アンテナ

日望 夏市

第1話

 彼女が見ている空は、赤く色づいている。熟れたトマトのような赤は危険の印。今にも無数のトマトが空から落ちてきて、地面の上でグチャグチャに潰れてしまいそうだ。ミートソースみたいに。彼女のアンテナがそう伝えている。


 アンテナは彼女の頭の後ろに、背骨からまっすぐ空に向かって立っている。実際にそういう物が立っているのかといえば、誰にも見えないのだから、その存在は確かではない。彼女自身にも見えないのだし、「ある」とはいえないのだろう。

 背骨から天へとまっすぐに突き出る自分のアンテナの存在を、彼女は幼いころに祖父の鉄蔵から聞いて知った。鉄蔵は小さな孫に会うたびに、お前は立派なアンテナを持っておるな。じゃが、生きていくにはしんどかろう、とグズる彼女を慰めた。彼女が小学校に上がる前に鉄蔵は亡くなり、彼女のアンテナが見える唯一の人物もいなくなった。

 幼い日の彼女は、自分のアンテナがもたらす様々な感情の受信を制御できず、すべてを受け入れてしまっていた。未熟な知性ゆえ処理することもできず、耐えるのが精一杯だった。父親と母親は、時折発作のように喚き散らす彼女の感情を、幼い子によく見られる単なる疳の虫のようなもの、と思っている。父も母もアンテナの存在なんて知らないのだろう、と彼女自身は思っていた。


 井田絵里。彼女の複雑な精神構造とは逆に、名前は単純だ。漢字で四文字、ひらがなでも四文字、ローマ字にしても六文字しかない。あだ名は「イダエリ」。省略のしようがなく、フルネームがそのままあだ名となった。しかし、彼女を「イダエリ」と直接呼ぶ者はいない。なぜなら、小学校高学年のころには、アンテナが拾うあらゆる刺激を受けないよう、彼女はできるだけ人との接触を避けるようにしていたからだ。学級でイダリエは、いるかいないかわからない女の子、であり、いなくてもいい女の子、として認知されていた。


 絵里が小学五年生のとき、父親は病に倒れた。体内の癌細胞は少しずつ父の体を蝕んだ。病が進行すると、死を目前にする父親の負の感情は、絵里の右脳に強烈な刺激を与え、左脳で処理できないままネガティブな要素となり、彼女の精神に蓄積されていった。母親の悦子と絵里が何度目かの父の見舞いに病院へ行ったとき、絵里は突然いつもの発作を起こして意識を失い、そのまま父と同じ病院に入院した。悦子は末期癌の夫と原因のわからない意識不明の娘を抱え、心労に耐えていた。そんな母親の負の感情さえ、絵里のアンテナは容赦なく拾い続け、眠る彼女に負の刺激を送り続けた。

 三カ月後、父親が亡くなったと同時に絵里は意識を取り戻した。それまで度々起こっていた感情的な発作はなくなった。だがそれ以降、絵里は笑顔も失った。彼女は電波を遮断する方法を身につけていた。


 娘が笑わなくなった原因は、父親が死んだから、と悦子は思っていた。それにしても、彼女の冷たく硬直した顔はあまりにも不気味だった。それは学校のクラスメイトや担任の教師も同じだった。いくら絵里自身が人を避けていたとしても、変わり者に声をかけてくる物好きがクラスにひとりやふたりはいたのだが、退院後学校へ戻ると、そういった物好きでさえ、絵里の不気味さを恐れて近寄るのをやめてしまった。その後中学に入学するまで、絵里には友達がひとりもできなかった。


 絵里は、学校が終わってから日没までの時間を、近所の寂れた公園で過ごす。それは、家にいる母親のネガティヴな電波を避けるためだった。

 公園の中は雑草だらけ。壊れたブランコと錆びたジャングルジムだけの公園に来る者は誰もいない。この公園で数年前に子供が亡くなったという噂もある。近隣の住人の間では、その子供の幽霊が出る、とさらに噂が広がり、とうとう公園は閉鎖され、入り口にはロープが張られてしまった。その噂はまったくのデマとは言い切れない。絵里のアンテナは知っている。しかし、ネガティブな感情はこの公園にはない。そのことも彼女は知ってた。


 人間ではない友達ができたのは、絵里が中学一年の冬だった。絵里が公園のベンチに座っていると、何かが彼女のアンテナに触れた。それは、野草がつけた小さな花に触れるみたいに、そっと優しく、指先でツンと突くように。絵里は、亡くなった子供が遊んでちょうだいとねだっているのだろう、と怖がることはなかった。それよりも、生きている人間が放つ負のエネルギーを恐れていた。

 彼女はこの公園をいつも綺麗にしていた。心無い者が捨てていったタバコの吸い殻や空き缶、スナック菓子の袋、コンビニ弁当の容器など、ゴミを見つけては拾って持ち帰った。しかし、公園の伸び放題の雑草はそのままにしていた。なぜなら、雑草は自然のものであり、本来そこに「いる」べきもので、人間が手を下すものではないと考えていたからだ。だが本当は、雑草を引き抜くときの、アンテナがピリッとする「生き物が放つ負の刺激」を避けたかったからだ。


 その日の空は赤く染まっていた。この空の赤色は夕焼けではないことはわかっていた。絵里の周りで何かが起こったことを暗示している。大きな負のエネルギーが漂い、アンテナを小刻みに震わせ、絵里の網膜に赤い危険シグナルを送っている。

 学校が終わると急いで公園へ向かった。公園の入り口にダンボール箱が捨てられていた。箱には赤いリンゴのキャラクターが描かれてる。赤いリンゴは絵里の心境とは不釣り合いに笑っている。空と同じ色だと喜んでいるように。

 絵里はフタの開いたそのダンボールを上から覗き込んだ。捨てられていたのはダンボールでもリンゴでもない。中には産まれて間もない(と思われる)小さな生き物がいた。赤いバンダナがダンボールの底に敷かれ、その上で子犬が寂しそうにクンクンと鳴いている。赤い空の原因はこの子犬だった。

 絵里は近くのコンビニへ走り、パックの牛乳を買って公園へ戻る。そして、鞄から空の弁当箱を出し、そのフタに牛乳を注いで子犬に与えた。

 空の赤が消え、雲のない青い空が蘇った。

 子犬は何もない青い空に向かって「ワン」と吠え、心地良さそうにお腹を空に向けた。そのとき、アンテナに何かが触れた。

「助けを呼んだのはあなたね」

 絵里は子犬が見ている空に向かって言い放った。いつもアンテナに触れてくる公園の主が(子犬を助けるために)電波を送ったのだろう、と絵里は思った。

 アンテナが受ける感覚は霊感や霊能力のようなものではない。絵里はお化けが怖いというような恐怖心すら持ってはいない。誰か(あるいは何か)が彼女のアンテナに触れてこなければ、それを感じることはできない。それは、誰かが私を見ている、というような「気配」の感覚に似ている。

「あなた、この子、見ていてくれる?」、絵里はアンテナに触れる者に問いかけた。

 すると、アンテナに力強い反応が返ってきた。

 子犬は絵里の顔を見て「ワン」と吠えた。

 絵里は子犬を家に連れて帰ろうかと考えた。だがやはり、母親の負の感情を子犬に感じさせたくはなかった。それで、子犬を公園で飼うことにした。見えない友達が見ていてくれるだろう、と。

 その日からの放課後は、ひとりぼっちではなくなった。見えない者と子犬が絵里のはじめての友達となった。

「ねぇ、あなたは女の子?」、絵里は宙の一点を見つめながら見えない友達に尋ねた。

 反応はなかった。

「じゃ、男の子ね」

 アンテナがビビビと反応した。

 あれだけアンテナに触れられるのが苦痛だったのに、見えない友達の感触は心地よいものだった。

「名前はなんていうの?」

 見えない友達の声など聞こえるはずもないのだから、当然名前を聞いても答えが返ってくるはずがないのだが……。

「え? もういちど」

 絵里は眉と眉の間に背中から伝わったむず痒いものを感じた。

「イチ。イチっていうのね」

 絵里は眉間のむずむずを右手で掻いた。

「あなたの名前は?」

 子犬は絵里の質問に頭を傾け、答えを考えている様子だった。

 するとまた、眉毛の間にむずむずが走った。

「ワン!」と子犬が吠えた。

「あなた、ワンっていうのね。犬らしい名前ね」

「ワン!」、子犬はしっぽを勢いよく振って、もう一度吠えた。

「イチとワン、って、あなたたち名コンビだわね」、絵里はそう言って笑った。

 ずいぶん久しぶりに笑ったことに、絵里は気づいていない。見えない幽霊の友達と、産まれて間もない子犬に触れ、自然に笑顔が溢れ出た。

 見えない友達は本当に存在するのか。不確かな存在のアンテナがもたらした、不確かな心地よい感覚は、幽霊の仕業などではなく、絵里が想像で作り出した架空の一物かもしれない。子犬から伝わった感情も、ただの錯覚を都合よく解釈しているだけかもしれない。もしそうだとしても、彼女自身は少しも疑っていない。確かなのは、彼女が笑った、ということだけだ。そんなどこにでもあるはずの感情が、誰もいない公園にふわふわと行き着くところもなく漂っていた。


 絵里はその日から、公園へ行くのが「楽しみ」になった。それは以前のように母親の負の感情から逃れるためではない。彼女には短い人生の中で、「楽しみ」というものがほとんどなかった。祖父に会いに行くことが楽しみだったが、その祖父ももういない。

 これまでは、できるだけ存在を隠し、できるだけ誰にも声をかけられないように、いつも下を向いて暮らしていた。今でも、朝起きても、家の中でも、登校するときも、教室でも、休み時間も、下を向いて外からの情報を遮断し、誰とも目を合わさないようにしている。

 しかし、校門を出てひとつ目の角を曲がると、絵里は顔を上げて走り出し、まっすぐに公園へ向かうようになった。公園では空を見上げて見えない友達と話す。子犬に餌をやり、追いかけっこをする。日が沈むまでのほんの二時間ほどだったが、毎日の「楽しみ」の時間ができた。アンテナを解放し、見えない友達と子犬から心地よい電波を受信した。心から安らげる時間はこのまま永遠に続くと思っていた。


「あの公園に行くのはやめなさいね」、悦子は絵里に優しく忠告した。

 絵里は母が嫌いなわけではない。

 夫の死後、悦子はネガティヴな思考を抱えるようになった。夫がいなくなって寂しいという感情もうっすらとあったが、無表情で無口な娘に怯えている感情も大きく、この先の生きていく不安がネガティヴな領域の大半を占めている。悦子もひとりぼっちだった。

「あなたが公園でひとりでしゃべってるって、見た人がいるの」

 絵里は食卓の椅子に座り、下を向いていた。

「おかしな子だと思われるわ」

 絵里はもうすでに自分はおかしな子だと自覚している。まだそう思ってない人もいるんだ、と冷めた感情が湧いたが、声には出さなかった。

「あの公園で男の子が亡くなったのよ」

 その子が私の友達よ、と絵里は心の中で呟く。

「もうすぐ取り壊されるんだって、あの公園」

 絵里はその情報に驚いたが、母に気づかれないように平常心を装った。

 悦子は絵里がいつも公園にいることを知っていた。絵里に友達がいないことも。自分には娘を救える力がないこともわかっている。だから、せめて娘の安らげる場所に、いたいだけいさせてあげたかった。しかし、娘がおかしな子だと思われることは、悦子にとっても苦痛だった。それは悦子もおかしな父親と暮らしていたからだ。


 悦子は変人の娘だと言われ続けて育った。彼女の父親の鉄蔵は「予言者」と呼ばれていた。それも悪いことばかりを予言した。

 近所の誰々に交通事故が起こると予言すると、その者の家に駆け込んで、本人に起こってもいない未来の交通事故を告げる。また別の誰々が病に侵されると予言すれば、その者に近々病気になると告げる。鉄蔵の予言は当たる。予言が当たると不幸に見舞われた者の家族は、鉄蔵が災いをもたらしたのだと逆恨みする。そのようなことが繰り返され、近所の者は鉄蔵の家族を避けるようになった。鉄蔵の忠告を素直に聞けば、災いを避ける術もある(実際は災いを避けられた者はいなかった)のだが、誰もが気味悪がって、鉄蔵の予言を聞かなかった。鉄蔵は予言が当たるたびに苦しんだ。悦子は苦しむ父親を哀れんだ。他人のことなんて放っておけばいいのに、と。


 絵里は母の忠告を無視し、今日も公園を訪れた。公園に入ったところで気がついた。

 リンゴのダンボールが消えている。

「ねぇ、ワンはどこ?」、絵里は空に向かって尋ねた。

 返事はなかった。

「探してくる!」

 公園を出ようとしたとき、アンテナに激しい痛みが走った。

「いたっ!」

 絵里はその場にうずくまる。

「なにするの?」

 絵里はもう一度、ワンを探しに行こうと立ち上がった。

「探しちゃダメなの?」

 返事はない。

「私の犬よ!」と大きな声で叫んだ。

「痛いっ!」

 また酷い痛みが走る。

「どうして?」

 絵里の目から大粒の涙がこぼれる。そして、公園の入り口で制服のスカートに顔を埋め、悔しさを噛み締めた。絵里はイチが止める理由を知っている。この公園で自分がワンを飼うより、普通の家で親切な家族に囲まれて暮らすほうが幸せに決まっている。

「だけど、どんな人に飼われるのかだけ、それだけ知りたいの。連れて帰らないから、ワンを探させて。ねぇ、イチ。お願い」

 絵里の体を包み込むように、温かな感覚が伝わる。幼いころに母親に抱きしめられた感覚を思い出した。

「ここ、もうすぐ無くなるんだって。イチ、あなたはどこに行くの?」

 絵里のアンテナには心地よいテンポの刺激が伝わった。何も心配いらない、とイチが言ってるのだろう。絵里はそう解釈した。


 絵里は近所の家を一件一件探して回った。塀をよじ登って庭を見たり、門から玄関を覗き込んだり、耳を澄ませて犬の声を辿ったり、アンテナを解放してワンの感覚を探ったり、と。

 三日目にワンの新しい家を見つけた。公園から見て大通りを挟んだ斜向かいのタバコ屋の角を曲がった古い家。絵里は垣根の間からそっと庭を覗いた。庭の隅にワンが入れられていたダンボールがあった。リンゴのキャラクターは相変わらず笑っていた。物干し竿には赤いバンダナがぶら下がっている。ワンはこの家にいる、絵里はそう確信した。

「あっ!」

 絵里のアンテナに電気が走る。マイナスのエネルギーの中にある柔らかなプラスの刺激。野の花を優しく突くような感覚。イチのそれに似ている。絵里は何か思いついたように、急いで家に帰った。


 はぁはぁ、と息を切らして玄関のドアを開け、靴を脱ぎ散らかし、キッチンの母のもとへ駆け込む。

「母さん、亡くなった子供って、どこの子?」

 悦子は驚いた。娘の声を久しぶりに聞いたのだ。夕食の支度中だった悦子は、菜箸で何度も宙を摘み、目を大きく見開いた。

「ねぇ、母さん。その子、タバコ屋の角を曲がったとこの子?」

 コンロの鍋が煮立ち、大きく吹きこぼれる。悦子は慌ててコンロの火を止めた。

「ねぇ、母さん!」、絵里は大きな声で繰り返す。

「そうよ」

 悦子は菜箸を置き、食卓の椅子に座って語り出した。

「タバコ屋の角を曲がった古いおうち。比嘉さんのお宅の子。ずいぶん昔のことだけど。十歳の男の子だったかな」

「名前はなんていうの?」

「あなた。もしかして、その子に会ったの?」

 母は絵里の予想していなかった質問をした。絵里が幽霊と交信できることを知っている。

「え? 幽霊なんて会ってない」、絵里は咄嗟に嘘をついた。

「あなたのアンテナがその子を見つけたのね」

 絵里は体を硬直させ、母親の目をじっと見つめた。

「母さん、アンテナって……」

 絵里は言葉を失った。アンテナのことも母は知っている。誰も知らないと思っていたのに。

「ごめんね。お母さんにはアンテナがないの。だから、その苦しみはわからない。でも、あなたのおじいちゃんが苦しんでいたのを見てきたわ。あなたが苦しんでいるところも」

 絵里は呆然としていた。今までひとりで苦しんでいたことを母は知っている。そのとき、ワンが拾われた家での感覚を思い出した。それは母の持っている負の感情に似ている。この感覚、避ける必要はなかった、と絵里はそのとき初めて気がついた。

「小さなころね。かあさん、嫌なことがあって家に帰るでしょ。父さん、すぐそれに気づいて、私のそばにやってくるの。それで私の手を握るのよ。そうすると、胸の中のモヤモヤが、両手の先から父さんに吸い込まれていくみたいに、すーっと消えてしまうの。父さんのアンテナは悦子の心の掃除機なんだ、ってね」

 絵里は母の顔を見つめた。母の優しい笑顔からくる温かな感触が、絵里のアンテナに絡まり、心の底にストンと落ちた。

「はじめ」と母は呟く。

「え?」

「亡くなった子の名前よ」

「はじめ」、絵里は死んだ子の名前を声に出した。

 絵里の中で何かが繋がった。

「母さん、ちょっと行ってくる!」、絵里は母にそう告げて、慌てて玄関へ走り出した。

「どこへいくの?」

 絵里は返事もしないで、片足を靴に突っ込み、その足でケンケンをしながらもう片方の靴を履き、玄関の戸をバタンと大きな音を立てて閉め、道路に飛び出した。

 そうか。はじめ、イチ、そして、ワン。絵里はぶつぶつと呟きながら、もう一度ワンのいる古い家に向かった。


 古い家の垣根の隙間から、絵里は腰を屈めて再び庭を覗く。

 そこにはワンがいた。

「ワン!」、絵里は嬉しさのあまり、子犬に呼びかけた。

 ワンは絵里に気づき、彼女のほうに近づいた。そして、クンクンと鼻を鳴らし、垣根の隙間から彼女の匂いを嗅ぐ。

 そのとき、

「うちにご用意かな?」

 絵里の後ろから声が聞こえた。

 絵里は驚いてすくっとまっすぐに立ち上がった。

「ん? 犬が好きなのかな?」

 絵里はおそるおそる声の主のほうに向き直った。そこには、緑色のベレー帽を被った老人が立っていた。ニコニコと笑顔を浮かべながら。

「よかったら、庭へどうぞ」

 絵里のアンテナはネガティヴな感情の中にある柔らかなプラスの刺激を受信した。この人がイチと似た感覚を発信しているのだ。

 絵里は老人のあとについて、門から庭へと入った。玄関には「比嘉」という表札がある。

 庭は、手入れの行き届いた背の低い常緑樹が植えられ、石で象った丸い花壇がある。平屋建ての瓦屋根の家には、庭に面した縁側があり、古い日本家屋の佇まいは、どこか懐かしいさを感じる。

 絵里は庭の隅にワンを見つけ、ワンが絵里のもとに駆け寄ってくる。絵里がしゃがむとワンは彼女の顔をペロペロと舐めた。

「お嬢ちゃん、もしかして、イダ エリさんかい?」

 絵里は顔を上げて老人を見る。目を大きく見開いて、驚いた表情を見せた。

「ばあさん、かわいいお客さまじゃ。例のあれ、どこへやったかのー」

 すると縁側に、上品な装いの白髪のおばあさんが顔を出し、おじいさんに何かを手渡す。おばあさんは絵里に向かって、いらっしゃい、と小さくお辞儀をする。

「その子犬、お嬢ちゃんの飼い犬だったのかい?」、おじいさんはそう言って、弁当箱を差し出す。

 それは絵里がワンにミルクを与えるときに使っていた弁当箱だった。蓋には「イダリエ」とカタカナで名前が書いてある。弁当箱は綺麗に洗ってあった。きっと、おばあさんが丁寧に洗ってくれたのだろう。

「いいえ、違います。それ、私のじゃありません」

 絵里はイチとの約束を思い出し、嘘をついた。

 すると老人は絵里の左の胸を指差す。

 彼女の制服の左胸に「井田」と書いた名札があった。絵里は慌てて両手で名札を隠す。

「お嬢ちゃんが公園で世話をしてたんじゃな。わしが勝手に連れて帰ってしまったのかい。すまんことしたな」

 絵里は無言で首を大きく何度も横に振った。

「お宅で飼うことはできないのかい?」

 絵里は困った顔で下を向く。こんなに優しい老夫婦の家なら、きっとワンも幸せだし、連れて帰る必要はない。絵里のアンテナは今まで感じたことのない温もりを感知し、どうしていいかわからず、早く逃げ出したいとさえ思っていた。

「困ったのー」

 おじいさんは顎に手を当てて、何やら考えを巡らせていた。

 困ることは何もないのおじいさん、と絵里は心の中で呟く。

「なら、公園じゃなくて、うちのお庭でお嬢ちゃんが飼うことにすればいいんじゃないですかねぇ」

 縁側のおばあさんが名案を思いついた。

「ほう、それはいい考えじゃ。もうすぐあの公園も取り壊されるというし」

 絵里は子犬を抱えたまま、おじいさんとおばあさんの顔を交互に見た。

「門はいつも開けっ放しにしておる。いつでも入ってよいし、何時間でもいて構わん。子犬のご飯はばあさんが用意しよる。お嬢ちゃんが来ないときはわしが散歩に連れていく。どうじゃね」

 絵里にとってこんなに好都合な条件はない。「はい!」、絵里は迷うことなく大きく頷いた。

「では決まりじゃな。ところで、この子の名前は?」

 おじいさんが聞くと、「イチ」と絵里は子犬の名を二人に知らせた。ワンではなく、イチと。

 おじいさんとおばあさんはお互いに顔を見合わせる。

「イチ。子犬の名前は、イチというのかい?」とおじいさんは訊き返す。

 絵里は言ってはまずかったのかと不安の中、小さく首を縦に振った。

 おじいさんは何かを思い出したように訊いた。「井田さん? もしや、お嬢ちゃん、鉄蔵さんのお孫さんかい?」

「おじいちゃんを知ってるの?」、絵里は目をパチパチさせて尋ねた。

 おじいさんはゆっくりと縁側に座る。そして、絵里に向かってこちらへおいでと手招きし、ここへ座れと縁側の床板をトントンと叩いた。絵里は縁側のおじいさんの隣に座った。おじいさんはおばあさんに目配せする。おばあさんは家の中から何かを持ってきて、それをおじいさんに手渡した。

「もう、ずいぶん昔のことじゃ」、おじいさんはそう言って、縁側に座った絵里に写真立てを渡す。

 そこには、色褪せた古い写真があり、赤いバンダナを首に巻いた子犬と幼い子供が絵里に笑顔を振る舞っていた。

「この子が十歳のときじゃった。名前は、はじめという。鉄蔵さんが駆け込んできて、この子が神隠しに遭う、というんじゃ。鉄蔵さんの予言は、このあたりじゃ有名じゃった。わしら夫婦は万が一に備えて、はじめから目を離さんように気をつけていた。それから一週間後、鉄蔵さんの忠告も薄れ始めたころじゃ。はじめは子犬を拾ってきてのー。イチと名付けたんじゃ。はじめがイチを散歩に連れて行きたいと言うので、わしも一緒にあの公園へ連れて行った。じゃが、ふと目を離した隙に、はじめもイチも消えてしもとった。鉄蔵さんの予言は当たった。わしがもっと鉄蔵さんの予言を信じていたら……」

 おじいさんはもう夕暮れ近くの空の中に、遠い昔の記憶を見ていた。

「亡くなったんじゃないの?」、絵里は尋ねた。

「亡骸は見つかっておらん。鉄蔵さんの言うように、神隠しにあったんじゃ」

 おじいさんは絵里の持っていた写真立てを覗き込み、いとおしそうに、にっこりと微笑んだ。

「イチが帰ってきたんじゃ。はじめも帰ってくるかもしれんの」

 おじいさんは、予言者の孫である絵里なら息子の行方を知っていると思ったのだろうか。しかし、絵里はその答えを知らなかった。

 ふと見上げると、夕暮れの空の中に、物干し竿の赤いバンダナが揺れていた。


 その夜、絵里は母に事の成り行きのすべてを話した。おじいさんの家で子犬のイチを飼うようになったこと。祖父がおじいさんに神隠しの予言をしたこと。はじめは死んだのではなく、行方不明になったということ。公園で絵里に触れたのは、神隠しに合った十歳のはじめの幽霊ではなく、はじめが飼っていたイチの幽霊だったこと。

「そうなの。イチの幽霊はおじいさんとおばあさんのこと、ずっと気にかけていたのね」、母は絵里にそう言って微笑んだ。

 悦子はこの機会を待っていた。絵里のアンテナのことは父親から聞いて知っていた。幼いうちはコントロールが効かないこと。無理強いすれば心のバランスを失ってしまうこと。アンテナの痛みに耐えられるようになれば、自ら心を開くこと。

「絵里、あなたのアンテナは人を癒す力があるのよ。だけど、あなたは痛みを受けてしまうの。あなたのおかげで、お父さん、苦しまずに済んだのよ」

 絵里は母の言葉に大きく頷く。絵里は気がついた。アンテナの刺激は、誰かが自分を苦しめるために攻撃してくる刺激ではない。その人を癒すため、自ら痛みを吸収していたのだ。絵里は、もう怖くない、と心の奥のほうで自分に言い聞かせた。

「私も誰かの心の掃除機になれるかな」

 悦子は絵里のその問いかけに、小さく笑顔で頷く。絵里のアンテナはゆっくりとしなやかに震えていた。

 ようやく母と娘の心がつながり、親子の絆を結ぶことができた。絵里も悦子も、ひとりぼっちではなくなった。

 しかし、その幸せな時間は長くは続かなかった。

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