第26話 幸せな夜

 淡白い月明かりが、森の中を行く白いドレスを柔らかく浮かび上がらせる。


 彼の首筋に腕を回し、走り続ける夫の横顔をまじまじと見つめていたレイシアはふいに甘く呼びかけた。


「ねえ、フリオ。愛してる」

「? なんだ、急に」


 初めて聞くその言葉に、夫は照れたような表情で真っ直ぐ前を向いて笑っていた。


「ふふ。だって、心配なんじゃないかと思って」

「何がだ?」

「だって、さっきのディンってば、昔みたいな顔してたじゃない? 昔、私があいつに惚れてた頃の」


 いたずらっぽく笑う妻に、夫は苦笑。


「そういうことか。確かに、昔みたいに無茶しそうな顔だったが……俺の方が良い男だ」

「あはは、そうね。うん、本当に、良かったわ、あなたが超格好良くて」


 そう言ってレイシアは夫の頬に口づけを。


「なっ! 急に、何を!?」


 くすくすと笑ったレイシアは、揺れた夫の首にしっかりと腕を巻きつけて。


「助けに来てくれてありがとう。これからもよろしくお願いね」


 ふふふ、と照れ臭そうに微笑みかけた。


 そこで彼女は、夫の走る道のいたるところ、ちょうど目の高さ辺りに小さなきらめきが流れていくのを見つけて首を傾げる。


「ねえ、フリオ」

「なんだ?」

「光ってるわよね、これ?」

「ああ。そういえば」


 ふうんと考え込もうと顎に手を当てかけたレイシアは、その手をそっとあるべき場所に戻した。

 だって、今夜位は頭をからっぽにしたって良いんじゃないかと思ったから。


「ねえ、これって、やっぱりあいつの仕業なの?」

「そう思う。プエラトに行く道の途中からあっちこっちの木に塗りつけてあった」

「成程ね、それでフリオが来てくれたってわけか」


 納得した王女は、瞼を閉じて思い出す。


 かつてこの森で三人が良く遊んでいた頃、あっちこっちにこの花を植えていた彼の事を。自慢の手作りの地図に書き込んだヒカリバナが輝く場所を表す印が、少しずつ伸びて行って一本の道になるのを楽しそうに眺めていたその横顔を。


 光の海から森を横切り、うねりを描いて南へと続いて行ったあの道の先で、彼はきっと本当に宝物を見つけたのだ。


 それは、いつの事だったのだろう。

 その時、あいつは、どんな顔をしたのだろうか。


 何かを何処かに求め続けていた友人の、いつからか見られなくなった笑顔の続きを思い描いた王女に、夫の優しい声がかかる。


「レイシア」

「なあに?」

「プエラトは、ディンを売ったのか?」

「あらあら、未来の王様らしくない言い草ね。裏切り者ディンを売ったのはプエラトじゃないわ。そこにいる、誰かさんよ」

「そうか」


 溜息を吐いた騎士は苦笑。


「レイシア、頼みがある」

「あら、珍しいわね、あんまりいやらしいのは駄目よ?」

「………ちょっとならいいのか?」

「さあて、それはどうかしら?」


 蠱惑的に笑う妻に、フリオは真面目に語りかけた。


「あいつが――ディンが出ていく世界を、少しでも良い物にしてやってくれ。あいつが、世界は素晴らしいって言ってくれるような場所に」

「そうね、あなたが側にいてくれるなら、頑張っちゃおうかな」

「俺で良ければ、いくらでも」

「永遠に?」

「永遠に」


 ぎゅっと、レイシアは抱きついた。


「大好き。」


 言葉で足りない分を、身体中で伝える様に。堰が切れた様に溢れてくる全身全霊の愛を込めて。



 ――その晩、民衆の前に三度に渡って姿を見せた王太子夫妻の姿に、ジオの民も観光客も皆一様に酔いしれて。彼らの恋物語に新たに加わった今日の出来事とそこにくっついた尾ひれと背びれを酒のつまみに、いつまでも騒ぎ続けた。中でも、フリオの生家である宿酒場アダンティアは大盛況で、店の外にまで酔客が溢れ返っているほどだった。


 そしてこの夜、扉の外まで人が並んだ店はもう一つ、街外れにある小さな酒場。


 美人店主を目当てに客が集まるその店に、今宵限りの見世物があった。


 それは、式の冒頭で王女が述べた悲しいお知らせ。


 新しい歴史の始まりに胸躍らせる民衆の元に、静かな瞳でその出来事を告げた王女の姿が運んできた、繰り返された苦い歴史の思い出と、一つの疑問――王女の両脇を飾る死者を送るための大きな大きな花環の横に添えられた、場にそぐわない色とりどりの小さな花。


 ジオの人間は、それが花ではない事を知っていた。


 それは、信じた相手に舌を出して笑う様な『嘘』を意味する偽物の花。


 死者を冒涜するような、決して並ぶことの無いその組み合わせに首を傾げていたジオの民に、やがて一つのうわさが広まった。


 街外れで色気を振りまく美人店主の店の片隅で、泥の様に眠る少年少女。


 国一番の渡しに寄り掛かるボロボロになった高価なローブをまとう見慣れぬ短い金髪の少女の名を聞くと、酔客達は大いに笑い、彼らの姿を一目見ようと長い長い列を作った。


 国中からその店に溢れた人々は誰も彼もが輪になって、二年前よりもずっと盛大に、新しい出発に幾度も幾度も乾杯し、思い出話に花を咲かせ、声が枯れるまで未来を語り合った。


 そうして、その幸せな夜は少しずつ皆の元で分け合われて朝になった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る