第3話 夜の森と光る花

 月の光が黒い雲に阻まれ、代わりに降り注ぐ雨を森の葉が和らげる。そういう、雨降りの夜の森である。その中を少年と少女は歩き続けていた。


 もう、どれくらい歩いたのだろうか。歩いても歩いても、景色は変わらぬ闇だった。

 それほどまでに、夜の森は、暗く、深い。

 正面にばかり気を取られていると、複雑に地面を這う根に足を取られてしまう。ましてや今夜は雨だ。ぬかるんだ土は通行人の足を滑らせようと意地悪に闇に身を潜めている。


「……ひゃっ……」


 何度目かの声にならない悲鳴を聞いて、ディンは後ろの少女を振り返った。すると前後に両手を伸ばしたへっぴり腰で必死にバランスをとった少女が、大きく安堵の息を吐き出した。店に来た時からすでに汚れていたローブは、一刻歩くころにはかなり泥にまみれていた。


「大丈夫か?」


 これも何度目か分からない心配の言葉を投げかけると、少女は肩で息をしながら決まって答える。


「……はい…大丈夫、です……」


 夕方の様子からするに、やんごとない身分のお嬢様なのだろう。商売柄そういった人間の相手をすることも多いディンの経験からすると、彼らの体力は両極端に分かれるものだ。

 つまり、比較的細身で十分な体力を持つ人間と、見るからに運動不足の体力も無ければ我慢も効かない人間であり、そのどちらもが夜の森の前では平等に音を上げる。

 だが、大きめのローブの上からでもわかるほどに痩せているその少女は、泥まみれになりながらも必死でこちらの背を追いかけてくる。さすがに少し歩くペースを緩めながら、ディンは少女が書いたと言う例の走り書きを思い出していた。


 ――たすけて――


 そう書いたのには、きっと何か理由があるのだろう。偉い人間には、偉い人間にしかわからない苦労があるのだ。少し昔、勉強嫌いのジオの姫様もそんな風に叫んで店に飛び込んできてはあっちこっちに連れて行けと自分をこき使ってくれたものだ。


『自分の国の内情なんてものは、座ってお勉強するよりもこの目で見た方が早いのよ』


 そんな風に偉そうにぬかしていた女の姿を思い出し、少し笑って首を振った。


「もう少し歩けば、休める場所がある」


 振り向いた渡しの言葉に、すぐ後ろまで迫っていた少女が、肩を上下させながらこくりと頷く。

 疲れとは別に、先程からなにやら右腕を気にしている所作が見て取れる。今でこそ散々転んで泥にまみれた少女のローブではあるが、店に来た時に汚れが目立っていたのがちょうどその辺りだった。


「腕、痛むのか?」


 どこかで転んだのだろうか――と考えながら、手にした鉈で客の邪魔になりそうな枝を払い落としたディンは振り向く。すると少女は驚いたように目を見開き、暫く黙ってうつむいた後、小さく頷いた。


「……はい、少しですが」

「後で見てやる」


 雨を凌げる心当たりに向かって道を外すと、格段に通行の邪魔が増えた。


 ――それからどれくらいか歩いたあたり『もう少しだ、まだ行けるか』と聞いた少年に、がくりと肩を落とした少女が息も絶え絶えに頷きながら。


「あの……一つだけ、よろしいですか?」

「うん?」


 倒れこむようにディンの肘を掴んだ少女の身体が、ふらふらと左右に揺れていた。


「あの、先程から、あなたは『もう少し』と言っていると、思うんですけど」

「ああ、そうだな」

「この国のもう少しと言うのは、どのくらいのことなのですか?」


 じとりと睨み上げる皮肉の眼差しに、ディンは苦笑を浮かべる。


「そうだな、もう少しっていうのは――」


 そこで、最近伸ばし始めた顎髭に手をやった少年はニヤリと笑い、


「あと少しだ」


 と意地悪に言ってのけた。それを聞くと、彼の袖を掴んだまま口を半開きにしてゆるゆると力なく首を振った金髪の少女は、細身の体を丸めるように膝を抱いてしゃがみこむ。


「………」

 さすがに疲れ切ったという様子で俯いてしまった彼女を見て、ディンは小さく頷いた。


「よし、わかった。すぐそこに横になれる場所があるから、そこまで歩け」


 渡しの少年が切り出したなんら代わり映えのしない提案に、少女は顔をあげることなく。

「……明日でいいです」

 と、溜息交じりに呟いた。肩をすくめた少年は蹲った小さな頭を見下ろしながら。


「本当にすぐそこだって。百メーロもかからねえぞ」


 それは、今夜彼の口から初めて出た具体的な距離だった。

 その言葉に反応し、丸まっていた少女の視線がゆっくりと上がり――


「嘘ですね」


 疲れと呆れで土気色になった顔で溜息をこぼす。


「嘘じゃねえ。客に嘘ついてどうすんだよ」


 言うが早いか、頑なに膝を抱える少女に背を向け、少年は闇の中へと歩き出した。

 客にさんざん『あと少しだ』なんて嘘を言っておいてその態度はいかがなものかと頭にきた少女は、半ば意地になってぐっと膝を抱く腕に力を込めた。


「……おら、そんなとこに座ってると獣に食われて終わりだぞ」


 肩越しに告げたくたびれたローブがゆっくりと夜に溶け込むのを見送っていた少女は、途端に聞こえ始めた森のざわめきにびくりと肩を震わせると、きょろきょろと辺りを見回して慌てて少年の背を追いかけた。

 だが、確かに先程少年が踏み越えたはずの茂みを飛んでも、そこにいるはずの彼の背は見えない。それどころか、闇の中にぽつんと立った自分以外は何があるのかもわからない。


「え……?」


 少女の胸を冷えたモノが滑り落ちる。


 ――と。


「なんだ、まだ動けるじゃねえか」

 突然背後で聞こえた声に、飛び上るほど驚いて。


「ひゃぃぃっ!?」

 生まれて初めて上げた悲鳴は、思ったよりも喉につかえた。


「あ、ばっ! な、何をしてるんですか!?」


 崩れ落ちそうになる身体を必死に両腕で掻き抱き、きつく睨む瞳にはうっすらと涙がにじんでいる。


「何って、仕事の真っ最中だよ。『とにかく外へ』――って、あんたが依頼したんだろ?」


 雨避けのフードを脱いで笑う少年に、少女は喉までこみ上げた怒りの声をぐっとこらえ、代わりに大きく息を吐いた。


「……きちんと人を選ぶべきでした」


 澄ました顔でフードを外し色の薄い髪をまとめ直す少女の泥まみれの指が少し震えているのを見ると、ディンは少し頭を掻いて。


「髪が汚れるぞ」


 それでやっと自分の手が汚れていたことを思い出したのか、閉口して己の両手を見つめていた彼女は、じとりとディンを見上げると素早い動きで少年の腕に掴みかかる。

 そして、無言でごしごしと。


「……まあ、いいけどさ」


 さんざん着古したローブなのだ。いまさら泥で汚された所で困ることなど無い――はず、なの、だが。ふんっと満足そうに笑った少女の勝ち誇った顔を見ると、ディンはその背のフードを金髪頭に無理やりかぶせて頭をはたいた。


「いたっ」

「行くぞ、ガキ」

「……子供なのはそちらだと思います」


 ふくれっつらの少女がきちんと後を付いて来るのを確かめると、ディンは行く手を遮る様に垂れ下がるスエの葉を彼女の通れる高さまで腕全体を使って持ち上げた。そうして露わになったその葉の向こう側の光景にぱちくりと目を瞬かせる少女に、彼はニヤリと笑って見せる。


「な、嘘じゃなかっただろ?」


 覗きこんだ彼女の輝く瞳には、目の前の岩肌が映っていた。

 それは、この距離からではその全体を視界に捉えることすらできない程に巨大な岩だった。足元で突然途切れた森の向こう、雨を吸い込み黒ずんだその岩のちょうど腰の高さ辺りに、これまた大きな割れ目が左から右へと延々と続いている。


 嘘か真か、ジオに伝わる伝説では巨人が南の谷から縄を括り付けて引っ張ってきた時の跡なのだというその空間は、成程確かに雨をしのいで横になるには十分な大きさであった。


「早く行け、重たいんだ」


 植物のすだれを支えていた少年は、その下でぼんやりと立ち止った少女を顎でしゃくる。 すると、その長い亀裂を向こうからこちらへと視線でなぞっていた少女がぽつりと呟いた。


「……これ、大分前から休めましたよね」

「だから言ったろ? 『もう少し』だって」


 からかうような笑みを浮かべたディンの顔を見て、少女はその場で腕組みをする。


「なるほどなるほど。つまりあなたは私が音を上げるのを待っていたということですか」

「ごちゃごちゃ言うな。とりあえずこいつを下ろすから、そこ、どけ」

「嫌です。もう少しそのままでいてくださ――うわっぷ!」


 頭の上に落ちてきた植物の束に埋もれぬように、少女はじたばたと両手を暴れさせてもがいている。


「悪いな、これ以上は別料金だ」

「ひどい! 何ですかこれ!」


 もがけばもがくほど絡め取られていく少女を見て、ディンは性根の悪い笑みを浮かべた。


「気をつけろ。そいつはスエの木っつって、葉っぱが獣の皮に引っ付くんだ。だから、たまにそうやって絡まったまま死んでる獣もいるぞ」


 そんな風にすっとぼけた顔で講釈を垂れる少年に、少女は低い声で。


「……そうじゃなくて、早く何とかしてください」

「ああ、それとその蔦の汁はレイシア姫ご愛用の香水にもなるんで、最近アホみたいに高く売れるな」


 それを聞いた少女は、肩の辺りに鼻をひくつかせる。


「まあ、その状態じゃ何の匂いもしないんだけどな」

「…………」


 小馬鹿にした口調を続ける渡しに、怒る気力も使い果たした少女が溜息を吐きだした。


「どうでもいいですから、早くこれをどけてください」


 木の枝に吊られた人形の様に両手を広げ、少女は愛読書で身に着けた知識を口にする。


「私、知ってるんですから。渡しの方っていうのは、届け先の渡し屋できちんと報告をして確認を貰わないと、後払いの分の報酬が受け取れないんですよね?」


 すると、顎髭を撫でていた少年の手がピタリと止まり、その目の光が闇の中を泳ぎだす。


「ん、ああ……そうだったかもな」


 それは、渡しが品物を持ち逃げしたり、客に乱暴を働いたりすることが無いように作られたシステムなのだ。数十年単位の昔に書かれた本の受け売りではあったものの、少年の態度で自分の知識を確信した彼女の顔に不敵な笑みが宿る。


「外に出たら、あなたの仕事ぶりはきちんと報告させて頂きますから」


 その言葉に、今度はディンが溜息を吐く番が訪れる。

 先程自分で言った通り、これは彼の仕事なのだ。他の渡しと同じく本業を別に持つディンではあったが、とはいえ国の認める渡しとして活動できなくなるのも困りものである。 


 というわけで。


「わかったから、そんなに怒るなって」


 軽く持ち上げた両手をひらひらと振り、ディンは囚われの少女に歩み寄る。


「それは、謝罪のポーズなのですか?」


 不可解なポーズで近づく男を訝しげに眺めながら、少女はぐるぐると蔦の巻きついた両腕を差し出した。袖から覗く白い手首が、折れてしまいそうに細い。


「ああ。これはこの辺りじゃ最高級に屈辱の格好だ。これだったらまだ犬のケツの匂いを嗅いだ方がましなくらいにな」


 適当に嘘を言いながら、ディンはローブの下から取り出したナイフでざくりと絡まった部分を切り離し、華奢な肩や小振りな頭に張り付いた蔦を引きはがす。そうして、高く売れると言うその蔦をローブの中にねじ込んだディンに、パタパタと身体を払い、フードを被りなおした少女が改めてぶつくさと言い始めた。


「本当、何で今日に限ってディンさんとやらがいないんでしょうか。せっかく腕のいい渡しを紹介していただけると思ったんですけど」

「うるせえな。ティッパーフィールド気取りもいい加減にしとけ」


 苦笑交じりに答えて背を向けたディンの背後で、少女がぴくりと反応する。


「!? え、あれ? なぜ私がティッパニスタだと?」

「あん? ティッパ……なんだそれ?」

「質問を質問で返さないでほしいですね。ティッパーフィールドの熱烈なファンをそう言うんですよ」

「へえ」


 気の無い返事をして横穴の方へと向かっていく少年に、少女は慌てて駆け寄った。


「私の質問に答えてください」

「はいはい」

「答えてください………ねえ、答えてくださいってば」

「……うるせえな」


 少女の執拗な問いかけにイラついたディンが不機嫌な顔で振り返ると、それまで彼のくたびれたローブを引っ張っていた少女はすばばっと素早く両手を頭の上で交差させた。


「あ、暴力ですか? 言っておきますけど、私はそんなものに屈しませんから」


 腕の間から閉口したディンを睨み上げた彼女は、彼が小さく頭を振ったのを見届けるとふっと笑みをこぼして姿勢を戻した。


「暴力は、やがて更なる暴力の前に屈するのみで――いたっ」

「そういう台詞が、いちいち『あの本』の引用だろうが」


 格好を付けた言葉の途中、少女のおでこを指で弾いたディンは腰に下げていた荷物を今夜の寝床の中へと放り投げる。


「あんたが契約書に書いたって言う『とにかく外へ』だとか、偉そうに垂れてくれた渡しの半端な知識だとか、ちょいちょい匂うんだよ、あんたの言うティッパ何とかっていう連中の匂いがさ」


「ティッパ・ニ・ス・タです」


 きっと赤くなっているに違いないだろう額をさすりつつ、少女は発音の悪い少年にはっきりと言ってやった。


「覚えておいた方が良いですよ。なにせ彼ら――いえ、私達は世界中でそう呼ばれ、皆がそう名乗っているんですから」


 誇り高く。と得意気に付け足して、彼女は横穴の縁にしゃがみこんだディンの手元を覗き込み、はっと息を飲んだ。


「何でもいいけどよ。勝手にあんたの『みんな』に俺を入れるな」


 そうつまらなそうに呟いた彼の両手の上に、うすぼんやりとした青白い光が輝いていたからだ。


「……何ですか、それ?」

「ん? ああ、目印だよ。生意気な女が足引っかけて転ばないようにな」


 成程、確かにその横穴の縁は岩の高さがばらばらで、いかにも足を引っかけて転びそうな――


「って、違いますよ。その不思議な光は何なのかと聞いているんです」


 この人わざとやってるんじゃないでしょうね、と少女はジロリと少年を睨んではみたものの、夜闇の中青白く照らし出された渡しの顔が思いの外不気味で目を逸らした。


「何って……何だ、知らないのか? ヒカリバナだよ――《ツキノオモカゲ》って言った方がわかりやすいか?」


「……え?」


 口が、ポカンと。


 濡れた岩肌に光を放つ物質を塗っていたディンは、そんな少女の表情をちらりとみやり。


「だから、光の海の、あの花だよ」

「あ、はい。え? それは分かってますよ、分かってますとも。分かってますけど、あれ? で、でもそれって、世界遺産なんですよね?」


 かつてトム・ティパーフィールドが自著の中で世界に紹介した、ツキノオモカゲの群生地――通称 『光の海』は近年世界遺産に登録され、ジオ王国にその保護義務が発生しているはずだ。それだけじゃない。少女にとってその花は、世界中を旅したかの有名な冒険家をしてもう一度見てみたいと言わしめた光景であるとともに、『光を放つ花などあるわけがない』と長年否定されてきた彼の冒険譚の真実を証明した、憧れの象徴なのだ。


 だから、こんな育ちの悪そうな不良少年がおいそれとその辺の岩に塗りたくって良いはずが無い……と、そこで、混乱した少女の頭に閃きが走る。


「はっはーん成程そうですか、わかりました、また嘘なんですね。甘いですね。もう騙されませんよ」


 前髪を両耳に掛けながら、少女はふふんと笑顔を作り、空の女神の名が彫られた指輪が輝く左の小指をぴんと立てた。


「コホン。遍く真実を見通す空神『シェーラ』よ、どうかこの哀れな嘘つきに祝福の矢を」


 母に教わった空の祈りを口にして大切な指輪に唇をつけて夜空に捧げると、少女は真剣な表情で頷いた。


「すみません、ダメでした。あなたの分の祝福は無いそうです」

「いるか、馬鹿」


 女神様も泣いていますよと両手で雨を受けて見せた少女を睨み付け、ディンは掌に余った光を彼女の前に差し出した。


「ほら、あんたの好きな世界遺産だぞ」

「別に世界遺産かどうかは関係ありません」


 あくまでティッパーフィールドと、彼の冒険への憧れなのだ――と言いつつも、少女はじっと彼の手の上で光る花を見つめてしまう。良く見ると、バラバラに崩された花の中で光を放っているのは花びらではなく、その他の植物的な部分である事が見て取れた。


「あの……これ、本当に本物なんですか」


 立ち上がった少年をちらりと上目で伺いながら、少女の頭の中は目の前の不思議な花を喜んでいいのかどうかで揺れていた。

 彼女のそんな様子を見て、ディンは逡巡。


「なんつうか、あんたの言う本物ってのとは違うけどさ、間違いなく同じ花だ」

「? えっと、それは、どういうことですか?」

「そいつは確かに《ヒカリバナ》なんだが、光の海に咲いてるもんじゃなく、昔家の周りに植えた奴を、さっき採ってきたもんだってことだ」

「!? 植えたって言っても、元々は光の海の物なんですよねっ!?」

「ああ」

「は、犯罪じゃないですか!? 保護協定違反です!」


 てっきり喜ぶと思った少女から責める様な事を言われ、ディンは小さく肩をすくめる。


「昔の話だからな。遺産どころか、観光客なんか、あんたの言うティッパなんとかがたまに来るくらいだったって」

「で、でもですね――」

「それに、俺がその辺に植えて回ってたのはウチの姫さんも知ってるしな」


 『これは命令よ。私にもちょうだい』と笑ったレイシア姫にふざけて『ははあ』と跪き、二人で城の庭に植えたのだから当然だ。

 もっともそちらの花は未だに光ってはいないので、何とでも言い訳は効きそうだが。


「ええと、あの……」


 少女は何度も瞬きを繰り返していた。

 バラバラになった花びらだけとはいえ、憧れ続け思い続けながらも諦めていたその光景の突然の登場に、正直異国の少年の話など頭に入ってこなかったし、自分が何を言っているのかもイマイチ掴めない。つまり少女は上の空。頭の中が真っ白だ。


「あの……それでは、これは本物のツキノオモカゲということですか?」


 少年の手から摘み上げた光の屑を己の手に乗せ、両手で囲う様にして鼻に寄せる。

 無臭だ。


「どうだろうな。ヒカリバナには違いねえけど、あそこに咲いてる――いわゆるツキノオモカゲって程には光ってないしな……ほら、入って来いよ。風邪ひくぞ」


 横穴の中に身を屈め寝床の準備をしながら、ディンはやや上気した顔で手の中を見つめている少女に声をかけた。


「あ、はい」


 光る縁に足をかけ、差し出した手を握った金髪は拍子抜けするほどに軽かった。

 そうして、壁に寄り掛かったディンの隣、先程敷いた薄い布の上に手探りで腰を降ろした少女は、頭の中を整理するようにこくこくと頷き、あの一節を思い出す。



 《ペステリア歴 二百十二年 三月八日


 長く柔らかい雨が終わる季節、透明な月がその役目を終える頃――

 ――葉っぱの間からしとしとと落ちる雨の名残を抜け、暗い森の向こうに沈む月に誘われると、突然目の前から道が消えた。足元には切り立つ崖。そこが目的の街とは別の場所だなんてことはすぐに分かった。有体に言えば道を違えたのだ。

 舌打ち代わりに蹴った石ころが崖を転がり落ちる様を見ようとして、俺は息をのんだ。

 崖の下は見渡す限り、淡い光の海だった。

 さっきまで空のむこうにあったはずのお月様が、俺の足元に落ちていた。

 ガキの頃、朝になると月はどこに行くのかと考えたことがあったのを思い出す。

 それが多分、ここなんだ。この崖下で月はゆっくりと休んでいたのだ。

 このあてどない旅の間、世界って奴は何でもありなんだと何度も肝に銘じたつもりだったが、さすがにたまげた。

 それは、笑っちまうくらいに綺麗で、呼吸を忘れる程にドキドキして、吸い込まれちまいそうに怪しくて。

 それに、すごくやさしかった。

 不意打ちだった。俺はその場に崩れ落ちるように膝をついて、無様に泣いた。

 親を見つけた迷子の様に、笑いながら、泣いていた――》

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