第17話 夢
気が付くと少女は、塔の中にいた。ベッドの上まで積み上がった本の間の狭い空間で、小さく丸まっていた。窓の外には空が広がり、見慣れた湖が穏やかに佇む。波一つ立てることなく、空の色を映し続けて。
晴れた日は、どこかで今も続いている誰かの生活に思いを馳せて羨ましくて泣きそうになった。
雨の日は、どこかで始まる誰かの冒険が悔しくて泣きそうになった。
言葉に出す。あらゆる言葉で、冒険の素晴らしさを叫んでみた。いつか冒険に出る自分のために、彼らに向けて呪いの言葉を吐かない事がせめてもの祈り。
止まったままの少女の周りで、太陽と月と星がめぐる。
やがて、透き通る程に青い水面を通り過ぎる影が一つ。あれは雲だと、そんな事は知っていた。何度も何度もそれを見送ってきたのだから。
だから、あれは空の国だと考える。
誰も見たことの無い花が咲き、誰も知らない言葉が飛び交う超絶的に不思議な国。
当たり前に当たり前の生活をしている人には届かない、少女による、少女の為の、少女だけの国。
誰にも成し遂げられない大冒険を成し遂げた優越感と同時に、虚しさの中に落ちていく。
目の前には、相も変わらず青い湖。いつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでもいつまでも変わること無く空を映し続ける穏やかな湖。
あれは私、と少女は笑う。
誰かの物語の中にしかいられない、本当は止まったままの私。
幾つもの夜と昼を繰り返す度、いつの間にか、彼女の身体には無数の糸が絡み付いていた。じわじわとじわじわとそれが自分を締め殺していくのが可笑しくて。ああ、自分を変えていくのはこれだけなのだと、膝を抱え、くつくつと笑っていた少女はふと気づく。その糸がやって来る先、鉄の格子が入っているはずの窓が今日は何故か開いている。積み上げた本を踏み台にして身を乗り出すと、遠く真下にあやふやな森が見えた。成程、やっぱり湖と塔の間はこうなっていたのかといくつか瞬き。少し顔を出しただけだというのにいつもとは不思議な位に違って見える風景に誘われて、絡み付いた糸に引きずられる様に少女は窓枠によじ登った。
眼下には遠く、深い森の色が見える。視線を上げれば美しく広い湖と、その向こうの稜線が見えた。窓枠に切り取られていた自分の世界が少しだけ大きくなったことに感動する。
風に乱れて唇にかかる髪を払い、両手を広げて、ありったけの世界をぎゅっと胸の前で抱き締める。
なのに海はこれよりも遥かに広く、世界はもっと大きいのだという。
それでも、ここから飛べば。ここから飛び降りれば、憧れ続けた物語の世界へ。
雲の上に思い描いた、自分自身の舞台へ。
――行くぞ。
「はい」
誰かの声に頷くと同時、ざくり、と纏わりついた糸が切れた。あの時は震えた足が、今はちっとも震えない。
………あの時?
ああ、そうだ。ジオの宿から飛び降りた時だ。あの時よりもずっと高い所にいるのに、何故か不思議と怖くない。それどころか、背中には妙な安心感。
「……もう。触らないで下さいってば」
照れ臭くなって振り向いた顔に、生暖かい血がかかり――視界が、赤く染まった。
「――いやあっ!」
悲鳴と共に跳ね起きた。心臓が口から飛び出しそうに高鳴っている。
「起きたか、嬢ちゃん」
もぐもぐと何かの実に被り付きながら見覚えのある顔が振り向いた。
「……ん? ああ、悪い悪い。えーと、ジオの言葉の他、何がわかるか?」
「あ、いえ。そのままで結構です」
真剣な顔をして変てこなジオ語で話し出した男に、胸に溜まった息を吐き出した少女は彼の言語に合わせて喋った。
「おう、悪いな。いやはやこの大陸の仕事は最近始めたばかりでよ、言葉が不自由でいけねえや。何せ食いたいもんが全然食えやしねえ」
穏やかで冷徹だった先程までとは印象が違う、快活な笑顔。
きょろきょろと辺りを見回した少女は、眼下に広がる美しい森の風景で自分が空の上にいることを知る。とりあえず、お尻の下の白い鱗の手触りを確認。思ったより滑らかですべすべだ。
「ディンさん――いえ、渡しの方は?」
「ああ、あいつね。切り込みは浅かったし、骨も折りきれなかったからな、うん。上手い事生き残ってかっこいい殺し屋になってくれりゃ、懸賞首になるのは間違いねえ」
肘の辺りを気にした男がにやりと笑う。
空の上だと言うのに、不思議と風は穏やかだった。
「そう、ですか」
すべる様に高度を落とし始めた竜の背の上、少女は振り返って森の中に少年を探す。この高さからでは見つけられるわけも無いけれど。それでも、彼が生きていると聞いて安心した。
右手に見える水平線と遠くの地平線を眺めながら、少女はホッと力の抜けた息を吐く。きっとあの人ならば、いつかあの先へと行くのだろう。
やる気の無さそうな顔をして、しょうがねえなとか言いながら。
(……何だかちょっと不公平)
そう考えて、少女はむすっと頬を膨らませる。
不公平で、不平等で、不思議だった。雲にほど近い空の青の中にいると言うのに、このままどこへ飛んだって、古代文明に等辿り着きはしないだろうと思う。 岩の天井と暑い雨雲に覆われた暗い夜の森でなら、どこへでも行けそうな気がしていたのに。
思い描いていたのとは随分と違う空の上。冷たい風の香りに負けないように膝を抱き、ローブの襟をぎゅっと握る。
やがて、前方に大きな円を描く岩が見えてきた。大きな岩の中心にぽっかりと穴が開いている不思議な空間だ。
「ここは、ジオの森なのですか?」
男は唇の前で指を交差する。
「そいつはこれだぜ、お嬢ちゃん。経験上、スリルを楽しもうと思うならリスクってのはなるべく減らした方が良いもんだからな、うん」
頷く男をちらりと見て、それは『内緒』という意味なのだろうと少女は理解。軽く膝を抱えて丸くなって、ゆっくりと降下していく竜の背から景色を眺める。
もはや真下にまで来た岩のリングの外周に、ぐるりと一筋の溝。それを見て、ピンと少女の頭に閃きが走る。
もしかしてこれは夕べ泊まった岩場と同じではないだろうか?
どうやらその岩に囲まれた中の草原に着陸しようとしている男の横顔を盗み見て、彼女はぐっと唇を噛んだ。
(明け方、一番明るい星)
高い岩の中心にぽかりと開いた穴を見つめ、渡しが示してくれた方向を胸の内で復唱する。あまり場所が変わっていないなら、大丈夫なはず。チャンスが向こうからやって来るなんて、何と言う幸運。
そして、まさにその穴の中へ降りようと大幅に減速した竜が岩の縁を横切った瞬間。
「っ!」
少女は走った。
例えどうなるのか分からなくとも。どこへ行けばいいのかは、分かっているから。
危険は承知。
それでも、得体の知れないぼやけた不安を抱えて過ごす塔の日々の方がずっと怖くて。何も知らずに宿屋の窓辺に立ったあの時よりも、美味しい物を食べて、楽しくお喋りをして、死ぬことがどうしようも無く怖くなった今の方が、ずっとずっとわくわくしている。
だから。お願いだから。
「おいっ!?」
風よ、空よ、運命さえも、そこを――。
「どっけええええええええっ!」
王女にあるまじき叫び声を上げながら、エチェカリーナ・フォン・ピスタティアは真っ白い竜の背を踏み切った。
しかしここは異国の地。一斉に殴りかかって来た無礼な風が少女の身体を予定と違う方へと運んで行く。
手を伸ばしても届かない位置を、目標の岩場が上空へと通り過ぎる。
「っ!」
思わず丸めた肩が、岩壁に直撃した。そのまま身体を何度もぶつけながら、少女は壁の内側へと転がり落ちていく。
「いっ!」
でっぱった岩に頭をぶつけ、身体が大きく跳ねて、ボトリと地面に落下した。
「い……たい……」
辛うじて動く首を持ち上げると、母が遺したローブの袖が破れているのが目に入った。
「……明るい、星……」
何とか体を動かそうにも、指先が僅かに草を掴むだけ。いつもはどうやって動いているのか、体の動かし方が分からない。俯せに潰れ、虫の様にあがく少女の脇に殺し屋の男が飛び降りてきた。
「おい! 嬢ちゃん! くそっ、ティノ!」
「ピュー!」
舞い降りた白い竜の身体から月明かりの様に淡い光がほとばしり、少女の身体を包み込む。
「……う……あ……あああっ!」
身体中を小さな輪っかで締め付けられる様な、内側から千切られているかのような、感じたことの無い痛みに少女は悶える。
やがてその痛みが身体の外へと抜けていくと、急激に眠気が襲ってきた。
「ったく、術も使えねえくせに馬鹿やってんじゃねえぞ、アホガキが。あんたが死ぬのはもうちょい後だっつうの」
幾分疲れた様子の白竜を労わる様に撫でながら、男はジロリと倒れたままの少女を見下ろして舌打ちをする。
「ちっ、予定が狂ったな。行けるか、ティノ?」
ぼやけた白い光の向こう、返事をするようにクエッと小さく鳴いた竜が身を低くして軽装の男を背中に乗せた。
「どうせ死ぬんだ。無理はするな」
ぶわさと舞い上がる竜の上、退屈そうな男の声が薄れ行く少女の意識の奥に響いた。
(……逃げ、なくちゃ)
必死に身体を折り曲げようと試みてはみるものの、何故か力が入らない。『動け』と言う命令を、この光に邪魔されているみたいだと少女は思う。
そしてそのまま。逃げなくてはいけない、眠ってはいけないという思いごと、大地の中に吸い込まれるように彼女の意識は後頭部から抜け落ちて行った。
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