第13話 お墓に花を
二人が下ってきた丘を左に見ながら街を抜け、森の中の細い道を少し歩いたその辺り、小さな湖のほとりにそれはあった。
木漏れ日を反射して薄青く光る小さな透明な石の板。
何も知らなければ見逃してしまいそうなその石に、渡しの少年はぞんざいに花環を放り投げた。
「……マナーの悪い人ですね」
何となくそれが誰かの墓標なのだと理解した少女が、呆れた様に傍らの少年を見上げる。
「花なんて貰って喜ぶようなタマじゃねえよ、こいつは。こんな板切れがお似合いなのさ」
墓の前にしゃがみこみ、ふんっと鼻で笑いながら少年は薄青い石を指で弾いた。
「……お知り合いの方、ですか?」
「じゃなきゃ花なんてくれねえだろ」
冷たく笑う少年に、金髪の少女はむっと唇を尖らせた。
「どうもすみません、なにせこの国の文化は不勉強なものでして。ピスタティア出身の私としては暗にどういうお知り合いなのかを尋ねたつもりでした」
「だったら最初からそう聞け、馬鹿。奥ゆかしさだとかわびさびだとか言ってる奴は、この国じゃあ馬鹿を見る――」
「その方とはどういうお知り合いなのですかっ」
言葉を遮った少女の声に、墓石の前にしゃがんだ渡しは暗い笑いで答えた。
「昔馴染みっつうか、なんつうか。まあ……兄貴分みたいなもんさ」
「南の谷のお方……ということですか? あなたの御出身の」
「ああ。賢いな、あんた」
「先程馬鹿だと仰った方に言われましても、信じられませんけど」
相変わらず薄く笑う少年の隣、溜息交じりの少女が静かに腰を降ろす。
「それで、ジオではどのように弔意を示すものなのでしょうか?」
「ん? ああ、そうだな……とりあえずこうやって」
言って、おもむろに開いた両手の親指を鼻の穴に押し当てたディンを、少女が冷たく睨み付ける。
「いい加減にしないと怒りますよ」
「いやいや、この両手が花を表していてだな――てっ」
パチンと鼻の頭に指輪を当てられ、少年は顔をしかめる。
「言いましたよね、怒りますって」
バツが悪そうに肩をすくめるディンを横目に、少女は足元に落ちていた花環を手に取った。紫と黄色の花が散りばめられた美しいその花環は、確かに自分の左の腕にある物と同じに見える。
花環の名はパルムシェリー。
縁起が悪いと言うその花が、ここに置かれた意味を考えて。
少女は彼の鼻先に二つの葬送花を差し出した。
「私には、この世に知らなくていい事なんて一つも無いと思ってください」
目の前に並んだ二つの花環を見下ろして、ディンはちらりと少女を伺う。
一目で異国の人間だと解る彼女の青い目の輝きの中に、妙に冷めた顔の男が見えた。
「……だったら、まずあんたが知るべきなのは、外の世界にゃ知らなくていい事も割とあるってことだろうな」
少女の手首の花環を指で弾き、立ち上がった渡しの少年は身体に溜まった気怠さを払う様にぐぐっと大きく伸びをした。
行くぞ、と言ったその背に、少女の小さな呟きが響く。
「……むらさき……オリッジ……」
「?」
振り向くと、彼女は静かに葬送の花環を指でなぞりながら、
「クイントゥッド、デザロア、ルァッゴ。」
知らない言葉、聞いたことの無い音で、その花と緑に語り掛ける様に。
「エーダ、サウバラボゥーデゥン、メルクグァン・ムーィボス――」
やがて花から外れた彼女の指は、足元から森の縁をなぞって空へと伸びていき。寂しげだった声は、辺りを震わす程に大きくなっていき、
「ブルゥシエラゥ、レフキースィナハ! イルソォレアバリャンテ! ジスィズシーナリィスィーンナドゥリーム! カクプリクラァスィヒエタトミィルッ!」
叫ぶと同時、その小さな身体を弾き飛ばすかのように両手一杯に感情を爆発させて。
「『なんて素敵な世界! なんと不思議な世界! どうしようもない糞くらえの世界! まるでお前は私を写す鏡の様だ! 見ろ、太陽! 聞け、風よ! こんなにも醜い私が、お前達の下を行く! だからどうか、ほんの少し! そこをどいてくれないか!』」
それは、自らがこの世に産み出した自走車による事故で妻と母を亡くし、世界と己を呪ったティッパーフィールドが旅立ちの日に自宅の扉に書き殴ったとされる魂の叫び。
「えい! やあっ! とりゃあっ!」
少女の突然の奇行にただただ目を丸くした少年の前、憑き物が落ちたかのように照れくさそうに微笑んだ彼女は。
「えへへ。どうですか? 小さな頃、塔の生活に飽きないように母が教えてくれた遊びです。花の色、虫の名前、雲の種類、天気の具合、今日の気持ち。たくさんの国の言葉で、それぞれの名前を呼ぶんです。それだけで、狭かった部屋はどこまでも大きくなるんです。そうやって、私は今までたくさんの事を声に出してきました。ティッパーフィールドの名台詞も、ありもしない空の文明への憧れも。でも――」
力の抜けた笑みを浮かべた少女は、小さな胸に手を当てて。
「この気持ちの名前を、私はまだ知りません。期待と不安と、喜びと悲しみと、全部がごっちゃになったこの気持ちを――」
青い瞳が、ディンを見つめる。
「この気持ちに従って、どこかへ行けたなら。この感情を表す言葉を、探すことが出来たなら。そして、それを誰かに伝えることができたなら。そう思って、それだけを思って、私はここへ辿り着きました」
それでも、と少女は唇を動かした。
「私は、やはり――」
彼女には、いつかそうなるだろうという予感があった。塔に幽閉されたままろくな診察も受けられずに死んだ母の様に、あるいはいつの間にかいなくなっていた父の様に。真に王族がいらなくなった暁には、貴族を筆頭とする王権派の目の届かないやり方で――。
「――私は、殺されてしまうのでしょうか?」
「あんたの運次第だ、神様にでも祈ってくれ」
あっさりと返ってきた答えに頷き、少女はゆっくりと目を閉じて。
「あの、では――」
面倒臭そうに振り向いた少年を、真っ直ぐに彼女は見つめながら。
「――私は、殺されなければならない様な事を、したのでしょうか」
木漏れ日に輝く金色の髪と、透ける様な白い肌。悔しさなのか、憤りか、薄い唇をわずかに噛んで。痩せ細った少女の瞳がディンを捉える。
「私は何も……本当にまだ何も、していないのに」
「……あんたが悪いわけじゃない」
小さく頭を振った少年は、くしゃくしゃと頭を掻きながら。
「ただ、誰かにそいつがいなくなった方がいいと思われる奴がいて、金やら正義だかの折り合いがつけば、そいつがこの世からいなくなるってことは世の中には割とあるんだ。例えば――」
少年の視線が、墓石へと滑る。
「――こいつみたいにさ」
透明な青の内側により濃い青の紋様が浮き上がるその美しい石版を、少女もまたじっと見つめて。ほんの少し、そこに眠る人物へと想いを馳せた。
谷の底を這いまわる、と渡しの少年は言っていたが、それは一体どういう人生なのだろうか。自分やこの少年の様に、外に出たいと思わなかったのだろうか。
闘いの民で、傭兵で――
「……殺し屋さん、なんですよね?」
呟いた少女の横顔を一瞬だけディンは見て。
「殺し屋だったら、死んでもいいのか?」
「そ、そういう意味では――」
口ごもった少女の声に笑いをかぶせて、少年は言う。
「遠慮すんな。実際こいつの場合はそれが理由だし、当然の罰だ。そんな商売やっといて、誰にいつ殺されても文句なんか言わねえだろ」
ディンはおどけたように軽く両手を広げながら。
「この森はさ、人が消えるにはちょうどいいんだ。街道が整備される前は、街の人間だって渡しがいなけりゃ迷っちまうような場所だったし、おまけに獣もうろついてる。おかげでお偉いさん一行が森に入ったまま行方不明だとか、獣に襲われたとか言いながら部下が一人だけ生き残ってるなんてのは昔からある話らしい。俺が生まれるちょっと前にゃ、それをきっかけに戦争になった国もあるんだと。大体、谷の人間の仕業だよ」
「そう、ですか」
ちらりと左右の木陰に視線を配った少女は、何かを言おうと、少年の方へと近づいた。
「だからこの国は世界連合には入れなかったし、技術的にも大分遅れた。んで、これじゃあまずいと思った今の王様が街道を作って、地方を結んで、バラバラだった内政を整えて、光の海が見つかって、やっと世界連合様が『入れてやるよ』ってなった時に、邪魔になったのが俺達ってなわけさ」
「……『俺達』、なんですね?」
ふと出た言葉を少女に指摘された少年は渋い顔。
「……ああ。俺も、他の奴らも、こいつが誰かを殺した金で飯を食って服を着てたからな。……とにかく、だから、こいつは死んだんだ。討伐軍の団長様に一騎打ちを挑んでな」
「ジュラルド……じゃなくて、フリオ様でしたっけ? ディンさんの、お友達の?」
「ああ。だけどさ、そう仕向けたのも俺なんだよ。そのお友達同士が――一番強え奴同士が一騎打ちで決める様、両陣営に手と口をお上手に回してさ」
ディンは目を伏せ、口の端をニヤリと歪ませた。
「噂のディーノとかいう奴よりも、ずっと汚え罠って訳さ」
笑みを浮かべた少年に掛ける言葉が分からずに、少女は自らの頬を指でつねった。
しばしの間、風に擦れる葉の音とどこかに聞こえる鳥の声が森に響いて。
あの日、あの瞬間。兄の様に慕っていた殺し屋と、それを切った友人の顔を瞼の裏で思い浮かべて、立合いを務めていた少年は深く大きな息を吐いた。
「まあ、せっかく谷の糞共を潰したんだ。だから、この森で誰かが殺されるようなことは、もうあっちゃいけねえんだよな」
『強いな、お前』と友を讃えたあの時と同じように、次から次へと湧き出てくる感情をごまかすようにカラカラと笑い。
「いろんな奴らが、頑張って、命がけで、次の時代に行こうとしてる。やっと世界連合にも加われて、今日の結婚式が新しい時代の幕開けだって、国の連中は皆がそう思ってんだ」
そのために殺された奴がいて、そのために殺した奴がいて、そのために命令を下した奴がいる。勿論何も知らない人達も、全部が全部輪になって、転がる様に、みんな次の時代に進むのだ。自分はそれを見送るだけ。その瞬間、どちらの勝利を願っていたのかも分からぬ様なこの薄汚れた手が、彼らとつながる事は決してない。
――だけど。
飾り気のない墓石と金色の髪を見比べて、少年はもう一度笑った。
「よし、決めた。誓うぜ、あんたは必ず逃がしてやる。何が来ようと、この森の中で死ぬようなことは俺が絶対にさせねえよ」
ディンのその横顔に、ぱちくりと目を瞬かせた少女がくすりと笑う。
「何だか、急にやる気ですね」
「まあな。それよりあんた、この国を出てから何か当てはあるのか?」
隣に並びかけて来た少女を見つめながら、ディンはかねてからの疑問を尋ねてみた。
「ふっふっふ、何をおっしゃいますか。あてだなんて、そんな物私にはありませんよ。かのティッパーフィールド師匠のごとくただ当てもなく気の向くままに旅をしようかと考えています」
ちっちっちっと指を振りつつ不敵に笑った少女が発したあまりにも予想通りの答えに、ディンはこめかみの辺りを手で押さえる。
「日記を着けながら世界中を旅して、いろいろな物を発見して――この世界が、私の目に、耳に、この胸に、どう響くのかを知りたいんです!」
そんな渡しの様子は気づかずに、木漏れ日色の髪をした少女はきらきらと輝く瞳で両手を広げ、楽しそうに夢を語っていた。
「……ガキだな、本当に」
「はい?」
むっとして眉を寄せた少女を呆れた目で見下ろしながら、ディンは世間知らずのお嬢様に世の中の仕組みを教えてやることにする。
「あんた、今いくら持ってる?」
少女はさっと一歩離れると、自らの身体を抱いて守りの意志を表現した。
「言いたくありません。手持ちを知られることが交渉に不利になることぐらい知っていますので」
ああそうか。とディンは面倒臭そうに首を鳴らして。
「明日、竜車に乗って国境の街まで行ったら、そこであんたには渡し代の残り七千ブルを払ってもらう。その先はあんたの好みだが、この辺りの国じゃあ宿代は安くて一晩千五百ブルってとこだ。ちなみにさっきあんたが食べた分は二百ブル。他の店で食えば倍はする。だから一日大体三千ブルはかかるだろ。どこに行くのか知らねえけど、この大陸じゃそれが相場だと思って間違いない。しかも女の一人旅だ。あんたみたいな美人だとそうそう安い宿に泊まるわけにもいかねえだろうし、細かい金もかかるだろ。それで一体手持ちの金で何日位生きて行けるか計算してみろ」
つらつらと並べ立てられる数字の波に、少女は青い瞳を何度もぱちくりと瞬かせる。
「え、ええと……」
「言っとくが、旅人に任せてくれる仕事なんてそうはないぞ。あったとしても、体力の無いあんたにはきついのは間違いない」
今の世の中、よっぽどの金持ちか強運の持ち主でもなければ、あの冒険家の様に旅から旅へと生きるだなんて出来るわけが無いのだ。
「で、でも……私は……」
ディンは、ちらりと少女を見る。具体的な数字で形作られた現実を前にして浮ついていた気持ちが吹き飛んだのだろう事が見て取れる。思い描いていた自由の夢から覚める様に、頭のいい彼女はあっという間に己の無謀さを理解したのだ。
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