第5話 不安と焼きもち、明日の予定。

 その夜、いよいよ明日の朝に迫ったカズアール遺跡探険に向けてまとめた荷物を机代わりに、いつもの様に日記を書いていたパルムシェリーは、書きつける程に己の内側をぞろぞろと撫であがってくる不安が堪らえ切れなくなって声を上げた。


「ああもうっ! もうもうっ! ディンさんは馬鹿ですっ! バカバカバカッ!」


 突然にぺしっと飛んで来たペンと罵声に驚いたディンは、床の上の寝袋の中から、ベッドの上でご乱心な相棒を振り返る。


「……何だよ?」


 しかし相棒は不満をたっぷり溜めた頬でディンをじとりと睨みつけると、ぷいっとベッドにひっくり返ってしまう。


「なんだって」


 宿に戻ってきた当初こそ、美味しいお菓子と美人女優とそして何より明日から始まる冒険の予感に機嫌よく『取材』と称した質問をしつこく繰り返していた彼女であったが、ディンがそれに答えているうちにだんだんと機嫌が傾いて来てしまったのだ。


「言っとくが、俺は嘘はついてねえからな」


 文字を覚えられないディンには、憧れのティッパーフィールドの様に己の冒険を世に知らしめる冒険譚を書くことができない。なので、パルムシェリーが綴った二人の冒険譚は、彼女が書いた内容をディンに確認するという事になっている。その際に、『嘘を吐かない事』と『嘘を読まない事』と言うのは、二人の間で決めた最初のルールだった。


 だからディンは正直に答えたし、聞かれるままに教えたのだ。


 あの金髪ド美人女優メンチ・ヴィクトリアと、そのお供であった好々爺とを光の海に渡した時の事を。


「…………別に、そんなんじゃありませんし」


 無理な日程の依頼を跳ねのけ、それでも『絶対に芝居に必要なのだ』と食い下がるメンチにそれなりの値段を吹っ掛けた事。爺とジェシカの折衷案で依頼を受け、どこぞの王女様を渡した時と同じ秘密のルートを辿って光の海を目指した事。その途中で、女優の香水に興奮した獣をやむなく狩った事。


 直接世界遺産である『海』に足を踏み入れる事は固く禁じられているので、プエラトの街へとソリを使ってくだり、そこから崖の上へと上ったこと。道中、今度の式祭で『ジオの王女の恋物語』のヒロインを演じる予定らしい金髪我儘お嬢様に、ディーノと言う男についてあれこれと尋ねられて嫌気がさした事。

 女優根性で着いて来た女を半ば強引に押し上げてなんとか絶景のポイントに辿り着いた時にはもう明け方で、ギリギリあの光の海を見られた事。


 彼女がそこで歌いだしたとんでもなく綺麗な歌の事。

 天国っていうモンが本当にあったならきっとこういう風なんだろうと思った程に、夜明けの月に煌めいたメンチのダンスと爺が弾いた伴奏の事。


 見所があるから移動劇団に入れてやると言われたが、台本など読めるわけがないので『うるせえ』と一蹴した事などなど。今思い帰しても笑えるようなあの月夜の出来事を、出来るだけ詳細に、正直に。


「じゃあ、なんで怒ってんだ?」

「怒ってません」


 言って、パルムは寝返りついでにじろりとディンを睨み付け、再びくるりと向こう向き。


 ディンは溜息。


「……あのな、言っとくけどあの道を渡したのはあんたが初めてじゃないし、もちろんあのド美人様が最初って訳でもねえ。それこそ俺はいろんな女をとっかえひっかえあの海に――いって!」


 ニヤリと笑った言葉の途中、投げつけられた光写機が顔にぶつかる。


「不潔です! これは成敗! 成敗ですねっ!」

「うるせえな、別に何もしちゃいねえって。客だぞ、客」


 苦笑と共に首を振ったディンに、パルムはむすっとしたまま身を起こして。


「……それと。言っておきますけど私は別にディンさんに焼きもちなど焼いておりませんので」


「ああそうかよ、そいつは残念だ」


「ふんです。と言いますか、私は別にどうでもいいんです。このあてどない旅の途中で我が相棒がどこの女狐とよろしくやろうが、知ったこっちゃありませんし。そうです、全然、別にいいんです。そんな破廉恥なお話なんか、私の冒険譚には絶対載せませんし。勿論、この私の前でそんな淫らな話をした日にはそれ以降の物語はディンさんの血文字で綴られることになりますけれど。それでも決して、私のこの気持ちは焼きもちや嫉妬ではありませんので」


「そうかよ」


 腕組みをして顎を持ち上げた相棒の姿に、ディンは苦笑する。

 本当の事を言えば怒るし、言わなくても怒る。それじゃあ何をどうしろと。


「だったらなんで怒ってんだよ?」


 堅いベッドの上で、パルムシェリーは全身で溜息を吐いた。


「ですから、怒っていませんってば。まったくディンさんはしつこいですね。だからモテないんですよ。そうですよ、ディンさんなんかがメンチさんに好かれるわけありませんし。身の程を知りやがれですよ。というか、本当に私は怒ってませんし。私は、ただ――」


 言葉の途中、ふっと灯が消える様に声を落としたパルムは、その胸をそっと両手で押さえて。


「……ただ?」


「――ただ、きっと、不安なんです。多分そんなことはあり得ないとは分かっているのですが、少しだけ。少しだけ、何故か急に不安になりました」


「…………なにがだ?」


 そのまま月の光に溶けてしまいそうな彼女の姿に、ディンは思わず床の上から身を起こした。


 するとパルムは首を振って、自嘲に近い笑みを浮かべると。


「もしも私がいなくなっても、きっと貴方の旅は続くでしょう。でも、私はどうでしょうか? もしも……もしも――私の傍からディンさんが居なくなってしまったら……誰かが、ディンさんを取り上げてしまったら。どこかに隠してしまったら……私の冒険は、続かないような気がします」


 相棒が吐露した感情に髪を掻いたディンは、『……あー』と言葉を探して安宿の天井を睨んだ。


「まあ、なんつうか、逆だろ。案内板すら読めねえ俺じゃ異国の旅なんて到底無理だが、あんたなら上手くやってけるさ。世の中、そうそう悪い奴ばっかりじゃないからさ」


 慰めようと言った台詞に、相棒は『いいえ』と笑って見せた。


「それは違います。だって、私の代わりなど、いくらでもいます。ディンんさんには――あなたの冒険の相棒は、ある程度の言葉が喋れて、ある程度の読み書きが出来ればそれでいいのでは、と。でも、私には……私の冒険は、あなたが消えればそれできっと終わりなのです」


 それは、いつか、ふと。突然に。


 パルムシェリーの身体を包んでいる感情は、言葉にするなら『怒り』でも『嫉妬』でも無くて、『恐怖』に似ているモノだった。


 そして、楽しい冒険の始めの始め、最初の街の最後の夜に覚えたその『恐怖』は、身体に染みついた『孤独』と同じ匂いがした。


 湖畔の塔の隅っこで、一人ぼっちで本を読んでいたあの日々に。やるせなさに突然叫び声を上げてしまう様な狂気が、少しずつ身体の芯に馴染んでいくあの感覚に。


 きっと、この河の音とカビの匂いが思い出させるのだと彼女は思った。


 そう思って、ぼんやりと窓の外の月灯りを眺めながら、肩まで伸びた金色の髪をくすくすと震わせて。


「少し、寒いです」


 とディンに笑いかけて見せた。


「……窓、閉めるか?」

「はい。お願いします」

「……かび臭くなるけど、いいのか?」

「いいです。私は寒いんです」


 ディンはゆっくりと起き上がり、髪を掻きつつ窓を閉めた。

 月明かりに青く染まる街を見下ろし、ベッドの方を振り返ると、『ありがとうございます』と気丈に笑う彼女の唇が少し震えているように見えた。


 ――溜息。


 取材と称して何でもかんでも聞いて来るくせに、そっちは何も言わないのかよ、と。

 そうやって黙って肩を揺らしている女を見ても、こちとら笑っているか震えているのかも分かりゃしねえ馬鹿なんだよ、と。


「……ったくよ」


 苦笑と共に、ディンは寝床に足を向けた。そして。


「これ、何だと思う?」


 と言って月明かりに膝を抱いた金髪の横に《それ》を放り投げた。


「……何ですか、これ? お魚?」


 小さな木細工を手にして不思議そうに首を捻った相棒の瞳が、水に映った月の様に静かに揺れる。


 本当に面倒くさい女だな、とディンは笑って。割に合わねえな、と胸の内で呟きながら。


「言わなくて悪かったな。予定変更だ。明日は、朝一番で走竜を借りる」

「はい?」


 その玩具から漂う心地のよい匂いをすんすんと嗅いでいたパルムは、ぱちくりと相棒を見つめた。月と星の薄明かりの中で、黒髪の若者は真実の神でも騙そうかという様な悪い笑みを湛えながら。


「河の主なんだってさ、それ。あの髭職人に聞いて来た」

「……主? 河の? はい? これが?」


 きょとんとするばかりのパルムの瞳の中で、彼はくしゃくしゃと髪を掻くと。


「ああ、なんつうか、まあ、アレだ。俺には行ってみたい場所があるんだよ。まあ、なんだ。明日も明後日も、その先も。あんたと、さ」


 それだけ言ってごろんと横になった彼の背を見ながら、パルムシェリーは二度三度と瞬きをして。それからくすくすと肩を揺らすと。


「ふふふ。今の台詞はイマイチです。そう言う格好いいのは、もっと素敵にお願いします。ばふ~、しどろもどろで、ディンさんはかわいいですねっ」


 笑った少女を肩越しに睨み付けた相棒は不満気に。


「うるせえな。ホントは明日驚かしてやろうと思ったんだからな」


 安宿のかび臭い天井に向かって苦笑して。


「えへへ。あのあの、ディンさん。少し窓を開けた方が良いですよ、このままでは明日が来る前にかび臭くて死んでしまいます」


 とふざけた少女には、


「へいへい、あんたが死んだら、俺は困っちまうからな」


 と笑って、素直に窓を少し開けてくれた。


 その横顔を見つめながらベッドにこてんと倒れたパルムシェリーは、しずかにそっと目を閉じた。枕の上に乗せた変てこな玩具から染み出す清潔な甘さの香りを、とても心地よく感じながら。

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