欲望ランチのその後で

 アンドレはいない。憤りながら「空に向けて撃った」と叫び、身分が欲しいと草をむしり、ジェローデル大佐にショコラをぶっかけ、何故かおめかしして自殺未遂をはかるあのアンドレである。ベルばらを読んだ女性なら誰しもアンドレのように包容力のある、どんな時でも自分を見捨てない男性がいつか目の前に現れるだろうと夢見ることだろう。私もその一人だ。そして、敬愛する母校の近代文学研究の教授ももれなくそう考えたらしい。けれど、講義で『アララギ』と『白樺』について語っていたO教授はおもむろに手を止めて私たちをぐるりと見渡した。

「ここにいるのはおそらく二十歳に近しい女性達でしょう。貴女方がより懸命な伴侶選びができるよう私から忠告があります。良いですか。〝アンドレ〟はいません」

 私の頭から与謝野晶子のスキャンダル、森鴎外の好物はまんじゅう丼といったデータが一瞬飛んだ。あまりの衝撃に思わず背筋が伸びた。やる気のまるで見えないテニサーギャル軍団も息を呑んで教授を見つめている。

「二十歳までその幻想に浸るのは自由です。けれど、近い将来結婚する相手を決めるにあたって妥協が必要だということをお忘れなく」

 教授の薬指に光る指輪を見ながら様々な質問が浮かんだが、尋ねられるわけがない。この言葉に私は心から納得してしまった。40代まで「アンドレはいる」と夢を見続け玉砕した女性が傍にいたからである。母だ。彼女はリアルタイムでベルばらを読んでいた世代である。けれど様々な困難にぶちあたりその幻想はがらがらと崩れ去った。この話をした所、母はああと天を仰いだ。

「おもとちゃん。お母さんは二十歳の時にそれを知りたかったわ。……でも本当にいないのかしら」

「夢見るぐらいは自由だと思うわ」

 これ以上母の心が痛めつけられないよう私はそっと返した。諦めが悪いなと感じたが言わぬが吉だ。それが母である。

 結婚する相手は別として、様々な男性を見て妄想をするのは自由だ。先月、件の「パスタは飲み物」という店でランチをしてきた。スキップ20歩というアレンジ反閇は使わずに見つけることができて安堵したのは言うまでもない。休日ゆえにアベックがわんさかいて、お独り様は私だけであった。気温ががくんと下がった日ということもあり、心までも寒い。追い打ちをかけるように寒風吹きすさぶカウンターの端っこ(横のカップル二組はぬくぬくしていやがる)へ案内され、気分憤慨。

 とりあえず星マークがついたジェノベーゼを注文。私はジェノベーゼに目がないのだ。ドリンクサラダセットをつけて注文を終えてからi-phonをいじる。隣のアベック一組目の彼女がパスタをフォークに二、三本絡めて小さく開けた口に運び「ん、おいし」と彼氏に微笑んでいた。ルパン三世の映画『カリオストロの城』の如くたっぷりと巻きつけてぱっくりと豪快に食べた方がきっと美味しいに違いないのに。ふんだ。やさぐれながらサラダを片付けたあとは、メインディっシュのジェノベーゼ。肝心の味だが、生パスタなのでもちもちしていた。エビがぷりぷりしていて美味しい。生パスタってこんなに弾力があるのかと深い感慨に浸りながら咀嚼する。ふんだんにソースがかけられているから、こってりが苦手な人は注意かもしれない。結論、飲み物ではなく普通に食べるパスタだった。

 それより特筆すべきは厨房を立ち回る三人の男性である。一番年下の目がくりくりした黒髪Aくん。無口にパスタを作り続ける日焼けが眩しい三十代のBさま。吊り目気味はCにしよう。三人ともお揃いのTシャツである。ちなみにカップルが早々に引き上げたおかげで私は奥の席に移った。妄想し放題だ。そのうち、Aくんと親しそうな若い男性客Dが……! 横目でこっそり。清潔感溢れるイケメンだ。げっ。なんか乙女の妄想には極力でてきて頂きたくない類の仲間もいる。見ないふり見ないふり。AくんがDに小突かれている光景をガン見していると、素敵なお髭の店員さんが増えた。少年のような瞳をしていて、Bさんと並ぶと大層絵になる。私はまるで空から舞い降りた黒いカラスのような髭がE様に釘付け。(※休日に一人でいる女のたわごとなのでスルー推奨)

 冷静に紅茶のおかわりを頼み手帳を広げながら、私は自分の耳に全身全霊の力を注いでいた。ここで妄想外要員が「好みは平安時代みたいに鼻が気持ち悪い女の子」などと訳の分からないことを言い始めるがツッコミを抑える。だが更に奴はAくんをお泊りに誘いはじめた。これには思わず妄想外要員を心中で激しく罵ってしまった。それは釣り目のCくんが言いたかったことなのに!! 私は運ばれてきた紅茶にミルクを入れて気持ちを落ちつけた。成程。皆料理関係のお仕事を目指しているのだな。髭がE様に冷やかしを飛ばす妄想外要員よ。イニシャルはくれてやらないが、そちのおかげで色々話が聞こえているし控えめながらも眩しいE様のスマイルを見ることが出来た。感謝しているぞ。だがさっきの言葉は女子に言うな。全くこれだから彼女のいない男は。失礼千万なため息をついてみせる私。けれど世間はそう甘くない。妄想外要員に彼女がいた。ぎょっとして横を見てしまった私は悪くないだろう。まじまじと彼を見つめてから、ぬるくなった紅茶を一気に煽った。

 さて、オチがついたとこで出るか。その前にお花摘みへ。店内奥のトイレに入り、ようやっと息をつく。トイレットペーパーを取ろうとして壁を見ると、求人広告が飛びこんできた。たっぷり五秒は固まったと思う。曰く「業務内容は店長のおもり! 人生を棒に振りたい人は連絡を!」とのこと。最大のオチはトイレにあった。百万言を呑みこみ会計を済ませる任務遂行にどれだけ労力を使ったか! トイレの貼り紙が最大のオチとなったうららかな休日のことである。え? 妄想の方向が違う? 細かいことは気にしないでくださいな。


                     20150508/原稿用紙換算:6枚/2397字

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