第16話 今夜は晴れる。見た事が無いくらい、綺麗な夜に。

「……待てよ……こら」


 力の抜けた少女を担いで歩き出した殺し屋の背で、渡しの少年がゆらりと立ち上がる。

 斜めに切り裂かれた傷口から血を溢れさせ、蹴られた肋骨を押さえながら。


 おそらく下の何本かがいかれている。頼みのナイフはいつの間にか失くなっていた。だからもう、立ち上がった所で何ができるわけでも無い。


 なのに、気が付いたら声が出ていた。胸の奥の怒りと悔しさが、その声を震わせる。


「俺の……客に、触るんじゃねえ」


 一歩踏み出すと、痛みが走る。止まっていると、眠りそうだ。二歩目で地を蹴り、ふらついた三歩目で叫びをあげて。つまらなそうに振り返った殺し屋に向けて愚直に走る。


「っざなああ!」


「……ティノ」

 男の呟きに反応し、白き竜が低く鳴いた。


「がっ」

 直後、突然目の前の空間に弾き飛ばされたディンはもんどりうって木の根にぶつかる。奥歯で痛みを噛み殺し手の甲で口元を拭う。血の味。それも、酷く不味い。


 何が起きた? いや違う。知っている。分かっている。俺は、この力を、知っている。

 人間には見えない力。一部の化物と、選ばれた人間だけが使える『闘いの力』。頭のおかしな連中が使う人殺しの武器。

 世界中を幸せにする? 空飛ぶ国? ふざけんな。こいつこそが、あの暗い谷底にずっと纏わりついていた魔導力悪魔の力だろうが。


 そうか、あの竜か。反則だ。使うならそう言え。いきなり撃たれちゃ勝ち目がない。


「……待て……」


 何とか身を起こそうとするディンのぐらぐらと揺れる視界の中、再び小さく竜が鳴くとともに身体の周りを白い光に包まれた男が、そっと少女を竜の背に。


「かっこつけて命を無駄にするな。君の命も、いつか金になるだろう。その時にまた」


 かすめたはずの猛毒をモノともしていない身のこなしでふわりと男が飛竜に飛び乗ると、ばさりと翼を広げた白き竜は空中へと舞い上がり。


「くそっ!」


 言うことを聞かない足を拳で叩き見上げたディンの遥か先、羽ばたく度に高度を上げる竜が滑る様に空を飛んで行った。


「………っっっああああああああああああ!」


 唸りを上げて、ディンは全力で地面を殴る。


「痛え、痛え、痛え痛え痛え痛えっ!! ……痛えんだよ、あの野郎……」


 倒れこむ様に背中を木の幹に預け、バッグの中から取り出した麻痺草マーリーの葉を数枚口へ放り込む。鼻の奥を突き抜けるような刺激と甘みを噛みしめながら、左手一本で服を裂き、止血用の粉を傷口に塗りたくる。


「っ痛う……割に合わねえ……割に合わねえっつうんだよ……あの女……」


 うっとうしい程長い金髪、ニヤリとほくそ笑む生意気な顔。偉そうにふんぞり返る小さな体。痩せすぎの腕こけた頬楽しげに笑う薄い唇きらきら光る青い瞳。


「思い知ったかよ、馬鹿女……」


 俺なんて、この程度だ。


 盗んで、奪って、ただあてもなく生き延びて。せっかく手に入れた人間らしい仕事すら全うすることも出来ないのだ。呻きながら葉を噛み続けると、やがて少しずつマーリーが身体に回り、痛みと意識がぼやけ始める。


『おいくら払えば、世界の果てまで渡してくださるのですか?』


 本気でそんな事を考えている馬鹿の顔が、ぼんやりと見えた。


「いくらあっれもおれにゃあ無理だ」


 自嘲に頬を歪めたディンに、金髪娘は小首を傾げる。


『そんなことないと思いますけど? あなたと私は中々良いパートナーだと思いますよ』


 一人の方がずっとマシだっつうの、と形の良い鼻に伸ばそうとした腕が、ビシリと痛んだ。


「――――――っ」


 マーリーを、地面に吐き捨てる。マナーが悪いと咎める声は、もう、聞こえない。


「…………おれにゃ、無理らんらって」


 暴力は一瞬。あまりにも突然、あっという間に大切な物を奪っていく。命も、未来も、夢も希望も。それを語る友でさえ。そう言う風に、谷の人間は奪ってきたのだ。長い間、本当に長い間、この国からも。


 だから、いつ誰に奪われたって自分に文句を言う筋合いはない。


 だけど――。


 感覚の緩んだ口を閉じて開いて、右手が動くのを確認し、少年はゆっくりと立ち上がる。


「……ホンっと……割に合わねえ……けどよ」


 出来る事ならあいつの冒険譚を読んでみたいと思う自分が妙に笑えて、竜が消えた空に向かって舌打ちをし、無様に転がっていた友の墓標を力の限り握りしめ。


「今夜は晴れになるって、決まってんだ」


 谷で生まれた一人の渡しは、ふらつく足を真っ直ぐに踏み出した。

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