18,262と1

瀬戸安人

18,262と1

「愛しています」

 ベッドに横たわった老人は、傍らに座る妻へ言った。

「知っているわ。聞き飽きるほど聞いたもの」

 怜悧な目をした老女はうんざりしたように言った。

 齢七十を超えてなお、彼女は美しかった。髪は白くなり、肌には皺が寄ったが、凛と背筋を伸ばした姿勢は美しく、傲慢なほどの威厳と気品は若い頃から少しも変わっていなかった。

「あなたは本当に美しい」

「よく言うわね。嫌味のつもりではないでしょうね?」

 老女が柳眉を吊り上げるのを見て、老人は笑みを零した。

「いいえ。あなたは年を重ねるほどに美しくなる。時はあなたを美しくしてきました。毎日あなたは美しくなる。今日のあなたは昨日のあなたよりも美しい。明日のあなたは今日のあなたより更に美しいでしょう。ですから──」

 老人は小さく寂しげな息を吐いた。

「──明日のあなたを見られないのが残念です」

「──そう」

 老女は素っ気なく呟いた。

「貴方は愚物だけれど、愚物なりに長年よく私に尽くしたわね──何を笑うの?」

「いえ、あなたが褒めてくださったから嬉しいのですよ」

「……思い上がらないことね」

「はい」

 微笑んだ老人は静かに答えた。

 そのまま互いに何も言わずにしばらくの時間が流れた後、再び老人が口を開いた。

「一つお願いがあります」

「図々しいわね。でも、まあいいわ。言ってごらんなさい」

「あなたから聞かせていただきたい言葉があるのです──」

 一度、深く息を吸い込んで、それから、老人は言った。

「愛しています、と私は毎日あなたに伝えてきました。あなたに初めてそう伝えてから、今日でちょうど五十年になります。ですが、あなたのお気持ちを言葉にして伺ったことがありません。ですから、どうか聞かせてください。あなたのお気持ちを、あなたの言葉で」

「恥ずかしげもなく、よくもそんなことが言えるわね」

 老女は鼻を鳴らしてそっぽを向いて、そして、そっぽを向いたまま微かな声で呟いた。

「──────」

「知っていました」

 老女はきっと老人を睨み付けた。

「何を言っているの? 貴方の遠い耳で聞こえたはずがないわ」

「いいえ、聞こえました。この耳がどんなに遠くなっても、あなたの声なら地球の裏側からでも聞こえます」

「………………」

「聞けて、よかったです」

「そう」

「あなたのおかげで、私は幸せでした」

「そう」

 老人は静かに目を閉じると、ただ、静かな呼吸を繰り返し、そして、止まった。

 老女は老人の頬にふれ、何の反応もなくなったそれからそっと手を離した。

「私の許しもなしに勝手に逝くだなんて、最期まで度し難い男だったわね」

 そう洩らした老女の頬を、老人の生前には一度も見せたことのない涙が一筋伝った。

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18,262と1 瀬戸安人 @deichtine

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