第22話 空しき命

「時間が無い様なので単刀直入にお聞きしますが『シェーラの矢』はどこにあるのでしょうか?」


「……さあ、聞いたこともありませんね」


 小首を傾げた王女の脇で、少女ははっと息を飲む。


 男が口にしたその言葉。『シェーラの矢』――それはピスト教徒ならば誰もが知る神話の中で、『空神シェーラ』が欺瞞の悪魔を滅ぼすために放った矢の事だ。


 誰かの作り話であるはずの神話の中で、己の命と引き換えに放たれた矢の名前。


 それは、この場で一体何を意味しているのか。


 それを得るために、自分もここへ連れて来られたのだろうか。

 何の力も持たず、何も知らない自分が、何のために。


 リオルの冷たい目に睨まれて、少女はごくりと唾を飲み込んだ。


「我々の調査により、この地には不可思議な地脈の流れが認められています。その証拠とばかりに、この地でのみ輝く不思議な花もございます。ですから、我々はこの国に偉大なる古代遺物アロージェがあるのではないかと考えております、殿下」


 静かに笑顔を上げたリオルに対し、王女はじっと冷たい目を向ける。


「私は存じ上げないと申し上げたはずですが?」

「そうですね。そう仰ると思いまして、今日は手土産を用意しました」

「ふぇっ!?」


 黄金色のリオルの腕輪が外套の下から伸びた瞬間、少女の肩がぐいっと見えない何かに掴まれた。


「エチェカリーナ・フォン・ピスタティア。八王家が盟主、我がピスタティアの王族であらせられ、その境遇は痩せた体躯とこの現状を見て頂ければお分かりいただけるかと」


 驚く間もなく、ドン、と投げ捨てられるようにして吹き飛んだ背中が、今度は殺し屋の胸に抱き止められた。


 背中からゆっくりと巨大な塔が倒れてくる様な重圧に、少女の全身が緊張する。


「彼女を、離しなさい」


 怒気をはらんだ王女の言葉に、足元に敷き咲く花が揺れた。


「この歳ながら多くの言語に明るく、非常に聡明で芯の強い、敬虔なピスト教徒でいらっしゃいまして――」


 何の感情も無いような柔和な眼鏡の従者の言葉に、少女の身体が震えだす。


「――真に、死ぬには惜しい方であるかと」


 首筋に押し当てられた鋭い死の感触が、少女の胸の内までを凍らせる。


「どういうつもり?」


 怒りに震える王女の声も、一枚幕を隔てた様で。

 まるで現実感の無い幻想的な舞台の上で、リオルは踊る様に言葉を紡ぐ。


「ご覧の通りですよ、殿下。嘆かわしい事に、彼女は今日、この森で、その行方を知る者がいなくなるという事です」


 背後に立つ殺し屋の無機質な気配に、首筋に食い込む刃に、少女の呼吸が荒くなる。


「時代が違えば名君となったやも知れぬ彼女ですが、残念ながら生まれながらのその権力は必要とされず、故にその生を望まない者が多くある様なのです」


 芝居がかった口調で小さく首を振ったリオルに、レイシアは声を震わせて。


「ふざけないで。その子はジオと関係無いわ。彼女は、あなたの主君なんでしょう?」


 薄ら笑いすら浮かべたリオルは、クイッと眼鏡を押し上げて王女の怒りに言葉を差し込んだ。


「残念ながら、殿下。私が仕えているのは偉大なる理想であり、ピスタティア王家にも教会にもそれはありません」

「戯言はいい! 早く彼女を離しなさい!」


 ピスタティアの従者は、神妙な面持ちで大げさに頭を下げた。


「殿下。私はあなた様の命を拝する騎士でもありません。彼女を生きながらえさせるためにあなたに出来る事はただ一つ、この国に存在する危険な古代遺物アロージェの在処を述べる事だけかと」

「ふざけないで! こんなことが認められるわけないでしょう」


 レイシア姫の剣幕を、リオルはふふふと笑いながら。


「申し訳ありませんが、殿下。すでに申し上げた通り、私はただの駒にすぎませんので。ですので、もし貴女様が後で国際法廷に訴えるとおっしゃるのであれば、ご自由に。ジオの王家の訴えであれば、さすがに十年もあれば判決が下るのではないでしょうか」


 いかにも事実を読み上げているだけだと言わんばかりに、淡々と告げる。

 怒りに肩を震わせたレイシアは、拳を握り、目を見開いて。


「それが……そんな出鱈目が、あなた達のやり方だって言うの……?」


 真っ直ぐに目を見つめられた眼鏡の従者は、貼りついたような笑みを崩さずに。


「ええ、そうです。我々は、その正義のために持てる力を十二分に行使致します。国際法廷も、仇為すものに突き立てるための牙として」

「黙りなさい! 何が正義よ! 女の子を一人殺そうとしておいて、何を騙るかこの外道!」


 怒りの行き場を探す様に、レイシアの両手が空を薙ぐ。

 瞬間。

 リオルの憐れむような瞳が、身体を固めた少女を捉えた。


「っ……!」


 右眉の辺りに、微かな痛み。思わず閉じた瞼の上に血の感触。恐怖に、声すら出ることなく。


「やめなさい!」


 悲鳴に近いレイシアの叫びが、びりびりと少女の鼓膜を震わせる。


「……茶番は仕舞いにしましょう、殿下。我々が『シェーラの矢』と呼ぶのはつまり、古代戦争で使用された強力無比な魔導兵器の一つです」


 そこで言葉を切り、じっと王女を見据えたリオルは。


「貴女方がそれを何と呼ぶかは知れませんが。持っているのでしょう? 天上の神すら滅ぼす《シェーラの矢》を。そんな物を一つの国が持つのは大変に危険です。ですから、我々自らがそれを管理する事が決定されたのです」


 眉毛の下からこぼれた血が少女の右目に流れ込んで、一瞬視界が赤に染まる。それはまるで花の光に照らされた純白のドレスに血が掛かった様に思えて。


「そんな物が……本当にあったとして。それを、あなた達に渡せと? 管理? 決定した? ふざけないで。『我々』ってのは、一体どこのどなた様なのかしら?」


 ジオの王女の震える声が、低く響く。

 再びにこりと笑ったかつての従者は。


「この世界を一つの生き物と見た時にその頭にあたる存在と言った所でしょうか。全ての物の幸福のために我々が考え、身体を動かす。そういう風に理解して頂ければ幸いです」


「……何を――」


 王女の目に、嫌悪と、怒りが込み上げる。


「お鎮め下さい、殿下。ここで私の様な者と議論したところで何も変わりません。どうか、勘違いなさらずに。我々は、『あなた方がシェーラの矢たるマギアを渡さなければ、その少女が死ぬ』と言っているのではありません。『それを渡した場合のみ、ピスタティア王女は生きられるかもしれない』と言っているのです。殺すのは我々、悪いのも我々。ですが、殿下。あなたはそれを救う事が出来るのですよ」


 諭すように告げたリオルが笑う。


「我々としても、事を荒立てたくはないのです。私が見聞した限り、ピスタティアと言う国には貴族を筆頭とした王権派の人間が多くおり、前国王の死ですら色々と嗅ぎまわっている様でして、まるで弾ける寸前の風船の様です。ピスタティアほどの国が内戦に溺れていくのは良いことではありません。そこでその風船に対する針となる彼女には、遠く離れた国の危険な森で、自然に命を落としていただくことになりました」


「……エチェカリーナの死は《決定》しているとでも言いたげね?」


 怒気をはらんだレイシアの問いに、リオルはいたって軽く頷いた。


「ええ。誰であれ、生まれたその日から死ぬ事だけは決まっております。あとはそれがいつになるのか、いつにするのか、ということです。それが偶然、ジオという国にとって良き日に重なってしまった事は、大変に心苦しいのですが」


 まるで恋する乙女の様にきゅっと眉毛を下げたリオルが、からりと声を明るくして。


「どうでしょうかレイシア殿下。ほんの心当たりでもいい。今夜、この森が再び暗殺の場となる事をあなた方は防ぐことができるのです。国を閉ざす事を選んだあなたの御祖父とは違い、世界連合への加入を果たした今、身を守るための兵器など必要ではないでしょう――それに」


 リオルの顔から、作り物の様な笑顔がすうっと消えた。


「おめでとうございます、殿下。たった今、『我々』はジオの世界連合への加盟を祝し、『遺物』がこの世に存在するという秘密を他ならぬ貴女様に告げました。以降、どんなにとぼけたところで『古代兵器を持っているかもしれない』『それを実用化しようとしているかもしれない』と言う疑いが、世界に羽ばたくジオの足を引っ張ることもありましょう」


 言って、眼鏡の従者が静かに瞳を少女の方へと差し向ける。


 ピッと、左の目の上を鋭い痛みが走り抜ける。そしてトロリと、少女の目尻を生温い血が流れ落ちた。


「やめろって言ってるでしょう――っ!?」


 聞こえたのは、竜の鳴き声。


 激昂とともにピスタティアの使者へと掴みかかった王女の身体が、見えない壁に弾かれて輝く花の上に転がった。


「……な?」


 怪しげな術に警戒の色を強めた彼女の正面、呆れた様な顔を浮かべたリオルが言う。


「いい加減にしていただけませんか、レイシア・ピエルタ殿下。あなた個人の感情など、どうでも良い事なのです。ジオの王女としての決断を聞かせて頂きたい」


「知らないわよ! そんな物の在処なんて、私が知ってる訳がないじゃない!」


 張り裂けそうな王女の声が、乱れた少女の呼吸を速めた。


 何か言わなくてはいけないと思いながらも、頭が動かない。息を吸う度驚くように引き攣る肩が、肺が、言葉を身体の底へと押さえつける様で。腕は震え、頬をつたう血を拭う事すらままならない。


「馬鹿じゃないの? あんた達、そんな伝説本気で信じてるわけ? そんな物を手に入れて、一体何をしようってのよ! 狂ってる、あなた達は狂ってるわ! とにかくあの子を離しなさいっ!」


 甲高く叫んだレイシアが、少女を指差す。

 王女の視線が少女を捉えたのを確認し、リオルの顎がくいっと上がる。


「っ……」


 少女の額を、殺し屋の指が強くなぞった。そこから溢れた血が、高い鼻に割られて震える唇に流れ込む。


「知らないのであれば、教えて差し上げましょう。国を閉ざして以来、先代の国王であった貴女の御祖父は、幾度も谷と呼ばれる南の地へ兵を派遣しておりました。表向きには蛮族を討ち滅ぼすため、真実、異国の力に対抗する武器を求めて。私がピスタティアに住んだ様に、この国にも古くから我々の耳と目があることをお忘れなく」


 目を見開いた王女が、大きく息を吸い込んだ。


「国王の座を息子に譲り、時代が開国へと大きく傾いた後でも、彼はその力にご執心でした。谷からはぐれた野良犬を飼い馴らすため、美しい孫娘を利用する程に」


 その言葉に凍り付いたように息を止め、俯き、奥歯を噛みしめる王女の姿に、少女の胸が握りつぶされたかのように痛む。


「違う。私は、そんなんじゃ――そんなんじゃ。ない」


 しかし、絞り出された王女の声にもリオルはただ笑顔を浮かべるだけ。


「そうですか。ですが、見事あなた達が邪魔者を討ち滅ばしてくれて以来、我々の調査団がどれだけ探し回ってもあの谷に何も無かったのもまた事実。この場合、誰かが奪ったのだと考えるのが自然でしょう?」


「……最初から、何もなかったとは考えられないの?」


「それでは、あまりに空しい命」


 その声が聞こえると、少女の喉に冷たい刃物がわずかに食い込んだ。


 泣きたいほどに怖いけれど、少女はそれを必死でこらえる。


 リオルの言う事が正しいとするならば、きっと良くない事になるに決まっている。一つの神様の命と引き換えに悪の神を討ち滅ぼしたとされる『シェーラの矢』。それ程強力な兵器を、人が持つことは許されない。


 今よりずっとすごい魔導機関を誇り、栄華を極めたはずの古代文明ですら記憶の彼方に滅んだように。

 いつだって、人が神に挑もうとするお話は恐ろしい結末を迎えるのだから。


 ――そうして、全てを失った人は一人ぼっちで呟くのです。『嗚呼、自分は神にすら望まれていなかったのだ』と――


 子供心にすごく怖かった一節を思い出す。自分が誰にも望まれていないと言うことは、あまりにも孤独で恐ろしい。母が死んでからの生活は、ただひたすらにその孤独との闘いだった。誰にも望まれないのなら、自分が自分を望もうと。すがる様に、旅に出る自分だけを思い描いて。


 それでも、物語の中と違って王子様も勇者様も助けに来てはくれなかった。どこにも、自分自身を思ってくれる人はいなかった。それどころか、開かない扉の向こうにいたのは、優しい笑顔の死神だった。


 だけど、きっと、大丈夫。


 少女は、胸の内でこの数日の出来事を思い出す。


 従者を欺いたつもりの、秘密のメッセージ。強引な酔客の誘いから抜け出した窓辺の闇。渡しと歩いた夜の森。恥ずかしい位に子供じみた世界の謎。少しずつ分け合った互いの秘密。くだらなくて楽しいお喋りと、必死で逃げた大きな獣。街を見下ろした時の痺れるような感動。丘を下った二人乗りの気恥ずかしさと安心感。びっくりするほどおいしい ご飯。お墓の前の――次の旅の約束。


 名前も呼べない異国の男と廻った、外側の世界。

 夢にまで見た、光の海。

 本当に、夢みたいな時間だった。


 だから。だから、もう。


「大丈夫です!」


 目を閉じたまま、少女は叫んだ。口の端から血が流れ込んで、何だか変な味がする。


「そんな寝ぼけた奴の言う事聞かなくていいです! レイシア様はレイシア様の思う様に、悩んで、迷って、それから信じて、世界を良くしてくださればいいんです! 例えここで命尽きようと、私は、もう、冒険家ですから! 物足りなくはあるけれど、良き人生であったと心から思えますので!」


 叫んだら、頭がくらくらしてきた。


「…………そう。ありがとう、エチェカリーナ。わかったわ」


 微笑んだ王女の声に、少女はぐしぐしと袖で額の血を拭う。後ろの男は、それをとがめる様な事はしなかった。光の海の眩しさに目の奥に痛みを感じながら瞼を開けると、姫様の凛とした美しい横顔が目に入った。


「わかりました――」


 そして彼女は優しくにこりと微笑んで。


「――下衆な輩に教える事等、何一つないと言うことが」


 姫の言葉にリオルの目が冷たく光り、少女の方へと動く。

 覚悟を決めた小さな冒険家は、ぎゅっと目を閉じた。


 その瞬間。


「レイシアアアアッ!」

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