第23話 王女の剣
「レイシアアアアッ!」
裂帛の声と共に、色とりどりの花に囲まれた入口から猛然と走り寄る一陣の風。目の前に現れた光の壁を剣で砕き、ずどんとリオルの身体を吹き飛ばしたその風がしっかりと姫様の肩を抱く。
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないわよ。フリオが遅いから友達の顔に傷をつけられちゃったじゃない」
唇を尖らせた王女の言葉に、精悍な騎士はやや離れた白竜の元で腕に刺さったナイフを引き抜く殺し屋を睨みつけた。そうして姫様は、場にそぐわない程に呑気な声で。
「それと、ちょっとおっぱい触られちゃった」
「貴様あああ!」
次の瞬間、殺し屋の黒い剣に風がぶつかる。
ガキン、という剣が重なる音が消えるよりも早く、騎士の剣が男の脇腹を貫いた。血しぶきと共に剣が引き抜かれると同時、殺し屋の身体を包んだ白い光壁に騎士の身体が弾き飛ばされる。騎士はすかさず剣を横なぎに払って、光を砕いた。
騎士の身体が風に変わる。
そしてまた一方的に騎士が攻め、動きの重い殺し屋が必死で逃げる。決定的と思われる傷が何度も何度も殺し屋の身体に入り、真っ赤な血が海に流れる。その度に後ろに控えた白竜が鳴き、相棒を助ける。
素人目にも、騎士の剣は圧倒的だった。
「大丈夫?」
いつの間にか近くに来ていたレイシア姫が、少女の額の傷を心配そうに覗き込んでいた。
「え、あ、はい。……すいません」
「あら、謝ることなんてないじゃない。格好良かったわよ、旅人さん」
改めて言われた気恥ずかしさに、少女は姫様から視線をそらす。
「えっと、あの……冒険家です」
『旅人』は、ちょっと格好良くないと思った。
「ふふふ……あ、そうだ、紹介するわね。あそこで暴れてるのがあたしの彼氏で愛する旦那で愛しのダーリンな、絶対に折れない私の剣、フリオ君よ。愛する女のピンチには必ず駆けつけてくれるナイト様なの」
私の顔の傷より姫様のお胸の方を大事にする辺りが素敵なんだろう。
「………は、はあ……そう……ですか」
そしてさらりとそんな言葉を口にするこの王女様も大概だな、と少女は思った。
「だからね、私にはもう要らないのよ。私の肩にはいくつもの生活がかかっていて、側にはいつでもあの剣があるんだから、自分の喉を突き刺すためのナイフなんて、王女様には、もう要らないの」
ニヤリと笑う王女に見つめられ、少女はローブの上からポケットのナイフに触れてみる。
その、冒険のためのお守りを。
そして、突然に息が詰まる。
「ウッ……エ……」
声も出ない驚きと恐怖に目を見開けば、
「アグッ」
隣の王女も、同じ様に。
向こうでゆっくりと立ち上がるリオルのおかしな力に絞め上げられている。
ガラス細工の様に輝く両の腕輪を突出し、二人の首を遠い距離から掴んだ従者は眼鏡の奥の目を光らせながら。
「さて、これはさすがに旗色が悪い。というわけで殿下、あの騎士に我々を見逃す様に伝えてはもらえないでしょうか」
「う……ア……」
「ええ、勿論、ここで言う我々と言うのは『私』と『そちらの少女』です。あの男は結婚祝いに差し上げますよ。あの騎士様には及ばない様ですが、中々名の知れた殺し屋ですので、ジオの森で捕らえたとあればますます殿下御夫妻の求心力は増すことでしょう」
「バ……カ……」
苦しげな姫様の声が途切れ途切れに発される。
リオルは薄く笑って溜息を一つ。
「……ふう、これも日頃の修行不足でしょうか。私、これ以上お二人を絞め上げ続ける力は持ち合わせませんで。というわけで、殿下。どちらの手を緩めるべきか、あなたに決めて頂きましょう。世界に羽ばたくジオの王女か、何の役にも立たない王の娘か?」
少女の頭には血が上らなくなってきていた。耳の奥が嫌な音を立てる。目の前が、暗くなりかける。
そして。
「どっちも離せよ、蛆野郎」
頭上から響いた声と共に、少女の身体は地面に崩れた。
「ゲホッ……ゴホッ……ウェハッ……」
流れ込む酸素に咳き込み、チカチカと瞬く視界の中に、飛び降りて来る少年の影。
「! っ?………」
脇腹を押さえ、痛みをこらえる様な顔。
「ディン!」
名前を呼んだのは王女が先で。
「悪かったな。大丈夫か?」
少年は、こほこほと咳き込む金髪を振り向いた。
「だ、だい、じょうぶです」
喉をさすりながら少女は立つ。
そう、大丈夫。もう大丈夫だと。不思議と、本当に、そう思えた。
血の跡が残る少女の顔と、額の傷を見て唇を噛んだディンに少女は笑って。
「ジュラルド様が、格好良く助けてくれましたから」
「うるせえよ」
苦笑したディンはくしゃくしゃと頭を掻いて、ドレスを纏った王女をみやり。
「よう、レイシア、久しぶり」
「…………ええ、お久しぶりね。お仕事中かしら?」
「一つは無事に片付けたけどな。後でフリオのとこにビックリするほどの請求が行くから、気前よく払ってくれ」
「あら、そう。旦那がお世話になったみたいね。でもね、ディン。私のとこに届いてるのは、あなたがピスタティアの王女様を誘拐したって訴えなんだけど?」
「はっ、誰が好き好んで王女様なんかに手えだすか。寛大な処置をお願いするぜ」
「了解。旦那の方も勉強してね」
久しぶりの幼馴染の再会に、少女は胸を押さえて会話を見守る。だが、しかし。
「おい! ディン! 竜だ! 竜を頼む!」
何度でも傷が癒える男の死を恐れない刀に、少しずつ血を流し始めた騎士が叫んだ。
「馬鹿か。二秒で殺されるっての。お前が頑張れ」
「ちょ、話が違うぞ、お前が竜をなんとかするとだな……」
「お願いフリオ、頑張って!」
「わかった! 頑張る! うおおおお!」
王女の甘い声が響いた途端、騎士の身体を中心に光の花が激しく揺れる。
それを見た殺し屋の顔一杯に苦い笑いが広がった。
「ま、あいつは大丈夫だろ」
肩をすくめたディンは、竜の元で白い光に包まれる眼鏡の男に視線を投げた。
「……すげえな、あんた。竜用の毒をぶち込んだっつうのに生きてんのかよ。身体の芯まで蛆虫なんだな」
『いやはや、何せ日頃の行いが悪くてね。楽園の住人に突き返されてしまったようですよ』
ピスト語による男の返答に、ディンは渋い顔で少女を振り返った。
「おい、あいつ何て言ったんだ?」
「『いちゃいちゃしやがってこの馬鹿夫婦め、ぶっ殺してやる』だそうです」
「ははっ! そりゃいいな。分かりやすくて素晴らしいね。んじゃあいつに『蛆虫語はやめて、俺にわかる言葉で話せ』って言ってくれ」
「無理ですよ。さすがにあの人も猿の言葉は話せないでしょうから」
すました少女に、ディンは苦笑。
「……ああ、そうかよ。オイテメー、ジオ語デ喋レ」
「何でディンさんが片言で言うんですか?」
「うるせえな。何言ってるかわかんねえ奴は嫌いなんだよ」
敵を前にしてちょこちょことやり取りをする二人に、王女が噴き出した。
それを不快そうに眺め、リオルは片手についた無数の指輪をカシャカシャとなぞり光の配列を変えていく。
「……失礼。頭の中では母国語なのでね。切り替える余裕が無かったようだ」
「へえ、いろいろと大変なんだな。異国の奴も」
「まあね。それで一つ思いついたことが有るのだが、聞いてもらえないだろうか?」
「聞くまでも無いわよ。ディン、やっちゃいなさい」
形勢逆転とばかりに勝ち誇った王女の声を、リオルが笑う。
「いや、まさにそこなんですがね、殿下」
笑顔を浮かべたリオルが振った何気ない拳が、遠くのディンの脇腹をえぐる。
「にっ……!」
「もしかしたら――」
続いて、顎。もう一度、脇。
「ぐっ……」
「ディ、ディンさんっ! きゃっ!!」
駆け寄った少女の身体はドンッと簡単に付き飛ばされた。
「……てめえ」
脇腹の痛みを思い出し崩れた体を膝で支えながら、ディンは唸る様に声を絞り出す。
対するリオルはくいっと眼鏡を上げて不敵な笑顔。
「もしかしたら、その少年は、この私に触れる事すらできないのではないかと言う事です」
「………ディン……あんた、相変わらず弱いのね……」
溜息交じりに、レイシア姫は頭を抱えた。
「はっ、うるせえ。しょうがねえだろ、対竜毒を耐える人間が二人もそろってるなんて思うかよ」
「くく、そうでもないですよ。そこはやはり君の依頼主を救うために放った最初の一撃が要らなかったと言うべきでしょう。あれで、肉体的には常人の私は君が上にいると知ってしまいましたから。多少の解毒の
後ろで何度も死にかけている殺し屋を親指で示して、リオルは続ける。
「あの毒で向こうの戦局は大きく傾いたようですが、大局的に見ればあの一瞬の空白に君はその娘を助けるべきでは無かった。確実に私を殺しておくべきだった。ははは、称賛に値する隠気から全く無意味なご登場とは、さすがは自由を求め故郷を売り払った裏切り者ですね。実に中途半端な殺し屋っぷりでした」
ゆらりと上がった彼の手が離れたディンの首を掴み、その身を宙へと持ち上げた。
「……俺は……渡しだ……バ……カ……」
「おっと、これは失礼。そうそう渡しのあなたにはお礼を言っておかなければなりませんね。君があの娘を攫ってくれたおかげで、実にスムーズに殿下のご同行を願えました。ははは、これ程思い通りに事を運んでくれるとは、さすがは噂に名高いディーノさんだ!」
「……エ……ピ……」
言葉にならない声を上げ、首に纏わりつく光の輪を外そうともがきながらも睨み続けるディンに、リオルはぐっと鼻に皺を寄せて。
「くくく、ところでどうでしょう、あなた方『戦いの民』が守っていたはずのシェーラの矢について何か知っていると言えば、もう少し生かしてあげないこともありませんが?」
ディンは笑った。
「……どうだかな、それっぽいもんなら……知ってる、けど、よ」
「あははははは!」
哄笑と共に、吊し上げられた少年の脇腹にリオルの拳がめり込んだ。
「……ァッ……ト……」
歯を食いしばり、痛みを飲み込んだディンが再び上げた顔には悪魔の様な笑みが張り付いていて。
「これは愉快! さすがは裏切り者のディンさんだ! だが残念! 本当に知っていれば、レイシア姫はあなたの元を去ることも無く、次の国王はあなただったかもしれないのに!」
響き渡る耳障りな笑い声の中、花の上に倒れたままの少女は嫌だ嫌だと首を振った。
何が世界の頭だ。全てを知っているかのような口ぶりで、その実何も知りはしない。誰の気持ちも理解せず、誰の心をも無視したような奴らに、何が分かる。心を失くした頭だけの生き物に兵器を持たせるなんて、絶対に駄目だ。
なのに、何も出来ない自分が嫌だ。
何もかも、自分のせいなのに。
だって自分がいなければ、こんなことにはならなかったはずなのだ。
大人しく宿屋の部屋で寝ていれば、ディンさんが血まみれになることはなかった。レイシア姫が攫われて、心を傷つけられることもなかっただろう。あのまま外に出る事など願わずに、塔の中でさっさと死んでいれば、こんなページは書かれることはなかったのだ。
この土地に溢れる美しい光の様に、真っ白なままで、それで良かったのだ。
書くことを望めば、望んだだけ。ページはインクで汚れてしまうのだから。
声を上げる事すらできない悲しみと奥歯を噛み砕いてもまだ足りない悔しさと光と音が身体から遠ざかっていくような虚無感とが混ざり合った真っ黒な感情が、静かな青い湖の上にぽつんと垂れた。たった一粒で湖を黒く染め上げたその感情の名を、少女はまだ知らなかった。それでも、そこまでしても少しも揺れることの無い湖面こそが『絶望』なのだと理解出来た。
力無く落ちた少女の手が、ふとポケットの中のナイフに触れた。
指先が、ゆっくりとそれを掴みとる。何をためらうことがあるか。飛竜から飛び降りた時に、自分は一度死んだのだ。駆け引きの要である自分が死ねば、一気に不利となるリオルはこの場を引くだろう。そうすれば、これ以上彼が傷つけられることは無い。自分が言った言葉ではないか。短い冒険だったが、良き人生だったと。
あの軽薄な渡しが生きていたから、最後の心残りも、もう、大丈夫。もうたくさんだ。自分のせいで、未来ある彼らが傷つくのを見たくない。みじめな思いをしたく無い。これ以上、この世界が汚れていくのを見たくない。
だからせめて、最後の最後くらいは、誇り高き王族として。
震える手で白い柄を握り、取り落す様に鞘を外して白骨色の刀身を見つめると、どうしてだか笑みがこぼれた。
ああ、嫌だなあ、と。
小さく息を吸って顔を上げる。
孤独で暗い闇の中で過ごした長い時間に報いる様に、王女様が見た最後の世界は光に包まれていた。それは本当に、笑ってしまいそうな程に綺麗で、吸い込まれてしまいそうに怪しくて、とってもとっても優しい、真っ白な光だった。
そして、その中で、一生懸命に笑ったエチェカリーナは。
王女のためのナイフを、ぎゅっと両手で握りしめて――。
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