5月9日 当日、朝

第8話 雨のち猛獣

 ペステリア歴 二百六十六年 五月九日


 空に日が戻り、夕べの雲がすっかり東に流れた頃。


「起きろ、おい、起きろ」


 丸くなって寝ている金色の毛玉に、ディンは何度か呼びかけていた。すると、ああ……とか、うう……とか呻きながらのそのそと半身を起こした少女が、まだ眠たげに眼を擦る。


「……ん。寒い」


 雨露に濡れた森の香りに鼻をすすり、身体に巻きつけた大きめのローブの前をぎゅっと合わせた少女はがくりと力なく頭を落とした。


「……眠いです」

「だったら寝てろ。俺は行くぞ」


 呆れた様に言うディンの元へと、少女がずるずると冷たい岩の上を這い寄ってくる。


「………おはよう、ございます……」


 掠れた低い声と共に金毛の間から現れた顔は、もはや死体の顔色だった。


「……おう」


 見てはいけない物を見てしまった気がしたディンは、少女にそっと背を向ける。


「少し待ってやるから、身体をほぐせ。化物にしか見えねえぞ」


 そんな配慮の欠片も無い少年の物言いに、もぞもぞと床の上を這った金毛の化け物は。


「……おはようございます、ディンさん。今日は……随分と、かわいいお顔ですね」


 などと、地面に向かって挨拶をし始めた。

 少女が撫でる指先を見れば、小さな芋虫が一匹。嬉しそうにくねくねと芋虫仲間に愛想を振りまいていた。


「へえ、虫の言葉もわかるとはさすがだな」


 枯れた声と死にそうな動きながらも、ニヤリと笑って顔を上げる金髪女。


「……えへへ……良く、似てるから……間違えちゃいました……」

「うるせえよ、この化け物顔が。行くぞ」


 しかし、顎を癪って歩き出したディンの背に聞こえたのは、泣きそうな声。


「うぅ……痛い……です……」


 毒虫にでも噛まれたかと思って振り向くと、寝床の入り口に腰かけた少女がぐったりと丸まっていた。


「身体中が……痛いです……」


 それは恐らく、運動によって筋肉を傷めた事による身体の痛み――いわゆる筋肉痛という奴だ。

 笑えるほどに体力の無い娘である。


「我慢しろ。ほら、立て、行くぞ」


 少女が黙って差し出してきた手を握り、立ち上がるのを手伝ってやる。

 そうして貸していたローブを身に纏いながら、ディンはまだ気怠そうな少女を見やった。


「あんた、肩の方は大丈夫なのか?」

「……うあ? 肩……ですか?」


 しかし頭の重さに負けてふらふらと歩く彼女には、何の事かも分かっていないようで。


「ほら、この辺、痛がってただろ?」


 言ってディンは少女の右腕を軽く掴む。


「……ん、痛い。え? ……ひどい、何するんですか?」


 痛みに顔をあげた少女がじろりと睨み上げてきた。顔色の悪さも手伝って、何と言うか、まあ、恐ろしい形相である。


「打ち身ってとこだな。夕べと痛みは変わらないか?」

「今日は全然気になりませんでした、今あなたが触るまで。ああ痛い」


「あんたの身体だと転んだだけで折れちまいそうだからな。気をつけろ。んで、運動して飯を食え」


「言われなくともそうさせて頂きます。それと、別に転んで痛めたわけではありません。まったく、子供じゃないんですから」


 やれやれと言った具合に両手を広げる少女を見て、ディンはその様子なら腕の方は大丈夫だろうと見当をつける。


「夕べさんざん転んでたのはどこの子供だよ」

「存じ上げません。大方夜の森に怯えて幻でも見たんじゃないですか? あ、それか森にすむ妖精ですね。あるいは天使。うん、多分そうですよ、眼福ですね」


 だんだんお喋りが戻りつつある妖精様の金髪を軽く叩いて、ディンはひんやりとした森の中を歩きだした。


 行く先は南部の街プエラトだ。


 光の海の観光開発のために作られた真新しいその街は、同時に多くの竜車小屋を抱える交通拠点でもあり、国外行の便が数多く出入りする街なのである。


「――んで、じゃあなんでそんなとこ怪我したんだ?」


 歩き出してからしばらくたって、あっちが痛いこっちが痛い、おまけにあなたのせいで腕も痛いですし、お腹が減って力も出ませんわ。などとぶつぶつひとりごちるお客様の上品なお口を塞ごうと、ディンは隣の少女に声をかけた。


「あ、それ、聞いちゃいます?」


 すると、途端に顔と声を弾ませたお嬢様がニヤリと少年を見上げてくる。多分に、森に入ってから一々見た物を口に出すのをディンが無視し続けていたのが彼女の不機嫌の原因だったのだろう。


「いや、やっぱ聞かねえ」

「何でですか! 私の大冒険を聞ける第一号になるチャンスなんですよ? しかもタダなんですよ?」


 身体を曲げてディンの顔を覗きこんでくる少女の殺し文句に、ディンは呆れる。


「……あんたな、タダだって言や俺が食いつくとでも思ってんのか?」

「え、違うんですか? 実際夕べはタダだと聞いたとたんに態度が変わったと思ったんですが」


 葉の間から差し込む光を浴びつつ、すっとぼけた顔で小首を傾げた金髪が何か思いついたと言わんばかりにこれまたわざとらしく手を打った。


「あ、今だけですよ、今だけタダです。しかもあなただけ特別に無料です。こんなチャンス逃す方が馬鹿ですよ」

「馬鹿はお前だ」


 言うと同時、ディンはちょうど良い位置にあった形の良い鼻を人差し指と中指の間で一息に摘まむ。


「ったく、変な事ばっか覚えやがって」

「あなななな」


 鼻がつまった様な声を上げて暴れる少女だが、ディンはそのまま放す様な真似はしない。というか、思いの外がっちりと相手の鼻を摘まめた事に発見の喜びを感じていたのだ。もしかしたらこの指の間の部分はそのためにあるのかもしれないとさえ思える程だ。


「絶対違いますから!」


 割と真剣にそれを告げると、少女の拳が数発肩に炸裂した。


「何なんですかその無駄な機能!? 屈辱です! 最悪です! バーカバーカ!」


 ぷいっと回れ右して歩き出す少女の髪を少年はむんずと一掴み。


「んあ」

「勝手に歩くな、責任取れねえぞ」


「だからって! ……まあ、もういいです。あなたに関してはいろいろと諦めて我慢します。私が犠牲になればいいんですもの。簡単な事です」


「はっ、だったら大人しくずっと閉じ込められてりゃ良かったじゃねえか」


「あ、そういうこと言うんですか? 良いですよ、でしたら私だって言っちゃいますから」


 むっと膨れた少女が、腕組みをして胸を反らす。


「はいはい、何でも言ってみろっつうの。言っとくが俺はガキの戯言になんて――」


 ディンが言い終わる前、両手を口の脇に添えた少女がありったけの声を張り上げた。


「ディンさんはっ! レイシア様の事が大好き――んぎゅっ!」

「縫い付けんぞ馬鹿野郎」


 突然の大音声に驚き飛び立つ鳥の群れを背に、渡しの少年は少女の口を思いっきり締め付ける。その剣幕と痛みに、涙目になった少女はふるふると顔を横に振って許しを請う。


「う、うほでふ。ゆるひてふだはい」


 大きな舌打ちをしたディンは、苛立ちのこもった視線で解放した少女を射抜く。


「調子に乗るな。その勘違いだけは許さねえぞ」

「図星の癖に……」


 ぼそりと呟いた少女の声も渡しの鋭い聴覚は聞き逃さない。


「……何か言ったか?」


 この時少女は、世の中には冗談にしていい事と悪いことが有るのを知った。特に狭量で粗雑な男には気を付けるべきだと心にとどめておくことにする。


「い、いえ、何も言っておりませんよ?」


 慌てて手を振りこれ以上傷心をえぐる気がない事をアピールした彼女の大きな瞳が、突然さらに大きく見開かれて。


「……え?」

「あ、何だ――?」


 釣られて振り向いたディンの視界も、それを捉えた。


 揺れる茂みの向こうに輝く目、閉じた顎の両脇に覗く短い牙、ずんぐりと丸く大きな体の四足の獣が、興奮のいななきを漏らしつつゆっくりとこちらに歩を進めてきていた。


 次の瞬間、素早く身を翻したディンは恐怖に固まる少女の細い腕を掴んだ。


 繁みをつぶし、大人の男よりもはるかに大きな全身を現した黒き獣は、その巨体に似合わぬ短い足でざっざっと地面を蹴り上げて――


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る