第2話
あやうく寝坊しそうになったが、ギリギリ一講目の「哲学」に間に合った。
「人間はいかに生きるべきなのか」「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」を考える学問だ。それは宗教と紙一重。哲学は汎用性を持たせた宗教みたいなもんだと僕は思っている。
大教室の端のほうに陣取ると、由有ちゃんが隣に座った。
「おはよう」
「お、おう」
ほんの数時間前まで一緒のベッドにいた女の子が隣にいる。ほのかに漂う香り。ベッドと同じだ。せっかく出てきたのに、おしゃべりタイムになるのもどうかと思っていたけれど、由有ちゃんはそれからは何も話さず、もくもくとノートを取っていた。俺も一応書いてみる。
人がいかに生きるのか、よりも、いかに女の子にもてるのか、のほうが僕にとっては喫緊の課題なんだが、そういう学問はないのかな。
一講目が終わった。二講目は僕と由有ちゃんは違う科目を取っていたので、「またあとでね」と声をかけあって別れる。ぼんやり由有ちゃんの後姿を見ていたら、後ろから誰かが「ひざかっくん」してきた。
なんだ、なんだ、中学生みたいなことするヤツは。
振り返ると美智代が立っていた。
「よっ」
「おう」
「……由有と仲良くなったの? これまで話してなかったじゃん」
第一声がこれか。なんだかいつもと様子が違う。表情がなぜか険しい。幼さを感じさせる顔に似合わないのに。
「同じサークルで、昨日のコンパで初めて話してみたら、意外に話しやすかったから」
「ふうん。哲学はギブアップしたんじゃないの? 由有と会いたいから?」
いやにからんでくるなあ。口に出したら面倒だから言わないけど。
「昨日飲んだときに『人はいかに生きるべきか』なんて話になっちゃってさ。それでちゃんと哲学出てきなよって説教された」
「愚痴ってるわりには楽しそうね」
意味ありげに見つめてくる美智代。
「な、なんだよ」
「べつに。さ、急がないと次遅れるよ」
二講目のあとの昼ごはん。どうしようかと考えていたら、またしても美智代に連行された。なんだなんだ。
美智代は日替わり定食、僕はうどんとカレー。
「栄養バランスを完全に無視してるよね」
僕のトレーを眺めながらつぶやく。
「あまり偏ったもの食べてると病気になるよ」
「そのときは看病に来てくれる?」
「いーだっ」
……また、古典的な……。
そう思ってたら、美智代が思いもよらぬことを言った。
「ねえ、みっちゃん。今度デートしようよ」
「うぐっ」
カレーが気管に入りそうになった。
「なんだよ、どうしたのいったい」
「せっかく京都に住んでるのに、そういえばどこにも行ってないなあって思って。ね、どこか行こうよ」
「ま、いいけど」
「それとも、由有と一緒のほうがいい?」
「え」
今日の美智代はなんだか変だ。
「なんだよ、どうしたの。今日の美智代、なんか変だ」
そういうと、図星を指されて困ったような顔をする。そんな表情を見たのは初めてだった。
「……みっちゃんが急に一講目に出てくるからだよ」
ものすごく理不尽なことを言われている。授業料払った分だけ、俺は勉強していいはずなんだが。まさか、嫉妬してる……?。
僕がいきなり、専攻一美形の由有ちゃんと懇意になったもんだから? でも、美智代だってかなりの美形だぞ。僕のもともとの好みから言えば、美智代のほうが好みだ。だから、入学式のころから仲良くしてるし。
「由有ちゃんは同じ専攻、同じサークル。ただ、それだけだよ。それに……昨日言ってた。美智代は三山くんといつも仲良さそうに話して、うらやましいって」
「……そっか」
ようやく美智代は矛を収めたようだった。
ん? 待てよ。昨日聞いたときはアルコールのせいで深く考えなかったけれど、「僕といつも仲良さそうに話している美智代のことを、由有ちゃんはうらやましく思ってる」? それって……。いやいやいやいや、単に話を合わせてくれただけだ。これまで話もしてないのに、俺のこと気に入ってたとか、そんなの、童貞の妄想レベルの話だ。
四講目の第一外国語へ移動する際、トシと会った。
「みっちゃん……昨日、いつ消えた?」
まだ、酒が抜けてないような感じだ。そんな恨めしそうな顔で見るなよ……。しかも、美智代が隣にいるのに微妙な話題してくるし……。
「一次会のあとすぐに。あのまま次行くと鴨川入水になるかと思って」
「入水したよ……」
「やっぱり」
うちのサークルの「伝統」で、鴨川に入って大声で校歌斉唱するしきたりがあるらしい。大雨でも降ってなけれは、水位はくるぶしほどしかないからまず安全なんだが、水底にはコケが生えていてけっこう滑るという。もちろん、裸足で入ることになる。
「由有ちゃんも消えたしなあ。先輩が探し回ってた。お前、知ってる?」
うぐ……。これは微妙。というかどうすればいい……。
そのとき。
「トシくん、ひどい顔してるね……二日酔い?」
由有ちゃんだ。なんというタイミング。
「昨日、何時までいったの?」
……あー、由有ちゃんから昨日の話題振るのか。
「三次会で三時過ぎてたよ……。由有ちゃんいつ消えた?」
「一次会終わってすぐ。だって、先輩たちヤラしいんだもん。もうやめちゃおうかな」
「え、そうだったの? まあ、確かにえらく熱心に探してた人が一人いたけど」
トシも心底困った顔をした。
「三山くんが心配して助けてくれたの。それで」
「え? 二人で消えたの?」
黙ってきいていた美智代が突っ込みを入れてきた。
「うん」
何も考えずに無邪気な笑顔で返事する由有ちゃん。おーまいがー。
「それで、そのあとは?」
「まだ九時前だったし、二人でもう一軒行った」
「ふーん」
えらく熱量の低いあいづちが聞こえてくる。
「なんだよ、おまえら二人でフケてたのか。ひどい話だな……」
「わたし、ちょっと考えるところもあって。月例はもういかない。代表に言えばいいの?」
剣呑な状況になってきたな、これは。いろんなところで。
「三山くんが助けてくれなかったら、ひどいことになってたんだから」
「そ、そうなのか……。代表なら四講目終わったら部室にいるんじゃないか」
「そう。ありがと。あとで行ってみる」
それだけ言うと由有ちゃんはスタスタと教室へ入っていった。
「由有ちゃん、いったいなにされたんだ?」
トシが聞いてくる。
「なんか、触られた、とか言ってたな」
「え、お前助けたんじゃないの?」
「一次会ハネて店の前に出てたときに、調子悪そうだったから声かけて。事情聴いて」
「それで二人で消えたわけね」
美智代がラストで締める。でもさ、なんで美智代がちょっと怒り気味なわけ?
「松沢どうしたの? なんかちょっと怒ってない?」
これまた空気を読めないトシが火に油を注ぐようなことを言う。松沢ってのは美智代のことだ。
「別に怒ってなんかないよ。……うん、たぶん……」
最後のほうは自分でも自分の気持ちを把握しきっていないような表情だった。
四講目が終わって、サークルの部室へ行くという由有ちゃんに、トシが付いていくと言い出し二人を見送ったあと、美智代に「いつにしようか」と唐突に聞かれた。
「えと、なんだっけ」
「もうー、デートよ、デート」
おい、そんな大きな声で言うなよ。
「なんだよ、みっちゃん。松沢に言い寄られてるのか?」
「モテるねー、うらやましー」
ほら言わんこっちゃない……。講義が終わっても教室に残って、だらだらダベッていた野郎たちに聞かれてしまった。美智代も顔を赤くしている。自分が能動的なときはえらく強気なんだけど、煽り耐性がないからな、美智代は。他者からこんなふうに言われると縮こまってしまう。女子高出身だから、男性との距離感がまだつかめていないんだ。
僕とはもう二ヶ月の付き合いだから、かなりフランクに話もできるし、ボディタッチのようなスキンシップも増えてきた。「友達以上、恋人未満」みたいな微妙な関係、だと僕は勝手に思っている。
由有ちゃんを泊めたときに罪悪感を感じたのは、そのせいだ。
「ね、お茶しよ」
僕の服の袖をつまんでひっぱってく。その仕草、僕は弱いのに。
美智代は三重県鈴鹿市の出身だ。東海地方だが、文化や言葉は関西圏になる。すらりとしたスレンダーなスタイル。丸顔で頭は小ちゃくて、ボブっぽいショートヘアでも十分に女性っぽい雰囲気を醸し出す。たまに履いてくるショートパンツから出てる脚は見惚れるほどに細い。僕自身は女性の脚にそれほど興味はないんだが、それでもあれはすばらしいって思うくらいだ。バストはまあ、普通って程度だと思う。僕の好みはわりと重量級だから、そこだけは惜しいと思うけど、総じて言うとS級の女の子だと思う。専攻はおろか、学部でも三本指に入るんじゃないか? ほかの専攻の女の子を全員見たわけじゃないけど。
由有ちゃんは栃木県の出身だ。肩を少し超す程度のサラサラの黒髪。少し彫りの深い南国風のフェイス。女子アナぽい、知的な印象を与える真摯なまなざし。一言で言うとやはり「綺麗」。その一言に尽きる。彼女も学部で三本指に入るだろう。栃木出身なのに、関西アクセントの言葉が妙に上手い。本人は「テレビで漫才ばかり見てたから」なんて言ってるけれど。それでも、たまに出る地元の方言を聞くと、理知的なルックスとのギャップでほんわかする。北関東出身者だとたいていの人が東京の学校へ進学するのに、京都にやってきた。何か理由はあるんだろうけど、そこまで聞くと、彼女ともっと深い関係になりそうで、それが怖くて避けた。このままいくと聞くことになるかもしれないけど。
南門を越して連行された喫茶店は「Your」だった。老舗の喫茶店だ。
「あたし、紅茶で」
「あ、俺も」
オーダーしたあと。
「みっちゃん、コーヒーダメだったよね」
「うん」
オーダーした紅茶が来るまで。美智代は何も言わずにうつむいて、ただ、テーブルの上に置いた両手を組み替えたりしてた。微妙な間が続く。何か言ってこの気まずい時間を埋めようかとも思ったけれど、その気まずい、あやうい感じを心地よいと思っている自分がいる。やがて、紅茶が二つ運ばれてきて、柔らかな香りが漂ってきた。
「今日は、ごめんね」
いきなり謝られて、攻勢に対応しようと思っていた心構えがどっと崩れる
「……えと……なにが」
「自分でもわからないの。なんで、あんなにイライラしたのか。だから、あんなにつっけんどんになって」
「平塚のこと、気になったのか」
平塚とは由有ちゃんのことだ。
「……たぶん。由有ちゃんずるいんだもん。あんなに綺麗だし、頭いいし……なのに、……」
そのあとに続く単語を想像してみた。予測はつくけれど本当かどうかはわからない。自分に都合のいいように考えないように。だいたい、僕はどう思っているんだろう。由有ちゃんと、美智代と。どっちが好きなんだろう。僕は目の前で悲しげに目を伏せている女の子のことを思った。
「美智代、デートは今度の日曜でいいかな?」
「え」
美智代が顔を上げる。
「ルートは祇園から三年坂をあがって清水寺。とりあえず第一回目はそんなもんだろ」
「考えてくれてたの?」
「まあね」
「一回目ってことは二回目があるの?」
「一度で全部は無理だからね。二回目は東山の銀閣寺当たり、三回目は金閣寺から竜安寺かな」
「すごい。素敵」
実はこの間立ち読みしたガイドブックの受け売りなんだが、黙っておこう。
一時間ほどお茶して日曜の四条河原町に待ち合わせの約束をした。十一時。いい頃合いだ。雨だけが気になるけれど。
「Your」を出て、僕はキャンパスに戻る。バイク置き場へ行くにはキャンパスを横切らなければならない。美智代は自転車置き場へ寄り、そのまま帰るとのこと。
美智代と別れて、ゆっくりとキャンパスを歩く。夕暮れにはまだ早いけれど、陽は傾きはじめていた。学生会館の前に差しかかったら、ちょうどトシと由有ちゃんが飛び出してきた。
「トシ、どうしたんだ?」
声をかけると、トシは立ち止まったが、由有ちゃんは猛然としたスピードで正門へ向かっていく。後ろ姿だけで怒っているのが明白だ。
「悪い、あとで電話する」
そう言って、由有ちゃんを追いかけていった。
たしか、サークルの代表に会うと言っていた。月例で先輩に触られたり言い寄られたりした件で話をするとかなんとか。待てよ、俺だって同じサークルだし話を聞いてもいいはずだ。とは思ったけれど、今、由有ちゃんと関わるとよくないような気がした。トシがついていってるし、今日のところは任せておこう。
夜十時。テレビを見ていたら電話がかかってきた。
「はい?」
「おれ」
トシだ。男相手に長電話の趣味はないので、端的に話を聞いたところ……。
・代表に由有ちゃんは「昨日、三回生の先輩に身体を触られた。酒の席でもそういうのはやめるよう全員に告知してほしい」旨、直談判した。
・代表は「そういうのはままあることだし、直接相手に言えばいいのではないか」と応えた。すると、その話を聞いていた、その場にいた女性陣が由有ちゃんに同調。この問題を放置するなら、月例にはもう出ないと言い出した。
・代表は由有ちゃんが裏で糸を引いて女性陣をけしかけていると思ったらしく、そんなことで内部の和を乱すなと注意。女性陣は「そんなこととはどういうことだ」とさらに激怒。しかも、その問題の三回生が次の代表に擬せられているらしく、あんな人が代表になるなら、私は辞めると由有ちゃんは啖呵を切って出ていった。
なるほど。由有ちゃんは一本筋が通ってないといけないと思うタイプかもしれない。サークル辞めちゃうのか。まあ、まだ二カ月だし俺なんて半分幽霊部員だから、いなくなってもあまり関係ないだろうけど。
「三回生の女性の先輩がけっこう怒ってたし、ひと波乱あるかもしれないな。由有ちゃんは『学校事務局に訴える』なんて息巻いてるし」
「で、由有ちゃんは?」
「さっきまで白梅町でヤケ酒につき合ってたところ。俺、まだアルコール抜けてないのに迎え酒だよ……」
「美人とツーショットで飲めたんだから、いいじゃん」
「そういや、お前ら二人も飲んでたんだろ」
「ことの成り行き上、そうなっただけだよ。俺は送るって言ったんだけど、『あと一軒行こう』って」
「何時まで行ったんだ?」
「終電までには帰したよ」
嘘をついた。
「由有ちゃんは美人だし頭もいいんだけど……なんかこう、危ういところがあるよなあ……」
ぽつんとトシがいう。その感想は僕も抱いていたものだ。「生きている意味」について、真剣に考えていて、まっすぐで。その思考が鋭すぎて、いつか自分さえ切り裂いてしまうんじゃないかと思うくらい。
「もうかかわりあいたくない、のか?」
「いや、その逆。ちゃんと見守ってないと危なっかしいというか」
「いいんじゃない? ま、由有ちゃんがどう思ってるかが一番大事だけど」
「まあ……そうだよな……じゃあ、俺、由有ちゃんのこと、がんばってみるけど、かまわないか」
なんだ、仁義を切ってきたのか。義理堅いな、トシは。
「別に俺に断らなくててもいいだろ」
「一応、同じサークルだしな。由有ちゃんが本当に辞めるのなら、俺も辞めるかもしれないけど」
「俺はもともと幽霊部員だし」
「みっちゃんには松沢がいるじゃん。デートに誘われたんだろ?」
「話が早いな。でも、別につきあってるわけじゃないぞ」
「これから、そうなる途中だってことさ。俺はまだまだこれからだけど、お前と松沢はもともと仲がいいし、つき合ってると思ってた奴もいるし」
その話は僕も聞いたことがある。あれだけしょっちゅう一緒にいればそう思われても致し方ないと思うが。
「美智代とどうなるかなんてわからないよ。由有ちゃん、ああ見えて猪突猛進のところがあるからしっかり見守っておかないと」
「ああ、俺、けっこう前から彼女のこと気になってたから、昨日、お前たち二人で消えたと聞いたときは、かなりフクザツな気分だったぞ」
「昨日、初めて会話したぐらいだから心配するな。自己紹介に毛が生えた程度しか話はしてない」
「水素なみに軽いからな、みっちゃんは。いきなり部屋に連れ込むかもしれんしな」
ドキッ。
「んなわけないだろ。お前は、しっかり由有ちゃんを守ればいい」
「ああ、わかってる。よかったよ、みっちゃんに話せて」
そう言われて、なんだか居心地が悪くなった。トシに隠し事はしたくない。だけど、「一晩一緒にいて何もない」ってことを信じてくれるのか。由有ちゃんに断りもなしにこのことを言っていいものか。いや、いいわけはない。
結局、僕は黙っていることにした。あの日のことはきっとイレギュラーな一日として過去の中に埋もれていくだけだろうから。
由有ちゃんの、「生きる意味」についての真摯な思考は、僕の日ごろの行動や言動からは対極に当たる。だけど、昨日飲んだ時、彼女の考えに共鳴してどんどん言葉が生まれていた。ゴーギャンなんて一生口にする言葉じゃないと思っていたのに。自分が生きる意味について考えたことは事実だ。ある時、急激に思いついた。目覚めた、というか。この世界は誰かの妄想の中なのではないか、とか。膨張している宇宙の外側には、何があるのか、とか。自分が生きる意味と同時に世界が存在する意味、についてもだ。もちろん、理性的に考えればわかっている。この世界はすべて「偶然」から生まれたもので、存在する意味なんてない、ということを。だけど、そのことに耐えられないと思う人たちが、神様を作りだしたのだろう。
いかんな。ついつい考えてしまった。僕の奥底にも由有ちゃんのような性向が内在しているのかもしれない。
……と三秒だけ思って、「んなわけないない」と自己否定した。僕は女の子とおっぱいが大好きなノー天気でどうしようもないナンパな大学生なのだ。そして、これから恋人になるかもしれないガールフレンドとのファーストデートについて、いろいろ立案しなければならない。これから学校の課題をやる情熱の百倍を投入して、ガイドブックに立ち向かうのだ。
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