第10話~欠片を拾った少女~

 苗代真は、沖野小春が自分の元カノだと知ったその日。自分の妹である苗代詩音にこんなことを聞いていた。

『俺って、なんで別れたんだ?』

 それに対する詩音の返答は―

『そんなの私が知るわけないじゃん!そんなの、こっちが知りたいよ』

 ―であった。

 その時の真は、当然のことだろう。家族にもそんなことは話さないだろうと、そう思っていた。なのに、今、この妹はなんと言った?

『おにぃ達が別れた理由』を知っていると。そう言ったのだ。

 それが真実であるならば、詩音は真に嘘をつき、黙っていたということになる。

「おい、詩音」

 たまらず真は詩音に話しかける。しかし、

「おにぃ?」

 怒気の篭った目で睨まれ、黙るしかなくなる。今の真には、発言権がない。発言すれば詩音との約束を破ることとなり、話すのをやめる可能性もある。今この場を支配しているのは間違いなく詩音だった。

「こはるねぇにとって、思い出したくないことでしょ?」

 詩音には、小春の記憶喪失が起こった原因が失恋にあるだろうということは話していた。

 そして真は、詩音がそう切り出すことを、ほんのわずかながら期待していた。

 学年と家庭の問題で、同じ学校に通うことが出来なかった詩音が小春のことを知っているとすれば、真と小春の恋愛事情くらいのものだろう。

 だが、かつての質問でその可能性は消えたと、思っていた。それがここに来ての屯田返し。嬉しい誤算とはまさしくこのことを言うのだろう。

 真は何かを言うことも止めて、事の成り行きを黙って見守ることにした。

「一つ、訂正してもらってもいい?」

「えーっと、何を?」

「思い出したくない記憶ってところ」

 小春は、小さい子を宥めるような優しい口調でそう言った。

「今の私には、思い出したくない記憶なんてないんだよ。今は一つでも多くの手がかりが欲しいの。もしも、いい思い出じゃなかったとしても、私は思い出したことを後悔はしないから」

「あっそ、じゃ、覚悟は良い?」

「そんなの、初めからできてるよ」

 強い意思を見せる小春に対して、詩音はお茶をゆっくりと飲みほっと息をつく。その目は、微かに笑っていた。そのことに、小春はもちろん、真も気づかない。

「これはね。私たちが急に引っ越しをしたその前日のこと。平日だったのにも関わらず、二人は一緒に帰ってきてこはるねぇはうちに上がった」

 ほう。昔の俺にそんな度胸があったとは。って、ちょっと待て。これ、俺が聞いていてもいいやつなのだろうか。精神的にも色々と攻撃を受けるのは小春だけじゃない気がするぞ。

 そんな真に気付かずに詩音は続けて言う。

「けど、それは特別珍しいことじゃなくてね。家がそんなに離れていないからって、宿題を一緒にしているのも時々ではあったけどあったよ。そして、私もこはるねぇがいるってわかったから勉強を教えてもらおうと思って二人がいるおにぃの部屋に向かったの。けど。ドアを開けようとして、中から聞こえる二人の声に私は動きを止めた」

「二人の、昔の私たちの会話は、まだ覚えているの?」

「うん、衝撃的だったからね」

 詩音にとっての衝撃的。と、いうことはすべてを忘れた真らにとっても衝撃的になるのだろうか。

「その時聞こえたのは、こはるねぇの声。『ごめんね。私、本当は―』」

 刹那。小春が何かを思い出したかのように我が家から飛び出して行った。

「ちょ、おい!沖野さん!」

 しかし、その背中を捕まえることはできなかった。激しくドアが閉まる音が静かになった我が家に響く。

 そんな中。唯一人、詩音だけが落ち着いてお茶をすすっていた。

 確かに、衝撃的な内容だった。だが、

「詩音。お前、何で嘘をついた・・・?」

「さぁ?何のこと?」

 お茶を飲み干し、挑戦的な目つきで真のことを見上げてくる。

「惚けるな。もう一度聞くぞ?どうして嘘をついた?」

「うわぁ、激おこのおにぃとか久しぶりじゃない?」

「いいから答えろ」

「あのねぇ、おにぃ。疑いたくなるのもわかるけど、真実だよ?」

 違う。真が詩音を疑っているのは内容が胡散臭かったからではない。もっと根本的なこと。詩音自身は気づいていない、軽く右手を握る嘘をつく時の癖。

 ただ、詩音が真実と言い張る以上、これ以上の追及は無理だろう。

「けど、じゃああいつはどうして家を飛び出した?」

「だから、衝撃的だったんじゃないの?」

 その通りなのだ。嘘だとわかった真にも衝撃的過ぎた。世の中のカップル諸君は想像もつくだろうか。

 ―好きでもないのに付き合っていました。

 なんて言われる気持ちが。それを、知ってしまった気持ちが。

 あぁ、衝撃的だった。しかし、それは、嘘の可能性が限りなく高いのである。それでも小春が家を飛び出したのはその嘘ですら引き金となったのだろう。

 一方で、真に引っかかるものはなかったわけだが。

 部屋で話している二人の会話を聞いたということに嘘はない。その内容が嘘。本当は何を話していたのか、詩音は知っているのだろう。それでも本当のことを話さなかったのは。

「嫌いだからか」

「ん?何が?」

「いや。何でもない」

 詩音は真が嘘を見破ったことに気付いている。本当のことを言わないのは心の底から、真が抱いている以上に、嫌悪感を抱いているから。

 そのことを、真に責めることはできなかった。

 嘘の癖を見破ったからと言って、それが百パーセント間違いないとは限らない。それに、攻め立てられるだけの根拠もない。

 小春と詩音を会わせたのは、失敗だった。

 いや、本当にそうだろうか。小春が家を飛び出して行ったのは事実。それはつまり、何か思い当たる節があったということを示唆している。

 その内容を、真は知らない。何を思い出したのかを知らなければ、今後協力することも難しい。

 すぐさまスマホのメッセージアプリで小春に連絡を入れる。

『大丈夫ですか?』『顔色が優れていなかったようですが』

 返信はすぐに来た。

『大丈夫』『あの、迷ったので助けてください』

 二つのメッセージと共に、現在いると思われる場所の写真。それは、ここからそう遠くないところにある小さな公園だった。

 方向音痴が何も考えずに街に出れば、当然こうなるだろう。

「詩音、ちょっと出かけてくる」

「こはるねぇを、追うの?」

「悪いか?」

「ううん。行ってらっしゃい」

 あくびをかみ殺しながら詩音は言った。

 引き留められるかもと少しだけひやひやしていたが、ほっと胸を撫で下ろし、家を出た。




 その公園は住宅地の一角に寂しく佇んでいる。

 遊具は滑り台とブランコのみ。他には特にない狭い公園。子供たちが遊ぶこともほとんど見られず、取り壊すも噂されているその公園が、今日は珍しく人がいた。

 ブランコに座る俯きがちの高校生くらいの少女。泣いていたのか、ほのかに目が赤く、焦点は合っていない。

 そしてその少女は、『違う。違う』と呟いているのだった。

 端から見るとただの危ない人だなぁ、と思いながら、こうなったの責任は自分にある。と、真はゆっくりと小春のもとに歩みを進める。

「沖野さん。大丈夫?」

 いつものように、人がいいように見せながら言う。

「ま、こと君」

 一体どれだけ無我夢中で走ったのだろう。髪はぼさぼさで、憔悴の色が見え隠れしている。家に来た時、いや、学校で集合した時とはまるで別人。

「違う、違うの」

 小春はただそれだけ呟く。

「違うって、何が?詩音の話?」

「それも、あるけど。それも、違う」

 じゃあどういうことなんだと頭を巡らせる。しかし、答えは一向に出ない。

「何か、思い出したんじゃないの?」

 真のその質問に、小春は小さく頷いて応えた。

 やはり、詩音の話を聞き、小春は何かを思い出している。なのに、違うと言い続けるのは、もしかして。

 詩音の話と思い出した小春の記憶に食い違いがあるのではないだろうか。だとすれば、小春が混乱しているこの状況にも説明がつく。

「沖野さん。君が何を思い出したのか、教えてくれる?」

 小春と視線の高さを合わせ、穏やかな作った笑みを浮かべる。

 話を聞かないことには、矛盾点もわからない。今の真には、詩音から聞いた『好きでもないのに付き合っていた』という情報しかないのだ。

「う、ん。わかった」

 掠れた声で小春は言った。

「詩音ちゃんの話で、少しだけ思い出したよ。確かに、私たちは詩音ちゃんが言っていたような話を、した」

 詩音の話が真実であるという証明。だけど。

「違うの」

 小春は何が違うという。

「好きでもないのに付き合っていた。それを、言ったのは、私じゃない」

 なるほど。それが、記憶と情報の食い違い。・・・いやいや待て待て。小春がそれを言っていなかったとするなら、それを言ったのは必然的に、真ということになるではないか。

 昔の真は、小春のことが嫌いだったのだろうか。・・・分からない。

 今と同じように、真が小春ことを嫌っていたというのなら、ああ言った可能性は十二分にある。けど、それは違う。ただ本能的にそう直感した。

 今の真が小春のことを生理的に嫌っているのは、過去に小春と付き合っていたという事実があるから。それより前から嫌いだったというのなら、記憶を失くすまでのトラウマにはならないだろう。

 小春との思い出が良くなかったから、真は今尚思い出せずにいるのだ。

「正直、真君が言ったのかも、わからない。けど、私は確かに、似たようなことを聞いたの」

「僕が言ったのかも、わからない?」

「うん。ぼんやりと、その言葉を聞いた覚えはある。なのに、誰が言ったのかが、わからない」

 つまり、真ではない可能性もあるわけで。小春も言葉自体に聞き覚えはあってもどこで誰が言ったのかまでは、分かっていない。

 だが、どうだろう。真の記憶にギリギリ残っている小春に、彼氏がいたという情報はない。ならば、やはり必然的に選択肢は限られるわけで。

 ここは、流れに身を任せよう。

「なるほど。確かに、僕もそんなことを言ったような気がします」

 記憶がなく、不確かな情報を。わかりやすく真実であるようにする。

 今はまだ、それでいい。今はそれが真実であると仮定して、小春の記憶を探す。その過程で矛盾が生じれば真っ先に切り捨てられる情報として、存在させておく。

「真君。嘘は、やめて?」

 小春は真の瞳をまっすぐ見据えて言った。

 背中に嫌な汗が流れる。

「嘘?」

 表情を崩さずに問う。

「そう、嘘。真君は、何一つ思い出していないでしょ?」

 どうして、バレている。

 嘘をつくこと。人を騙すこと、欺くことに関しては横に出るものはいないというのに。今まで、暴かれたこともなかった。どうせ、ただの勘。

「失礼なことを言うね。はっきりとは思い出せていないけど、そんなことを言ったような、気がする」

「気がするだけじゃないの?」

「人の記憶に対してやけに否定的だね。気がするだけと否定するなら、そもそも記憶喪失だって、記憶をなくしている気がするだけなんじゃないのかな」

 真は一切の苛立ちを隠さずに言った。

 こっちが助けてやろうと、舟を出したのに、なんだよこの態度は。こちらだってお前の記憶喪失を完全に信じているわけじゃないんだぞ、と。言ってやりたい衝動を抑えて小春の反応を待つ。

 文句か、怒るか。悲しむか。

 小春は、真の期待を全部裏切る。

「じゃあ真君も、私のことをちゃんと覚えているんじゃないの?」

 怒りも悲しみもない、ほぼ無感情と思えるほどのトーンで、小春は反論した。

「自惚れるないで欲しいな。君のことなんて知らないし、僕は君のことが大嫌いだ。記憶の片隅にですら、君と過ごした記憶なんてない。君が僕の記憶喪失を否定するというのなら、僕は君の記憶喪失を、否定する」

「私の記憶喪失を否定することなんて、できる?」

 何を言うかと思えば、そんなの、簡単だ。

 まず、記憶喪失は自己申告でしか他人には伝わらない。その時点でこちらが信じなければ、いや、違う。それだと、否定したことにはならない。

 否定する。つまり、小春が記憶喪失ではないことを提示する。こちらが信じなかったからと言って、それは否定にはならない。

「記憶喪失の否定なんて、僕にも君にも出来やしないじゃないか」

「やっと気づいたの?」

 小春が遅いと言わんばかりにため息をついた。

 なんだ、こいつ。

 お互いに記憶喪失を否定出来ないことを確認し、何がしたいんだ。

「私にも、真君の記憶については何も言えない。けどね、記憶に関して嘘をついているのは、はっきりとわかる」

「何を根拠に?」

「思い出していれば、きっと真君は私のところになんてこないから」

 この時、真は思った。小春は、真の知らない真との事情を思い出しているのではないかと。

 真にとって、小春と関わりたくなくなるようなことを、思い出している。それを推測し、真をここに呼んだ。というのは流石に考えすぎと言えなくもないが、その可能性も真は考えていた。

「ねぇ、真君」

「なに?」

「私を、寮まで送って欲しいんだけど。ほら、私方向音痴だし、ここ、どこかわかんないし。あ、最悪学校まででもいいから」

「ん、わかった」

 どうやら小春は、この話題を打ち切りにしたいらしい。ならば、真もそれ以上は深く追求しない。助けを求められた者としては聞いておくべきだろうが、それには自分自身も深く関わっていることだろう。

 お互いに、整理する時間が欲しかった。

 公園から寮までおよそ三十分。その道のりを、二人は何も話さずに歩いた。

 端から見れば、付き合いたてか、何か問題が起きたあとのカップルにでも見えているのだろうか。表情は重く、足取りも決して軽いとは言えない。

 結局真は小春のことを寮まで送り、小春は別れ際に何も言わずふわりと笑って寮へと肺って行った。

 その意味が、真には分からなかった。

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