第2話

 葬儀は簡素なものだった。参列者は比嘉夫婦と近所の者らしき人が数名。葬儀であるにも関わらず、泣いている者はひとりもいない。喪主であるはずの娘の絵里でさえ、厳かな雰囲気に反して、普段よりも興奮気味でわくわくしていた。親戚と呼べる者はおらず、絵里は天涯孤独となった。

 葬儀が終わると、参列者を乗せたマイクロバスは火葬場へ向かった。

 母親の亡骸は、大きなオーブンのような火葬路に入れられた。比嘉のおじいさんとおばあさん、他の数名の参列者は泣いていたが、絵里はそこでも泣かなかった。

 母は白い煙となって空に消えていく。こうして人間も自然の中に溶け込んで、雲になっていくのだろう。絵里は制服姿で、火葬場の煙突の先から立ち昇る煙を、ぼんやりと眺めてた。

 火葬炉から出てきた台車には、人間のシルエットをうっすらと残した白いものが乗っている。人の形をかろうじて残して灰と化した骨は、化石のように美しく、絵里のアンテナを小刻みに刺激した。

 葬儀屋の女性から言われるがまま、数名の参列者は順番に悦子の遺骨を箸で拾い壺に入れた。彼女は最後に、これが喉仏です、と言って、悦子の一部を指し示した。

「座禅を組むお釈迦様に似ていることからこう呼ばれています」

 女性はそう言ったが、絵里にはそれが映画で見たエイリアンにしか見えなかった。

 彼女は箸を絵里に渡した。どうやら、その仏様を拾え、と言っているようだ。絵里は、最後の最後に私の邪魔をしたけどね、と恨みを込めて乱暴に、箸を喉仏に突き刺した。葬儀屋の女性は、まぁ、と驚いた表情を見せたが、「たいへん綺麗な仏様ですね。よほど生前の行いが良かったのでしょう」と取り繕った。

 帰り際、絵里は皆の見ていないところで、葬儀屋の女性に、骨をひとつ頂けませんか、と頼んでみた。女性は、あなたのお母さんなのよ、と言って両手でどうぞと合図し、まだ熱いから気をつけて、とつけ加えた。絵里は母の左手小指辺りの骨を選び、赤いバンダナに包んで、制服のスカートのポケットに突っ込んだ。


 その後、葬儀屋のマイクロバスは再び参列者を乗せて、葬儀を行った絵里の自宅へ戻った。


 家に着くと、葬儀の祭壇や壁の白黒の幕などはすでに片付けられており、居間にはテーブルがひとつ、ポツン、と取り残されていた。主人のいなくなった家はどこか寂しげで、ぽっかりと穴が空いたような空虚感が漂っている。

「では、私たちこれでお暇させていただきます。絵里ちゃん、気を落とさないようにね。困ったことがあったら、おばちゃんとこに来てちょうだい」

 近所の人らしきおばさんが絵里にそう告げたが、絵里はそのおばさんの家を知らなかった。絵里がとってつけたように大袈裟に頭を下げると、おばさんは比嘉夫妻にも頭を下げた。比嘉のおばあさんは近所のおばさんに深くお辞儀をし、お忙しいところありがとうございました、と丁寧に礼を言った。近所の人たちは比嘉のおじいさんとおばあさんを絵里の親戚の者だと思っているようだ。

 それから、比嘉のおばあさんは、座布団を四つ出し、テーブルに乗っていた急須にポットの湯を入れ、湯呑みを四つ用意して、夕食の準備を始めた。

「さぁ、さぁ、お腹すいたでしょ」

 比嘉のおばあさんは、キッチンから大きなお寿司の桶を持ってきた。ゴタゴタで夕食の準備もできないだろう、とおばあさんはお寿司の出前を取ってくれていた。

 家に残ったのは絵里と比嘉夫婦。そして、見知らぬ青年がひとりいた。

「あのー、母のお知り合いですか?」、絵里は黒い礼服の青年に尋ねる。

「はい、お父様の鉄蔵さんに大変お世話になった者です。悦子さんにもずいぶん助けていただきました。あ、勅使河原といいます」

 礼服の青年はそう言って胸のポケットから名刺を出し、絵里に差し出した。

「一緒に食べていってください。私とおじいさんとおばあさんじゃ食べきれないわ」と絵里は勅使河原という青年を誘った。

 名刺には勅使河原淳一郎と記されていた。そこには、名前の下に「脳科学研究所」とだけ書いてあり、役職はおろか、電話番号も住所も書いていない。

 絵里は彼の長い名前に興味を引かれ、テシガワラジュンイチロウ、と心の中で呟いた。私は、イダエリ。それに比べてなんて長い名前なんだろう、と感激していた。絵里は病院の待合室で彼が呼び出される光景を想像する。

 テシガワラジュンイチロウさん、

 テシガワラジュンイチロウさん、

 窓口までお越しください。

 そんな想像をしているうちに、彼の名前を呼んでみたくなった。

「テシガワラジュンイチロウさん」と絵里は思わず言葉に出してしまった。

「はい」

 当然のように勅使河原淳一郎は返事をした。

 絵里は、はっとして、「あ、ごめんなさい」と頭を下げた。

「え?」

「私は、イダエリ」、絵里はあだ名で呼ぶときの平坦なイントネーションで自分の名前を告げたあと、続けて言った。「名前、長いですね」

「イダエリちゃん、知ってますよ。鉄蔵さんの葬儀のときにお会いしています。君はまだ小さかったけど」

 勅使河原淳一郎はニコリと笑ったが、葬儀の場であったと思い直し、すぐに真顔に戻した。絵里はそんな勅使河原淳一郎の仕草を見て、ふふふ、と小さく遠慮がちに笑った。そのあと絵里は、寿司桶の中を覗き込んで、どれにしようかな、と、えびを選んで頬張った。おばあさんは寿司桶の中から一種類ずつを小皿に乗せて、勅使河原青年に差し出した。



 悦子の死を最初に知ったのは絵里だった。それはまだ悦子が生きているときのこと。母の死は絵里の初めての予言だった。

 親子の絆を取り戻して半年ほどたったころ、絵里の脳裏にモヤモヤする影のようなものを感じた。はじめは風邪でも引いて、頭がぼやっとしているだけだと思っていたが、母のことを思い浮かべると、モヤモヤがアンテナを揺さぶるのを感じた。絵里はそれが、母の死、を意味するものではないかと感じていた。

 せっかく取り戻した母との温かな日々がもうすぐなくなってしまうのではないかと、絵里は不安を感じた。同時に、それを母に伝えるべきかと悩んでいた。


 数日後、悦子のほうが絵里の様子に気づいた。

「事故? 病気? どっち?」

 悦子は夕食の準備をしながら絵里に尋ねた。それは、今日の晩ごはんカレーとハンバーグどっちにする? というような、日常の中に溶け込んだ何気ない質問、という訊き方だった。

 絵里ははっと気づいて目を潤ませたが、そのまま下を向いてしまった。

「おじいちゃんがね。死っていうのは、ただ体からふーって意識が抜ける感じだって言ってたわ」

 悦子はお玉で味噌汁をすくい、味を確かめ、そして頷いた。その頷きは、父親から聞いた死の感覚を再確認したからなのか、味噌汁の味がちょうどよかったからなのか、絵里には分からなかった。

 絵里はおそるおそる母に尋ねた。

「どうして?」

「私は、偉大なる予言者、鉄蔵の娘よ。予言が来たときの父の様子は何度も見ているもの」

 悦子はあっけらかんとした様子に、絵里はどう対応してよいものかと迷っていた。やはり、あのモヤモヤは母の死を予言したものだった。

「死ぬの、怖くないの?」

 絵里は死を目の前にする者に、こんなことを訊くのは残酷だと思いながらも、思い切って母に尋ねた。

「死ぬことは怖くないわ。あなたがいるから痛みもないしね。父さんもそうだったもの」、悦子はそう言って微笑んだ。

「私が行くところには、大好きな父と母がいて、それに愛する旦那さまがいるのよ。死んだあともこっちに来れるって父は言ってたわ。幸い、私の娘は素敵なアンテナを持っていて、それに触れれば、会いに来たことをあなたに知らせることだってできる。あ、イチにも会えるわ。そうそう、あっちではじめちゃんを探してみるわね」

 悦子は冗談を交えながら、深刻にならないようにと言葉を選んだ。

「でも、私、ひとりぼっちになっちゃうわ!」

 絵里は声を荒げて母に寂しさをぶつけた。目からは涙が溢れ出した。

 母は娘を悲しませないように無理をしている。絵里はそれを知っていた。絵里のアンテナは震えている。それは、母の死の恐怖に、自分自身の寂しさが混ざり合って震えているのだろう。悦子は絵里を抱きしめた。あなたはひとりぼっちじゃない、と絵里のアンテナに、それまでの震えを打ち消すほどの力強い電波が走った。

「病気なのか、事故なのか、私にはわからない」、絵里は母の胸の中で伝えた。

「そうなのね。初めての予言だから仕方ないわ。そうね、あと一ヶ月ってところかな」

「止める方法があるはずよ」

「いいえ、ないわ。父の予言から逃れた人は誰もいなかったの」

「いやだ! 母さん!」

 絵里は母の胸で泣きじゃくった。


 その後、二人は何事もなかったように、普通に暮らした。お互いに、あえて予言のことを話さなかった。


 三週間後、絵里が目を覚ますと悦子は消えていた。食卓には「ちょっと旅行に行ってきます」とのメモがあった。母の最期の一週間、絵里は母の好きにさせてあげようと彼女を探さなかった。

 母のクローゼットや鏡台は綺麗に片付けられていた。絵里が着られそうな洋服や化粧品やアクセサリーは残され、不要な物は処分されていた。通帳や保険証、クレジットカードなどはキッチンの食器棚の引き出しに整理され、絵里が困らないように配慮されていた。まるで死を予感した猫が主人のもとから去るように、母は絵里のいる家をあとにした。


 それからちょうど一週間後のこと。絵里は学校の球技大会のバスケットボール競技に参加していた。

 彼女はこの半年で変わった。少しずつクラスに溶け込めるようになっていた。だが、まだ友達と呼べる者はいない。この球技大会で、チームメイトとずいぶん仲良くなった。

 絵里のチームは順調に勝ち進み、決勝戦の真っ最中だった。残り時間が迫ってようやく同点まで追いつき、緊迫した状況の中で絵里にボールが回ってきた。絵里はリングに向かって走り、シュートを決めようとジャンプした。そのとき、背中のアンテナに強烈な刺激が走った。彼女はそのまま倒れて保険室に運ばれた。

 その一球が決まっていれば絵里のチームが勝っていたのだが、ボールはリングに阻まれて、惜しくもゴールを逃した。

 数時間後、絵里は保険室で目を覚ました。そこで、優勝を逃したことを知り、同時に母の死を感じた。


 三日後、悦子の遺体が発見された。母は沖縄の宮古島の海で見つかった。母と父が新婚旅行に行った場所だった。警察の話では、事件性はなく、自殺と事故の両面から捜査されたが、肺に水が入っていないことから自殺の可能性はない、と判断された。結局は、病気なのか事故なのかわからないまま、母は絵里の知らないところに行ってしまった。母の死が本当に訪れてしまったが、絵里は不思議と悲しくはなかった。母が言っていたように、絵里のアンテナは母を感じていた。



「もっと豪勢なお葬式にすればいいのにね」

 絵里は比嘉のおじいさんとおばあさんに不満を漏らす。母は生きている間に自分の葬式を葬儀屋に頼んでいた。

「悦子さんらしいですね」

 勅使河原淳一郎は悦子の性分をよく知っているようだ。

「お母さんったら、一番大事な時間に死んじゃったのよ。学校の球技大会でね。バスケの試合の真っ最中よ。あと五分待ってくれたら、私のチームは優勝して、私はクラスのヒーローになれたのに」

「ほうほう、学校もうまくいっているようじゃな。友達もできたのかい?」

 比嘉のおじいさんは常々絵里を心配している。

「ずいぶんコントロールできるようになったの。大抵はみんな心の奥のほうに優しい気持ちを持ってるわ。それがわかっていれば、電波もそれほど痛くなくなったの」

「それはよかったね」

 比嘉のおばあさんが優しく微笑んで相槌を打った。

「あのー、それってアンテナのことですか?」、勅使河原淳一郎が絵里に尋ねた。

 絵里はその質問に質問で答えた。「アンテナのこと知ってるんですか?」

「もしかして、悦子さんの死は君が予言したの?」

 勅使河原淳一郎はさらに質問を返す。

「予言のこともご存知なんですね」

「はい、僕は鉄蔵さんの予言のおかげで死なずに済んだんです」

 一瞬、場が沈黙する。

「おじいちゃんの予言を免れたんですか?」

 勅使河原淳一郎は黙って頷く。

 絵里はそれに驚いた。本当なら母の死も阻止できたはずだ、と。

「でもそのことで鉄蔵さんは死んでしまうことになりました」

「詳しく聞かせてください!」

 絵里と比嘉夫妻は勅使河原淳一郎に注目し、それぞれがテーブルに身を乗り出した。

「八年前、僕がまだ高校生のころでした。父は町医者で、当時、隣町で小さな病院を開いていました。その病院に鉄蔵さんが来たんです。息子さんが交通事故に遭う、と予言したんです。息子というのは僕のことです」

 そこで勅使河原淳一郎は大きく深呼吸をした。

「隣町でも鉄蔵さんの予言は有名でしたが、悪い噂ばかりでした。予言じゃなくて、疫病神だとか死神だとか……。あ、ごめんなさい」

 勅使河原淳一郎は絵里を気遣い、申し訳なさそうに小さく頭を下げて頭を掻いた。

「いいんです。そんな風に言われていたこと、母も知っていました」、絵里は大きく頷き、続きを催促した。「続けてください」

「誰も鉄蔵さんの予言を信用しなかったけど、予言は当たるんです。父は鉄蔵さんの予言を信じました。詳しく聞いてみると、僕は車に当たって死ぬ、ということでした。その日から、鉄板の入った分厚いプロテクターを全身に着けて、ヘルメットを被って生活しました。その姿を鉄蔵さんに見せましたが、やはり、予言は消えていませんでした。父は一週間がかりで家の地下にコンクリートのシェルターを作って僕をそこに入れましたが、それでも鉄蔵さんの予言は消えなかったんです。鉄蔵さんの頭に影が浮かぶそうなんです。死なないならそれが消えるはずだ、とおっしゃってました。絵里さんもそうなんですね」

「はい、母のことを考えると、モヤモヤっとした影が浮かんで、気が重くなるの」、絵里は簡潔に答えた。

「父はいい方法を思いつきました。車にぶつかって死ぬ、というなら、車が来ない場所に行けばいい、と。僕は信州の山奥に連れて行かれました。どの方向からも車の進入は不可能な、山の斜面にあるログハウスです。父は鉄蔵さんをそこに呼びました。鉄蔵さんはずいぶんお年だったので、悦子さんが付き添いで一緒に来られました。ですが、鉄蔵さんはやはり、車にぶつかって死ぬという予言は消えてない、と言うのです。予言をした鉄蔵さん自身も頭を傾げていました。こんなところで車がぶつかるはずがない、予言は外れるかもしれない、と」

 勅使河原淳一郎は湯飲みのお茶をゴクゴクと喉を鳴らして一気に飲んだ。一同はその様子を見て、それぞれ唾を飲み込んだ。

「その夜のことです。皆、安心して眠りました。僕も鉄蔵さんのその言葉を聞いて、久々に速やかに寝入ることができました。ところが、深夜に何かが天井を突き破って落ちてきたんです。それは車のエンジンでした。眠っている僕の真上に落ちました。僕は太腿の動脈を切って、大量に出血しました。父は何が起こるかわからないから、とオペ道具や薬、輸血用の血液も用意していました。父はすぐに僕を治療しました。看護師の悦子さんの助けもあって、血は止まったのですが、血液が足りなかったんです。山の斜面に建てられたログハウスですから、大怪我を負った僕を連れて山を降りることは不可能でした。輸血用の血液も底を尽きました。父の血液型は僕と違いました。ところが運良く、悦子さんと鉄蔵さんの血液型は僕と同じでした。お二人は、予言の責任を感じていたのでしょうか、自ら進んで輸血を申し出てくれました。僕は悦子さんと鉄蔵さんの血のおかげで助かりました」

 勅使河原淳一郎は絵里の顔を見て、小さくお辞儀をする。

 その後、勅使河原淳一郎は付け加えた。車のエンジンは軍用の大型ジープの物で、日本の自衛隊のものではなく、エンジンにはロシア語が刻まれていた、と。

「おじいちゃんの死因は確か肺炎だったはずよ。輸血したからじゃないわ」、絵里は勅使河原淳一郎を気遣い、そう付け足した。

「いや、そういう医学的なことではなくて、もっとこう、見えない力というのかな。鉄蔵さんはその一週間後に亡くなりました。結局、死ぬはずだった僕の命は救われた。その代わり、と言ってはなんですけど……、鉄蔵さんが身代わりになってくれたような気がするんです」

「ううん。鉄蔵さん、はじめが消えたときも、できることならわしが代わってやりたい、と言っとった」 

 比嘉のおじいさんは腕を組んで、何度も頷いていた。

「鉄蔵さんの葬儀のとき、悦子さんに、鉄蔵さんが身代わりになってくれた、という話をしました。予言が無効になった原因は鉄蔵さんの血です。あの夜、僕は脳裏に鉄蔵さんの影を見たんです。あれが予言なのかもしれません。予言らしきものはその後ありません」

「予言を無効にする方法……」、絵里は下を向いてひとり呟く。

「六日前、宮古島にいる悦子さんから電話がありました。予言を止める方法を娘には話すな、と。僕は宮古島へ向かい、悦子さんを探しました。やっと宿泊先を見つけ、予言を無効にする方法を実行すべきだと提案しました。輸血と鉄蔵さんの死に因果関係はありません。ただの偶然だったのかも。悦子さんは、万が一でも娘を死なせるわけにはいかない、とおっしゃいました。翌日、悦子さんはホテルからいなくなりました。悦子さんの亡骸は僕が見つけました」

 勅使河原淳一郎の目から大粒の涙がポタポタと落ちた。

「勅使河原淳一郎さん」、絵里は勅使河原淳一郎の手を取ってぎゅっと握った。「あなたには、おじいちゃんとお母さんの血が流れてるのね」

 勅使河原淳一郎は絵里の意外な言葉に、涙を流しながらキョトンと驚いた顔をした。

「なら、私のお兄さんね」、絵里はそう言って勅使河原淳一郎に笑顔を送った。

「悦子さん、僕にメモを残していました」

 勅使河原淳一郎は礼服の胸のポケットから二つ折りの紙切れを出した。

『娘の力になってあげてください』

 高校生のようなフワフワした母の筆跡で、そう書いてあった。

「絵里ちゃんや、お前さん、ひとりじゃないからのー。わしらはあんたのこと、孫のように思おとる。お兄さんもできたことじゃし、寂しくはなかろう」、比嘉のおじいさんが優しい笑顔で絵里を励ました。

「うん、イチもいるわよ」、絵里はおじいさんのほうに振り向いて言った。

「イチって誰ですか?」、勅使河原淳一郎が尋ねる。

「私のカレシ!」

 絵里がそう言うと、比嘉のおじいさんとおばあさんは大きく笑い、勅使河原淳一郎は首を傾げて眉間に皺を寄せた。

 そのとき、絵里のアンテナに心地よい感覚が一定のリズムで伝わった。

「あ、お母さんが来た!」

 絵里がそう言うと、勅使河原淳一郎は天井を見上げて左右に首を振った。

「さて、わしもそろそろお暇させてもらおうかな。イチが腹をすかしとるわい」、比嘉のおじいさんが絵里に伝えた。「ばあさん、今日はこちらに居てやりんさい」

「私なら大丈夫よ」と絵里は言ってみたが、本当は比嘉のおばあさんと一緒に寝てみたかった。

「悦子さんから言付かってることがあるのよ。お金のこととか」

 どうやら母は比嘉のおばあさんに、絵里の今後の生活の一切合切を伝えていたようだ。

「では、僕も帰ります」、続いて勅使河原淳一郎が暇を告げる。

 勅使河原淳一郎は帰り際に、次の日曜日に絵里をどこかへ遊びに行こうと誘った。これが絵里の人生初のデートとなった。

 

 おじいさんと勅使河原淳一郎が帰ったあと、絵里はおばあさんと今後の生活の話をした。比嘉のおばあさんが言うには、絵里が大人になるまでにかかるお金は十分ではないが、贅沢をしなければ大学に行く資金もあり、卒業するまでの生活費もある、ということだ。

 その後、絵里はおばあさんと一緒に風呂に入った。絵里はおばあさんの背中を流し、湯船で肩を揉んであげた。おばあさんは、気持ちいい、気持ちいい、と繰り返し、ありがとう、ありがとう、と何度も言った。絵里はおばあさんからの心地よい電波をアンテナに受け、幸せな気分になった。

 その夜、絵里と比嘉のおばあさんは母の部屋で一緒に眠った。絵里は部屋の隅に母の電波を感じていた。


 深夜に絵里は目覚めた。おばあさんはスヤスヤと眠っている。絵里は布団を出てキッチンに向う。手には母の小指の骨を包んだ赤いバンダナを握りしめて。

 水道の蛇口をひねり、コップに半分の水を注いで、キッチンのテーブルに座る。バンダナからそっと母の小指の骨を取り出す。そして、その真っ白い真珠のような小指の骨を口に入れて、奥歯でガリっと噛み砕き、水を飲んで胃の中に流し込んだ。

 絵里は、声が漏れないようにバンダナを口に当て、そのまま朝方近くまで泣きじゃくった。

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