがもしかしたらバイトのシフト編成に悪影響を与えるのでないかと危惧していた。
「三山くんは声かけないの?」
隣でアイスクリームのケースを磨いていた、よく一緒に仕事している志村が聞いてきた。なんだ?
「声?」
「みんなしてるじゃない。……ナンパ」
ちょっと表情を硬くして志村が言う。それだけで志村が潔癖なんだとわかる。僕の苦手なタイプかもしれない。
「ああ、俺、彼女いるから」
さらりと返事する。なんせ、至近距離のフロアに美智代がいるのだ。すると、志村は、複雑な表情を伏せながら、意外なことを言い出した。。
「……そうなんだ。三山くん、ストイックそうで、ちょっといいなって思ってたから」
「え。そうなの?」
これは意外だった。自分のことをそんなふうに見ている女の子がいるなんて。お世辞にもモテるタイプじゃないと思っているし、しかも、志村のような「お堅い」女の子が僕にだなんて。美智代が僕を気にいったのはおそらく話しやすさと、ここ一番キメる強さだと思う。前にも言ったとおり、ここのバイトは顔で選んでいるので、志村もかなりキュートだ。茶色っぽい巻き髪、透明感のある声もいい。胸だってあるしスタイルは抜群だった。女の子ってちょっと違うタイプだときれいに感じてしまう。
「ストイックなんかじゃないよ。俺、学校では水素なみに軽いって言われてるし」
「ええ、そうなの? 私は黙々と仕事しててシブいイメージがあったんだけど」
そりゃ、恋人が至近距離にいるんだから、軽はずみなことはしない(できない)。
ふと気になってぐるりと周りの様子を見たら、少し離れた場所にいた美智代が半笑いしながら僕を見つめていた。聞こえてたんだろうか。なんだよ、僕がシブかったらイケないのか。
「たぶん、俺はきみが考えてる人とは違うと思うよ。勘違いさせてごめんな」
そういうと謝られたのが意外だったらしくて、「謝ることなんかじゃないよぉ。そういうところ律儀で、やっぱりいいなあって思うの」
少し甘えた声で意外に食いついてくる。断られても粘るタイプなんだろうか。お堅いタイプの志村が甘えた声を出すだけで、そのギャップにやられそうだ。どう返答しようか考えていたら。
「三山くん、フロアのゴミ箱処理してー」
テーブルの拭き掃除をしていた美智代が大声で言ってきた。もしかして嫉妬?
「違うよ、困ってそうだったから、助け舟出しただけ。みっちゃんモテモテだね。志村さん、けっこう言い寄られてるけど全員瞬殺してて『鉄壁』なんてあだ名つけられてるくらいなのに」
その日の帰りに美智代にそう聞いた。
バイトから上がる時間はまったく同じにしていた。微妙に誤差をつけて店を出る、ということもしていなかったけれど、四条通りの角で待ち合わせをするようにはしていた。帰り際に美智代が口説かれたり、追いすがられたりする懸念はあったけれど、これまでのところは大丈夫だった。もし、そうなったとしたら、別に隠すこともないから恋人宣言すればいいだけの話で、美智代の男性バイト内での知名度を考えると、その話はまたたくまに広がるだろう。
八月に入ってすぐの、暑い日。この日初めて、僕たちは違うフロアに配属になった。僕が一階で、美智代は二階だ。二階にも四人から六人のスタッフが詰めている。忙しい中ではダベるヒマもないけれど、一階が玄関に面していて客が途切れないのに比べて、二階は客が途切れることがあった。そうなったら、男たちは俄然、女性スタッフを口説きにかかる。女の子はかわいい子、きれいな子ばかりだったから、男たちはなんとかここで恋人を見つけようと必死だったし、すでにいくつかのカップルも誕生していた。
仕事が始まって六時間。夕食時は実はアイスクリーム店はヒマになる。一階への客も途切れて、カウンター周りの掃除をしていたときだ。バックルームから「やめてっ」と聞き覚えのある声が聞こえた。そのあと、どすんどすんとよからぬ物音が聞こえてきて、裏階段をバタバタと降りてくる足音が続いて聞こえてきた。
美智代の声だ。僕が裏へ行くとすでに幾人かのバイトが倒れている男を取り囲んでいた。その円周に美智代も立っていた。社員マネージャーが何が起こったのか聞いている。
「私はアイスの補充でこの冷凍庫にいました」
堅い表情で美智代が説明している。両手を堅く結んで小刻みに震えているように見える。何があったか、なんとなく想像はできる。倒れている野郎は、何人かに声をかけているのを見たことはあったが、あまり意識したことはなかった。
バックルームには人が入れるほど大きい冷凍庫と冷蔵庫が一つずつあった。冷凍庫なので完全防音だ。中で何が行われようと何もわからない。
「そうしたら、コイツが入ってきて口説き始めて、抱きつこうとしたんです」
うずくまった男は何も言わず俯いている。
「振り払って、外に出ても付きまとってきたから、これで殴りました」
美智代は傍らにあったアイスクリームの「樽」を指差した。これで殴ったのか。店先に据え付けている二十キロ入りのアイスクリームだ。こんなもので殴られたら、ひとたまりもない。
「おい、松沢に言ってることは確かか」
マネージャーが問いただす。それへの返事は、
「あんなので殴らなくてもいいだろ……」だった。
「よし、もういい。解散しろ。篠原、お前は着替えて事務所来い。松沢はそのまま仕事戻って。あと三十分で上がりだろ?」
「はい……」
「心配するな。お前はなにも悪くない。さ、持ち場へ戻って」
マネージャーがその場の全員に促した。そのとき、美智代の視線が僕を捕らえた。
「みっちゃんっっ!」
美智代がいきなり駆け寄ってきて僕に抱きついてきた。解散しようとしていたみんなが今度はその光景を見て固まった。僕もいきなりのことなので、目をかっぴらいたまま固まってしまった。でも、これは彼氏としてきちんとせねばならない。左腕でぎゅうっと抱きしめると、右手で軽く頭を撫でる。そうしたら、美智代はさらにぎゅううっと僕に抱きついてくる。
「黙っててすみません。松沢は俺の恋人です」
主に目の前のマネージャーに言ったつもりだったが、その場にいた全員が聞こえていたと思う。それを聞いたマネージャーがにやりとしながら、「三山、お前松沢連れて上がっていいや。時給は三十分つけとく。ちゃんとフォローしとけよ。ついでに言うと俺にはわかってた」
「え、なんでですか」これは本当に意外だった。いったいどこでばれたのだろう。
「だって、面接タイミング、学校、学部、専攻、シフトの入る時間、全部同じ。誰が見てもわかる」
そういうことか……。
「ああ、なるほど……では、今日は失礼します。美智代、いくよ」
「ん」
こそこそと噂話のような小声が聞こえてくる。聞こえたのは好意的なものだったのでほおっておいた。僕は美智代を連れて裏階段を通って二階のバックルームにあるロッカールームへ行った。そこで手早く着替えると、二階の客席に出た。二階のスタッフにも話は伝わっているらしく、興味深々の目で見てくるから、ちょうどいいやと思って、美智代の手をつかんで表階段を下りていった。階段を下りるとすぐに店の入り口だが、そこで美智代が僕の左腕にぎゅうとしがみついてきた。だから、あえて店の入り口のど真ん中でいったん止まり、その光景をそこにいたバイトの同僚たちに見せつけてから立ち去った。
翌日は偶然だがバイトは休みだったから、その一日だけで今回の騒動は広まり、僕と美智代の関係を誰もが知っていることになるだろう。
新京極通りを下り四条通りに出た。ここから美智代を送るのだったら、四条河原町駅から阪急電車に乗り、大宮まで行き、そこから京福電車に乗り換えることになる。
「送っていくよ」そう言いながら美智代に駅のほうへと促すと、美智代は首を振りながら「まだ帰りたくない。一緒にいて」と寂しげに言う。四条河原町を過ぎ、僕たちはそのまま、流れのままに鴨川の河原へ降りていった。
京都の学生の中で、鴨川河川敷はある種の聖域であり、ステータス・シンボルとなっている。恋人のいない人はいつの日か彼氏彼女とこの場所に来て、愛を語らうことを望んでいる。不思議なことにきれいに等間隔に並ぶ恋人たちは京都の風物詩だ。まだそれほど暗くなっていないし、第一、夜になっても鴨川べりの「床」の明かりで十分に明るい。どちらかというと夏の鴨川は蚊への対策のほうが重要だ。でも、今はそれどころではなく、帰りのことも考えて、僕は四条通りからそれほど離れていないあたりに美智代をいざなった。
「このあたりでいいかな……ちょっと座って落ち着こう?」
「ん……」
夏の夕暮れのなごやかな風が吹いている。天気は晴れ。こんなことでもなければ、いいデートだったはずだ。
「どうする? もう辞めちゃう?」
こんなことになって働きづらくなるのではないか。そう思っていたのだけれど、美智代は僕の予想どおりの返事をした。
「辞めない。あたし、負けない」
「そう言うと思った」
左横に座る美智代の肩をぎゅうと抱く。
「あのとき、みっちゃんがぎゅうって抱きしめてくれて、うれしかった。それに、みんなの前でちゃんと言ってくれて」
「恋人ですって言ったこと?」
「うん」
うなづくと美智代はころんと僕の左の二の腕あたりに頭をくっつける。
「ごめんな、もっとちゃんと美智代を守る算段をしてればよかった」
「しょうがないよ、あんな密室だったし、それまでもあいつ言い寄ってきてたし」
そう聞くと無性に腹が立ってきた。
「戻ってぶん殴ってやりたい」
「たぶん、みっちゃんのパンチより、私のアイス樽のほうが効いたと思うよ」
「そりゃそうだ」
あははは。ひとしきり笑って。
「もう平気?」
「さっきよりは。でも、いつもよりは平気じゃない」
そう聞いたから。頭の中に思い浮かんだことを実行しようと思った。
「元気になる魔法をかけようか」
「みっちゃん、魔法使いなの?」不審そうに言う。
「効くかどうかはわかんない。なんせ、かけるの初めてだから」
「えー、それってどんな魔法?」そう聞くから。
左腕で抱きかかえるように肩を抱いたまま、右手で美智代のほおをなでる。びくんってして、美智代は僕を見上げる。僕の手はそのままほおから顎のほうへと流れていき、人差し指と中指で軽く顎をちょんと上げた。その仕草だけで美智代は僕の意図を察したんだと思う。つぶらな、大きな目がうるみはじめていた。
「よく見せて……美智代の瞳に俺が映ってる……」
そう言いながら顔を近づけていくと美智代は瞳を閉じた。と同時に僕は美智代の唇にくちづけていた。その接触はきわめて弱く柔らかなものだったけれど、僕と、そしておそらく美智代の心にものすごい熱源を発生させたと思う。
数秒、息を止めたままキスしていた僕はゆっくりと唇を離した。こんなに柔らかな唇をしていたんだと思うとうれしくなる。理由はよくわからないけれど。
目を開けると、美智代もまぶたを開いたところだった。まなじりから涙の流れたあとが見える。
「泣かないで……」右手の指で涙をすくうと、「悲しいんじゃないの、うれしいの」と美智代が言う。「みっちゃんの魔法すごく効いた。さっきまでの悲しくていらいらした気持ちが全部消えたよ。とてもうれしい気持ちだけになったよ」
「俺のファーストキスなんだからな。ありがたく受け取れよ」少しはおどけないと恥ずかしくて爆発しそうだった。
「私だって、ファーストキスだったよ!」そう言ったもんだから。
「じゃあ、セカンドキスもサードキスももらう」って言って、もう一度口づけた。今度は少し激しく。おそるおそる舌を差し入れると、美智代の唇がぴくっと動いて、観念したかのように受け入れていく。申し訳程度に舌先を絡ませるけれど、それは経験不足のせいだと思う。僕たちは抱き合いながら互いの唇をむさぼりあった。
「どうしよう。そろそろ行こうか?」
もう一時間ほど腰を下ろしている。薄明をすぎ辺りは暗くなってきていた。
「ん……家まで来て」
「もちろん」
河原町駅への階段を下りていく。手をつないで。僕たちの中にはまだ熱源が灯ったままだ。
「やっぱり、まだ一緒にいたい」
美智代が言う。そうだね。
僕たちがまた、階段を昇った日なのだから、もう少し一緒にいてもいいよね。
「もちろん」
真夏の古都の繁華街へ、僕たちは舞い戻る。僕たちの記念日を祝うために。
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