第6話 不器用な二人

 ペステリア歴二百六十六年 九月初日


 

 東の山から吹き下ろした風が、坂の街を根こそぎ冷やす朝。

 

「う~寒い、寒いですっ」

 

 太陽よりも早起きをして薄暗い街に踏み出したパルムシェリーは、街に居座る寒波に負けじとローブの襟元をぎゅっと合わせた。

 

「ああ、夕べから急に冷え込みやがった」

 

 そう言ったディンも、朝霧に包まれた道の上をフードを片手で押さえつつ両肩を耳にくっつけるようにして歩き出す。

 

「宿屋のおじさまが言うには、九月の頭にこんなに冷えるのは子供の頃以来の約四十年振りだそうですよ」

 

「そうか。つうか、橋大工はどうすんだろうな? こんな日に水に入ったらさすがに死人が出るぜ」

 

 河の方に目を凝らしたディンの横で、パルムもまたぐるりと周囲の様子を眺めまわす。いつもはこの街で採れる果物の様に色とりどりなアレリアの街も、河から立ち込めた霧のおかげで白一面に包まれていた。

 

「はあ~、なんだか雲の中にいるみたいですね」

「だな。空の上に行く時の良い練習だ――ん? 何の音だ?」

「はい?」

 

 足を止めた相棒に倣って冷たい風に耳を澄ませば、確かに不思議な低い音がジオとランビアの国境となる山脈方面の、それも本日の目的地カズアール遺跡の方角からほんのかすかに響いていた。

 

 だから、パルムは一瞬目をくるりとさせて。

 

「ふふふ。これは不思議。きっと我々を呼んでいるに違いありませんね」

「そうか。んじゃあ呼んでんのが死霊じゃありませんようにって祈っといてくれ」

 

 ニヤリと笑ったディンは、山鳴りを運ぶ冷たい風に向かって一歩踏み出した。すかさずその背に逃げ込んだ小柄な金髪は、くすくすと笑いながら。

 

「えへへ。こうしてみると、ディンさんは私の風除けに丁度いいですね。よくぞ成長してくれました」

「そいつはどうも。そっちこそ、小っこい割に飯を食ってくれてありがとよ」

 

 そうやって寒さを軽口でごまかしながら、目指すのは街の外れにあるという竜車小屋。カズアール遺跡を訪ねるという予定の前に、少しばかり行ってみたい場所が出来たからだ。

 

 ポケットの中で握った手に何度も木の感触を確かめながら、ディンは濃霧の中でも道を違えない程には歩き慣れた街をてくてくと行く。『暖めて差し上げます』などとごしごし背中を擦ってくる相棒を、鼻に氷を押し付けて来るような風から背中で守りつつ。

 

 ――目的の竜車小屋があったのは、霧が少し大人しくなるくらいに街から外れた場所だった。

 小屋自体の古さやすこしくたびれた感じが町外れの寂しさを助長する様なアレリアの竜車小屋で、二人は暖かい飲み物を頂きながら暖炉の前に座っていた。

 

「悪いな、この寒さじゃあさすがに竜は動けねえ。代わりにグルを出してやるからちょっと待っとけ」

 

 そう言い残したお爺さんが、確かに泣きそうな顔で息を吐き吐き蹲っている赤い走竜を置いて小屋の裏手に引っ込むのを見届けると、ミルクのカップで両手を温めていたパルムは傍らの相棒を覗き込み、

 

「グルとは何でしょうか?」

 

 と鼻を赤くした黒髪の少年に尋ねかけた。すると彼は僅かに考えて。

 

「まあ、獣だ。走竜よりかはずんぐりしててのんびりだけど、その分力があって寒さに強い。ジオでも北の方とか農業なんかにゃ使われてるが、王都あたりじゃもう見る事はねえな」

 

「ふむふむ、成程。竜は寒さに弱いのですね」

 

「ああ、何せ奴らにゃ毛皮が無いしな。一回人に飼われちまうと、世話が無きゃ冬を越せねえ様な生物だよ」

 

「成程成程、人に飼われてしまうと――と」

 

 相棒による解説に頷きながら、パルムはメモを書き留めていく。

 

「ああ、手間も金もかかるからな。自走車が出てきた頃、廃業した近くの国の竜車屋が、手に負えなくなった竜をジオの森に放しやがってさ。野生化したら大変だっつうんで一斉に狩りをやったんだが、一冬越したらほとんど勝手に死んでた。何匹かで丸くなったまんまでな。多分、元はそう言う生き物なんだろ。そん時、こいつらは長い事人間と暮らしてる内に自分の生き方を忘れちまったのかもなって思ったんだ」

 

「成程成程、なるほどです」

 

 まるで世界の全てを理解しましたよとでも言う様な顔で頷きながら蹲った竜の頭を撫でている金髪娘を横目に、ディンは少し笑った。二人でジオの王都を出てからほぼ三月、おかしなものを見る度に『あれはなんでしょうか?』と聞いてくる彼女に教えたり一緒になって首をひねったり、夜になれば『あのあの、あの時はどうだったのですか?』と取材してくるのにあん時はこんな風に考えたとか、あいつはこんな事を言っていたなどと語っている内に、自然と聞かれないうちから頭の中を喋る癖がついてきた。

 

「えへへ、ディンさんは物知りなんですよ。凄いでしょう。実は、なんと、私の相棒なんですよっ」

 

 パッと両掌を広げて眠たげな竜に話しかけているパルムの後ろ髪を、じっと見つめる。

 生まれてこの方、友人にも恩人にも材木屋の連中にまで、無口で無愛想だとさんざん言われてきた自分が、だ。

 

「なのに私が聞かないと教えてくれないんですよ、それで胸の中で馬鹿にしているんです。ひどい人ですよね、ね~」

 

『ね~』のところで、なんだこいつとばかりに首を傾げた竜に合わせて横になったパルムの金髪頭が、ディンの腕にこつんと当たった。

 

「……来たぞ」

「はい?」

 

 言われて振り向いたパルムの耳に『ブルヒヒヒッ』と言ういななきと、小窓からこちらを見つめる獣の、巨大で細長い顔が見えた。

 

 ――朝露にしっとりと濡れた山林に、四足の獣の太い足が土を踏みしめる音がベキベキと響く。その背に取り付けられた箱に乗った二人の視界はまだほんのりと白く、生き物に乗り慣れていないパルムの身体はグルの足が動く度に盛り上がる筋肉に乗って、あっちへゆわ~ん、こっちへゆわ~んと前後左右に揺れていた。

 

 と、ふいに彼女が何かを見つけた様に膝立ちになり。

 

「あっ、ディンさん! 川ですよ、川! 川が見え――へわっ」

「っ! ……ったく、立ち上がるんならどっかに掴まれって言われただろ?」

 

 はしゃいだ拍子にバランスを崩した相棒を受け止めた後、ディンは溜息交じりに小さな金色頭をペシリと叩いて注意した。

 するとパルムは、きょとんとした顔で胸を撫で下ろし。

 

「……はー、びっくりしました。思ったよりも揺れていたんですね。ありがとうございます」

 

 と、照れくさそうにディンの腕からそっと身を離すと。

 

「と言いますか、そろそろ教えてくれてもいいと思います。ディンさんはいったい私をどこに連れて行くおつもりですか? ――あ、待ってください、当てちゃいますから。ふふふ、いきますよ? オホンオホン。では、私こと『美少女冒険家パルムシェリー』の勘が告げます、此度の旅はズバリあのへんてこな『河の主』とやらが関係ありますね?」

 

 まるで次の瞬間にも満開に咲きそうな美少女冒険家様の表情に、ディンは閉口。

 

 しかし、ムスッと黙りこくったディンの前で、青い瞳のお調子冒険家はくすくすと金髪を揺らしながら。

 

「どうですか? 当たってますか? ふふふ、当たってますよね? あー、当てちゃいましたか~。まあまあディンさん、気にすることはないですよ。この失敗の原因はあなたの迂闊さでは無く私の鋭さにあるのですからうにゃっ」

 

 言葉が終わる前に右手で相棒の鋭い鼻を押したディンは、顎でグルの大きな頭の先を示した。

 

「あれだよ。『河の主』は、あそこっから流れて来るんだと」

「……むぅ?」

 

 両手で鼻を押さえて唸りながらパルムシェリーは顔を上げた。

 

 そして。

 

「あっ」

 

 と驚きに目を開き、慌てて空に向かってきょろきょろと。なぜならそれは――彼女の目の前に合ったのは、少し前にこの国へとやってきた時に乗合自走車から発見した林の中にぽつんと佇む煙突小屋だったから。

 

「んんっ!?」

 

 ついでに思わず立ち上がってしまったのは、不規則に響く山鳴り中に、その昔希望に溢れた二人の冒険家を乗せてジオを出発した黒い乗合自走車の駆動音が聞こえた気がしたから。

 

「あっちだよ。俺達はあの山を越えて来たんだ」

 

 そんな相棒の心境を察し、腕を伸ばして少女の身体を抑えたディンは自分が育った国の方向を指差した。

 

「わぁ……あっあっ、自走車が来ますよ、ディンさん! 見えるでしょうか、私達が! おーい! ここですよ~! 私が、伝説の冒険家パルムシェリーですよ~!」

 

 きっとみんな寝ているか山の向こうのカズアール遺跡の美しさに見とれているだろう自走車に向けて獣の背中から両手を振る冒険家を、ディンは笑って。

 

「その相棒だ」

 

 芋虫みたいに必死に山道を這っていく自走車の煙に、胡坐のままでぱたぱたと片手を振ってみた。

 

「アレリアは、とっっっても素敵な街でした! 良い旅を~!」

 

 山沿いに曲がって霧の向こうへ消えていった自走車に『えいえいおー!』と盛大な祈りを送るパルムの声を追いかけて、足元のグルが『俺もいるぞ』とばかりにブルヒヒヒッと熱い息を吐き出した。

 

 すると、すぐ目の前のハグレ小屋の扉がぎいっと開けられて。

 

「あらあら、こんな所を訪ねるなんてどこのおかしな人かと思ったら、あなた本当に冒険家さんだったのねぇ」

 

 と言う笑い声と共に、見覚えのあるお婆さんがひょっこりと顔を出した。

 

「えっ? ……あ、あの! そ、そうです! 私です! え、えっと……あの、突然の訪問をお許しください」

 

 慌てて獣の上から頭を下げたパルムの隣、ディンはニヤリと楽しげに口の端を持ち上げた。

 

 グルを降りた二人がお婆さんの笑顔に招かれたのは、小屋の裏手の小さな窯の前だった。そこにいたのは、小さく丈夫そうな椅子に座った一人の老人。

 

「……誰だ?」

 

 ぼそりと、吐き捨てるような声が砂の多い地面にぶつかる。声の主はこちらに背中を向けたまま片手で火をいじっていた。小屋の中へと戻ったお婆さんが言うには、この人こそが『河の主』を作っている人なのだという。

 

しかし、伸ばした手の先でチロチロと燃える火に目を向けたまま、しわがれた声の老人は振り向くこともせず。

 

「……帰れ。俺は暇つぶしで忙しい」

「はっ。変てこな木細工を川に捨てる暇つぶしか?」

 

 決して友好的とは言えない老人の態度に合わせる様に、ディンの声もまたぶっきらぼうで。

 そんな無愛想同士の顔合わせに首を竦めたパルムが、相棒の視線に促されて彼の言葉を訳すよりも早く。

 

「……お前、ジオから来たのか?」

 

 ぐるりと振り向いた老人の顔には、長い髭。痩せた頬から伸びる真っ白な髭が顎の先まで垂れていた。それから印象的なのはその瞳、異様なほどにぎらつくぎょろっとした大きな黒い瞳だ。

 

「ああ。それがどうした?」

 

 ふん、と鼻を鳴らしたディンは、威圧するような老人の瞳を真っ直ぐに睨み返す。すると、慌てた様な小声と共に育ちの良い金髪娘が脇腹を突っついてきた。

 

「ちょ、ちょっとディンさん! 失礼にもほどがありますってば!」

 

「……ふん。で、冒険家なんぞが何しにきた? 俺は謝る気なんかねえぞ」

 

 パチパチと燃える火に目を戻した老人の背に向けて、ディンはひらひらと手の中の変てこな木細工を振りながら。

 

「別に、ただ気になったんで聞きに来ただけさ。『これはなんなのか』ってさ」

 

 そんな失礼少年の台詞ですらパルムはなるべく丁寧に訳そうとするも、またしても老人の声がそれを遮った。

 

「……知らん。街の奴に聞け」

 老人が喋るのは、アレリアの労働者と同じアレリア訛りのランビア語。

 

「聞いたよ。下らねえジジイが作ってる下らねえもんだって、皆笑ってたぜ」

 対するディンは、生粋のジオ語だ。

 

「そうか。それでお前達も笑い話を仕入れに来たってわけか」

 

 地図の上では隣り合う国でありながら、間に山脈を挟むジオとランビアの言葉は、本来同じ様で違う物だ。

 しかし、単語が似通う方言であるという事に加え、ぶっきらぼうで無愛想――よく言えば単調で簡潔な物言いもあって、そんな二人の会話が成立しているという不思議空間。その中で役目を失ったパルムシェリーは、無言で睨み合う男達の顔をハラハラと見守る係になった。

 

 そして、そんな睨み合いを止めたのは訪問者たるディンの方。

 

「なあ爺さん、この金髪看板娘が言うにゃ、冒険家ってのはさわりだけ聞いて『はいはい成程』ってわけにはいかねえんだと。だから俺達は聞きに来た。街の奴の噂なんかじゃ無く、あんた自身にさ」

 

 隣で『良い事言いますね、私』と頷くパルムをちらりと見たディンは、そんな二人を睨む老人に向かってくしゃくしゃと髪を掻いて。

 

「俺が見つけた変てこなもんを、相棒が気に入ってくれたんだ。頼むぜ、爺さん。若い男に格好を付けさせろってんだ」

 

 まるで観念して本音を吐いたかのように肩をすくめた元商売人に、老人はふんっと鼻を鳴らし再びくるりと背を向けると。

 

「……爺の話は長くなるぞ。それでいいなら中で待ってろ」

 

 と投げ捨てる様に言葉を吐いて、丁寧に火をいじくり出した。

 そんな彼の背で『ちょろいもんだぜ』と舌先を出したディンは、じろりと睨んでくる相棒の背中を押して小屋の入口へと戻るのだった。

 

「――人の善意に付けこむなんて、ディンさんは狡い人です」

 

 小屋の主を待つ四人掛けのテーブルにて。

 隣でぶつくさとむくれている金髪娘に、ディンはふんと鼻を鳴らす。

 

「うるせえな。善意だろうが悪意だろうが受ける側に残るのは結果だけだ。だったら向こうも『良い事してやった』って満足できる分、喧嘩するより良いじゃねえか」

 

「論点をぼやかさないでください。今私が怒っているのは、相手の背中で舌を出すようなディンさんの心のあり方ですので」

 

 腕を組みぷうっと膨らんだ相棒の白い頬を、ディンは戯れにペヒッと指で潰しながら。

 

「そのおかげで、俺達ゃあの爺さんの話が聞ける。毎日川を流れて来るへんてこ玩具の謎に早速一歩近づけるってもんだろ?」

 

「それはどうもありがとうございます」

「おうよ」

 

 言葉と裏腹に再びぷくっと不満を溜めた冒険家の頬をもう一度ぷひっと突き潰すと、パルムの青い瞳がじろりと動き。

 

「……もう」

 

 と小さな溜息を漏らし、すすっと上品に鼻をすすった。

 

 時間はまだ、組木造りの小屋の窓に暖かな日が差し込み始めた頃。台所らしき場所に立つお婆さんは、コトコトと朝食を作っていて。朝陽に輝く金色の髪の少女は、自分の胸にそっと片手を押し当てて。

 

「……私は、ずっと『善』というモノは道に迷った時に己の良心に従う事だと考えていました。他のどんな事情や怠惰や正義にすら負けることなく、『己自身の良心』に従って歩む事こそが『善』であるのだと。ずっとそうありたいと考え、今でもそうあろうと努めています。ですが、あなたは。私が出会ったディンさんと言う人は――」

 

 お得意の説教を始めた宗教娘は、呆れた様に、それでいて少し可笑しそうな笑みを浮かべて。

 

「己の良心に従って、歩みを止めた人でした。あるいは、間違った道を間違っていると気付いたまま足を止められなくなった人でした。当時の私には、それが正しい事なのか分からずに、ただ一方的に批判する事で精一杯でした」

 

 面倒くさい事この上なく、そんな風に至って真面目に、真っ直ぐにディンを見つめながら。

 

「ですが、今の私は、あなたの腕を引っ張る事が出来ます。指をさして道を示す事が出来ます。こうして、隣で頬を膨らませる事が出来ます。私の良心を、あなたの心に伝える事が出来るのです。勿論、いざとなったら思いっきりそのお尻を蹴っ飛ばしてやろうと思っていますけど。ですので、この淑女にそんな真似をさせないで下さいね、と。……とまあ、麗しの相棒からはそんな所です。何か反論や要望、ご意見などはありますか?」

 

 いたずらっぽい瞳で覗き込んできたパルムに、ディンは肩をすくめて。

 

「長いな。眠たくなるぜ」

「寝たら蹴ります。蹴って、起こして、次こそは手短にお話させて頂きます」

 

 半眼になった金髪女に、ディンは苦笑で答えつつ。

 

「分かったよ。分かった分かった」

「……何が分かったのですか?」

 

 相変わらずジトリとした青い目に、ニヤリと笑いながら。

 

「俺は、ケツを鍛えて置く」

「成程。では勝負です。私の足かディンさんのお尻、どちらが先に壊れるか」

「ああ、望むところだ。冒険家のケツを舐めるなよ」

「そちらこそ、美しき冒険家の太腿を見くびらないで下さいね」

 

 腕組みをして睨み合う二人の前に、ふいにコトリと。手袋をはめたお婆さんの腕が、野菜がたっぷり入った優しい匂いのお鍋を置いて。

 

「ふふふ。二人はなあに? 若夫婦なのかしら?」

 

 美しい皺が刻まれた彼女の微笑みに、パルムはぱちくり目を瞬かせ。

 

「あ、いえ。ええと、私達は単なる冒険の相棒であり、そういう関係に至ってはおりません」

 

「あらそう。うふふ。ごめんなさいね。お節介なお婆で」

 

 頬に手を当て上品に笑う彼女に、パルムは『いえいえ、とんでもありません』と手を振りながら。

 

「こちらこそ、突然お邪魔してしまい、申し訳ありません」

 

 椅子に座ったままで深々と美しく頭を下げ、それから『あっ』と気が付いて。

 

「あの、私、お手伝いします! こう見えて配膳は得意なのです!」

 

 と言って立ち上がり、遠慮するお婆さんの隣を踊るように歩き出した。忙しい奴め、とその背を見送っていたディンが、

 

「んじゃ、俺は――」

 と立ち上がりかけると。

 

「駄目です。ディンさんはそこにいて下さい」

 

 凛と刺さった視線と言葉に身体を椅子に押しとどめられたディンは、軽く肩をすくめて。

 

「なんでだよ。俺の相棒が飯を運んでくるってのに、こんなとこに座ってたら危ねえじゃねえか」

「危険はありません。自慢じゃありませんが、このパルムシェリー、最後の三日間は一度もスープをこぼしておりませんので」

 

「その前の日はスカートを踏んでコケてたけどな」

 

「あれは私の足に対して裾が長すぎたのが原因です。加えて今日はいつの間にか引っかかっているでお馴染みのエプロンの紐もありません。よって万全、万全です」

 

 まるで武闘大会決勝戦に挑む闘士の様な声と表情に、頬杖を付いたディンはそれを送り出す好敵手の様に頷いて。

 

「わかった。んじゃ、必ず無事に戻って来い」

「ええ。ですが万が一お爺さん達にこぼしそうになったら、身を挺して守って下さいね」

「任せとけ」

 

 そして。労働者向けレストランの元看板娘の手によって至って無事にテーブルへと運ばれた朝食を、お爺さんを交えて四人で黙々と食べ終わり、終始笑顔のお婆さんが『どうぞ』と用意してくれた紅茶が辺りに湯気と果物の甘い匂いを立て始めた頃。

 

「……あれは、河の主だ」

 と、それまでっずっと黙っていたお爺さんが、唐突に口を開いた。

 

「俺が、昔、ガキの頃に。間違いなくこの目で見た、あの河の主なんだよ」

 

 言って、しわがれた声を潤す様に、彼はお婆さんの紅茶を僅かに震える手で喉に流し込んで。淀むこともよれることも無く、話し慣れた物語を語る様に『あれは何か』を教えてくれた。

 

 何度も何度も誰かに向かって語ってきただろう思い出話を、人里離れた山奥に暮らす老人は、髭に覆われた口元と指先を震わせながらゆっくりと。

 

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