第9話 少しずつ、二人は
「っ!」
とっさの判断で、ディンは呆然としている少女の身体に飛びかかった。身体を地面にぶつけると同時、足の向こうで木の幹が砕けた音が響く。
「大丈夫か!?」
力任せに細い身体を抱き起すと、目を丸くしたままの彼女はぶんぶんと金髪頭を縦に振る。
「フーッ……フー」
大人の胴回り程はあろうかという木をへし折ってなお興奮冷めやらぬ様子の獣が、体当たりの反動でふらつく体を揺らしつつ見失った獲物を探している。
「来い!」
静かに告げた少年が少女の手を引いて駆け出した。その直前、一瞬だけ振り向いた少女と、獣の目が合う。
「な、な、な、何なんですか、あれは!」
舌をかみそうになりながらも、少女は叫ばずにはいられない。
「デカい声出すな! 追ってくるぞ!」
走りながら振り向いた彼女のすぐ後ろ、頭を下げた四足の獣が狂ったように突っ込んでくるのが見えた。
「ちょわわわっ! 来てる来てる! 来てますよっ!」
「分かってるっつうのっ!」
『つうの』の『の』で踏み切って、ディンは再び少女を抱えて道端へ飛んだ。
「いっ……た!」
突き飛ばされ尻もちをついた少女が顔を上げると、目の前をドドドッと泥をはね上げながら黒い風が駆け抜けていくところだった。
「立て、振り切るぞ!」
有無を言わさぬ勢いで少女の手を引っ張ったディンは、目の前に張り出した木の根を飛び越え、木々の間を縫う様に走る。本来ならば一気に獣の意識の外へ走り去りたい所だが、足の遅い少女のことを考えると、的を絞らせぬ様にコース取りを工夫するしかないのだ。
しかして彼女はそんな気遣いなど知る由も無く。
「見てますよっ! 来てますよっ!! どんどんでっかく見えてきますっ!!!」
ちらちらと後ろを振り返っては興奮しきった声で獣の様子を実況する。
「うるせえ! デカいのはあんたの声だっつうの! その声を追っかけてんだ!」
怒鳴り返した少年が目の前の木を左に曲がろうとするのを察して、少女が引っ張る。
「逆、逆! そっちに来てますって!」
「先に言え、馬鹿!」
「ちょっ、ここは感謝するところですよ!?」
「今なら五ブルで感謝してやる!」
「最低で――へわあっ!」
再び後ろを振り向こうとした少女の足が、ガクンと木の根につんのめる。
「ばっ――!?」
支えを求めて思わず強く握った腕に引きずられ、ディンの身体も背後へと倒れそうになる。
が。
「――っかやろう!!」
ぶんっと。肩が抜けそうなほどの力で少年の周りをぐるりと回った少女の身体が、前方の茂みへ思いっきり投げ飛ばされて。
「ひぇえええっ!?」
「こっちだ!! 来い!」
少女がべしゃっと頭から地面に倒れると同時、振り向いたディンは獣に向かって両手を広げた。
目に入った敵の姿は、思っていたよりも、ずっと近い。
ドッ!!
すっかり煮えたぎった獣が、目の前で足を止めた
「ディンさんっ!」
その加速は意外なほどに柔軟で、真横に飛ぼうとしたディンの動きに合わせる様にクンッと鼻先が流れる気配。
危ない、と少女が思わず目を覆った瞬間。
「っっらぁっ!!」
ドン! と左足を地面に叩き付け、全身を捩じるようにして信じられない程に高く飛び上がった少年が、頭を下げて突っ込んっで来る獣を空中で背中合わせをするようにくるりと躱して大地に落下。そして素早く立ち上がると同時に少女の元へと駆け寄ってきて。
「おら、立て! 行くぞ!」
目を丸くしていた少女の手を強引に引っ張り上げてまた走り出す。
「だ、大丈夫なんですか!?」
「大怪我だよ馬鹿! 治療費払え!」
「わ、私だって足を擦りむきました!」
「んなもん、あとで唾つけてやる!」
「じょ、女性の足を触るですとっ!?」
「うっせうっせ! 枯れ木がぎゃあぎゃあ言うんじゃねえ!」
「だ、誰が枯れ木ですかこのスケベ! このディンすけっ!」
そんな風にぎゃあぎゃあとわめき合いながら右へ左へと不規則に走る二人は、やがて疲れの見えた黒い獣を遠くにまで引き離し……。
「――――あ、朝から、こんなに、走るだなんて……」
身をひそめた倒木の陰で、少女は息も絶え絶えに文句を言う。
「うるせえな。あんたが……でかい声で、叫んだりするからだ」
「違います。元は、ディンさんが……『ずっと閉じ込められてろ』だなんて……仰るからです」
「はいはい、悪かった悪かった」
少女の呪いの言葉を隣に聞きながら、ディンは倒木の隙間から向こうの様子を伺う。すると、二つばかり先の木の辺りを、獲物を見失いすっかり疲れた様子の獣がとぼとぼと歩いているのが見えた。
「……ふっふ~んだ、そっちじゃありませんよーう……あのあの、何なんですかあの化物は? はっ! もしかして古代生物? あ痛っ」
興奮に上ずった声を出す隣の少女のおでこを弾いた。
「あいつは、ハーボ……だと思う」
「ハーボ、ですか?」
「ああ。本当はもっと小せえし、人を襲ってくるようなこともねえんだが……」
再びちらりと獣の様子を確かめると、ディンははあっと溜息を吐いて座り直す。
「多いんだよ、最近。ああいう奇妙な獣がやたらと目立つんだ」
「ふうん、そうなんですか……はっ、もしや悪魔が復活する兆しでは?」
一応王都の管理局に連絡した方がいいかもしれないと考えつつ、神妙な面持ちの金髪を手で叩いた。
「アッツ……何するんですか?」
母国語で悲鳴を上げた元王女が、頭を押さえて傍らの少年をじとりと見つめる。
「鼻息がうるせえ。あんまりがっついてるとまた見つかるぞ」
「鼻!? し、失礼な! 私はただ、珍しいっておっしゃったから……」
むすっと口を結んだ金髪頭が、どかりと地面に腰を降ろす。
「あのな、珍しい獣ってのは出会った奴が死んでるから珍しくなってんだ。逃げられるなら逃げるに越したことはねえ」
「でもですね、放っておくと他の人が危ないかもしれませんよ?」
「後で王都に報告すりゃ、腕に覚えのある奴が何とかするさ」
そもそもこの場で退治しようなどと考えれば真っ先に危険になるのが誰なのかがわかっているのかいないのか、冒険好きの少女はしつこく渡しの少年に退治を勧める。
「ほら、あれだけの大物をしとめればお金も儲かるんじゃないですか?」
「言ってもただのハーボだ、毛皮も牙も格安だぜ? あのデカさじゃ懸賞金でも掛けられねえことには割に合わねえよ。黙って騎士団あたりに任せるのが一番だ」
肩をすくめ、疲れのたまった足を伸ばす。
「……といいつつ、ディンすけはゆっくりと立ち上がりその右腕に剣を取った」
「立たねえし取らねえしディンすけじゃねえ。つうか、あんたそんなに獣が死ぬのが見たいのか? 顔に似合わず恐ろしい女だな」
僅かに身を引いたディンの言葉を、少女が慌てて否定する。
「ち、違います。ただ、私は……こう、何と言うか……いずれ冒険譚を執筆するにあたって見栄えのいい展開が欲しいなと……」
「冒険譚? アホか。何であんたの本のために獣が一匹死ぬんだよ。この森で無意味に狩りなんかしてみろ。それこそ騎士団様のおでましだぜ?」
首を刎ねる仕草をしながら、ディンは傍らの少女を嗜める。
「それは……そうですけど……」
「それと、本を書くのは勝手だが俺の事は書くんじゃねえ。迷惑なんだよ、そういうのは」
ペッと、ディンは地面に唾を吐いた。
「……行儀が悪いですよ、美しい森を汚さないで下さい」
じとりと睨む高貴な女を軽く鼻で笑いながら。
「うるせえな、こっちは誰かさんのおかげで疲れてんだ」
「そんなの私の方が疲れてますし。唾を吐く理由にはなりません」
「知るか馬鹿。だったらここで休んでろ」
「嫌ですぅー。ほら、休んでる暇があったらさっさと目的地へ渡してください。さもないと職務怠慢で支払いを減らさせてもらいますから」
「はいはい、そうですね、好きにしてくださいませ」
「もう……」
溜息を吐いた少女は腐り始めた倒木の上にひょこりと顔を出して辺りを伺った。柔らかな光が溢れる木々の向こうに目を凝らして見ても、獣の姿は見あたらない。どうやら完全にこちらを見失ってくれたようだ。一つ頷き、これでいいのだと納得して頭をひっこめた少女は、隣でくつろぐ少年の荷袋をばしばしと叩きながら。
「ねえ、早く行きましょうよ。早くしないとお腹が減って動けなくなってしまいますよ、私は」
「はいはい、わかったから叩くなよ。危ねえ物も入ってるっつうの」
このガキめ、と呟きながら立ち上がったジオ一番の渡しは両手を耳たぶの下にあてながら注意深く辺りを見回した。
「……大丈夫そうだな。よし、立て。今度こそ本当にすぐそこだ」
「あなたの『すぐ』は信じないことにしましたから」
差し出された手を掴んで立ち上がった少女は溜息交じりに
さんざん走り回って右も左も分からなくなったはずの森を平気で歩く横顔にほんの少しだけ感心したが、それを口に出すのはやめておいた。
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