新しい日々へ
第27話 新しい日々へ
二 新しい日々へ
ペステリア歴 二百六十六年 六月二十三日
太陽がゆらゆらと踊り出すような良く晴れたその日に、パルムは乗合の自走車に揺られていた。翻訳の仕事を始めて一月と少し、専門用語と格闘し辞書とにらめっこをしながら訳した一冊の医学書と、西方で子供に人気のある絵本の原稿の写しを抱え、北の学術都市ガリアーノから一路王都へ。朝一番の便に乗って森を行くと、昼前にはジオまでの距離を示す立札が見え始めた。当たり前だが、自走車は速い。なにせ竜車で向かった行きの半分、奮発した甲斐があると言うものだ。
王都が近づくにつれて何だかそわそわしてきた彼女は、始めての給料で買った手鏡に向かって前髪を持ち上げてみる。
(うん、結構いいかも)
密かに気になっていた額の傷が、ほとんど目立たなくなっていた。仲良しのリリアという娘がお勧めしてくれた白粉の効果を実感してこくりと頷く。何度目だろうか、手にしたバッグの中を何となく確認。原稿良し。お金良し。二泊分の着替え良し。それから、一番大事なレイシア様の手紙も……手紙も……………あった!
何を隠そう今回の訪問は、初めて貰った長期休みを利用して王都に遊びに来ないかと誘われたものなのだ。
それも、レイシア様直筆のお手紙で。
新聞社で働くリリアには色々と勘ぐられて困ったけれど、その追及をかわすのも何だかちょっと楽しかった。
パルムシェリーとして歩き出した新しい生活は、何もかもが順調で、驚くほどに楽しくて。仕事の方も休み明けに本契約を結んで貰えそうだし、寮の中には友人も出来た。少しずつ街の人とも交流が出来て、いつか旅に出るためのお金も知識もためてある。
それもこれも、あの渡しのおかげなのだ。
話したいことがたくさんあって、どれから話そうかと考えただけでわくわくする。
やがて、ガタンと大きく車が揺れて、王都の古い町並みの中で窓の外の景色が止まる。
懐かしい石畳に降りた少女は、急ぎ足で街外れへと向かった。
一月前の小さな冒険の支払いを今日まで待ってもらっているのだ。どうしても、自分で稼いだお金で払いたいと思ったから。だから、今日の訪問は彼にも手紙で告げてあった。
『昼四つ、女一人、とにかくおいしいものを』
色々考えた挙句たったその一行だけの手紙になってしまったので、返事は寄越してもらえなかったけれど。彼の事だ、きっとタダ飯に釣られて待っているに違いない。
いくつか曲がり角を間違って、迷いかけてしまいながらも、パルムはその店の前に辿り着いた。ほんの一月前の遠い昔の様な出来事が、胸の内に蘇る。
あの時は、何もかもが必死で、祈るような気持ちで開け方も知らないドアの前に立っていた。それとは違う気持ちで同じ様に呼吸を整え、洒落た木造りの扉を開ける。
カラリンと言う懐かしいベルの音が少し暗い店に響いて、眠たげな店主の声が聞こえた。
「あら? いらっしゃい。随分かわいくなったんじゃない?」
「あ、いえ……えへへ、ちょっと最近食べ過ぎちゃって」
「あはは、あんたの場合もう少し食べなきゃだめだって。せっかくの美人なんだから、男を惑わしてなんぼでしょ?」
氷の入ったグラスを揺らし、色っぽくカウンターに突っ伏したジェシカはくすくすと笑う。何故だか妙に寂しいガランとした空気が店を満たしている事に気が付いて、パルムはぎゅっと荷物を抱え直した。
「ええと……あの、ディンさんは?」
「あはは。やっぱりそうか、もしかしてあの小生意気なお姫様の差し金かい?」
「え? はあ……ええと……どういうことですか?」
眉をひそめて伺うパルムに、ジェシカはくすくすと笑い続ける。
「ふふふ、いいじゃないか。どうだい、一杯?」
「……はあ、でも私、お酒というものは――」
天井近くに作られた小さな窓の日が、気怠く掲げられた琥珀色のグラスを通り抜けて。
「ふふ……ねえかわいいお嬢ちゃん。覚えておくといい。商売人の口ってのは、積んだコインの高さだけ開くように出来てるのさ」
まるで目の前のお酒に語り掛ける様な彼女の言に頷いて、パルムは恐る恐るカウンターの隅へと歩いて行く。
「……ええっ、と」
そこは、この店に初めてやって来たあの時に乾いた少年が座っていた席だった。意を決してそこに腰を下ろしたパルムは、メニューを探して店を見回した。
カウンターの向こうには、色とりどりの酒瓶と、それに負けぬほどに男を酔わせる美貌の女性。振り返れば、来客を告げる小さな鐘の着いた洒落た扉。あの日、彼はここで扉の前の自分を振り返っていた。背中を丸めて、ちびちびとグラスを舐めながら。そして、それから――。
木造りの壁を飾る幾つもの花環を眺めたパルムの目が、手近な一つに吸い寄せられた。
「……あ」
思わずその花環に手を伸ばしかけた少女の前に、コトン、とグラスが差し出される。
「おっと、お嬢ちゃん。それに触るのは御法度さ」
びくりと身体を縮めた少女は、すぐ向かいにやって来たジェシカの顔を窺いながら。
「……あの、でも、これは」
横目で見るのは、少しくたびれた感じの赤が目立つ花環の内側に挟まれた二通の便箋。品よく上質な王家の紋入りの招待状と、その手前にある見覚えのある小さな花柄の封筒。そのどちらもが、ぴたりと綺麗なまま。
「私が、出した手紙………」
安物だけれど、それなりに一生懸命に選んだ便箋だ。それが、封を開けられた様子も無くこの店にある――。
空回りした指に、扉を開けた時に感じた寂しさが絡み付く。
少女は、それをごまかす様に温かなミルクの入ったグラスを抱えた。
「ああ、そうなのかい。でもね、そしたらそれはもうあんたの物じゃない。手紙だろうと花環だろうと、どんな思いを込めたって。言葉っていうのは、この身体を離れた途端自分の物じゃあなくなっちまうんだよね」
くすりと笑いながら、女店主は再びグラス越しにパルムを眺める。水面が揺らぐたびにふにゃふにゃと変わる彼女の顔が、少し面白かった。
「だからきっと、み~んな苦労してるんだ。何しろ自分の心と口がまず遠くて、相手はそれより遠いんだから当り前さね。ちょっとした行き違いで喧嘩になるのが、酔っ払いの常ってもんさ」
くつくつと笑い、カウンターにしなだれかかる彼女の目が琥珀色の液体一杯に広がって。その大きな目に見つめられたパルムシェリーは、視線をあちこちに彷徨わせながら。
「えと、えと、それで、あの……ディンさん、は?」
ジェシカは少し笑った気がした。
「もう、ここにはいないよ」
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