第2話 旅立ちは雨の日に

 街に八つ鐘が響くころには、雨は本格的に降り出していた。


 普段ならば国一番の渡しに明日の注文を伝えがてらおいしい酒と美人店主に酔っていく客で中々の繁盛を見せる街外れのジェシカの店も、明日に迫った王女様の結婚式の下準備と降り続く雨の前にはなす術もなく、静かな夜を迎えていた。


「……しかし、『助けろ』っつってもな」

「おやおや? ディンにしては珍しく気にしてるみたいじゃないか、あの子の事」


 頬杖を付いたまま呟いた黒髪の少年に、カウンターの中の女店主がいたずらっぽく笑いかける。


「……そういうわけじゃねえよ」


 口を歪め不機嫌に答えるディンに対し、ジェシカはカラカラと小気味良く笑って。


「そうだね、あんたは王女レイシア様にお熱だもんねえ?」

「………あのな」


 気色ばんだディンの声に、ジェシカは楽しげにおどけて見せる。


「あはは、わかってるよ。あんたは『あの二人のデートのお手伝い』だったんだろ? まったくさすがだね、ジオ一番の渡しさんは身分違いの恋も実らせちまうんだからねぇ?」


「昔の話だ」


 見透かしたような瞳で覗きこまれ、ディンはうっとうしげに視線をそらした。


「しっかし不思議なもんだよね、往来の真ん中で姫様相手に喧嘩してたガキがいつの間にやら騎士団長になったと思ったら、今度はその姫様とご結婚かい」


 若い若いと言って肩を竦めたジェシカに、頬杖をついて呆れた顔のディンが苦笑を返す。


「レイシアと喧嘩って……んな昔の話、良く覚えてるな」

「あったりまえだろ? ちょっと列に割り込まれたからって王女様に喧嘩売る馬鹿なんか、世界中探したっていやしないよ。それでいてあっという間にレイシア様にのされちまったのが今じゃ騎士団長だってんだから、今だに酔っ払いのいい肴だあね」


 ジェシカはふふっと笑って、しなやかな仕草でグラスに氷を落としこんだ。


 ――市場を視察に来たお姫様に喧嘩を吹っかけたガキがいる。


 その当時も一部始終を目撃していた市場の人間を中心にそれなりに盛り上がっていた話題だったが、そのガキが若者になった今では、王女と未来の国王の出会いのエピソードとしてこの国の人間で知らない者はいない話になっていた。


 それ程に、昨年出版された二人をモデルにした恋物語は売れに売れた。なにせ、ジオが大量印刷技術を外国から本格的に導入して以来、初めて国外向けに翻訳された出版物がそのラブストーリーだった位だ。


 そして、この店でその思い出を語る者は決まって最後にこう言うのだ。


『そういや、あん時どさくさに紛れて果物を盗み食いしてた悪ガキもいなかったっけ?』

『ああ、いたいた。そんで姫様にすんごい剣幕で怒られて、投げ飛ばされてた目つきの悪いあのガキだろ?』

『そうそう。例の本じゃ、お二人に横恋慕して谷の賊を討伐に行った団長様を罠にはめちまう目付きの悪いあのガキだ』

『いやいや、悪い奴もいたもんだ』


 そんな風に、店の隅から睨み付けてくる目つきの悪い少年をからかって遊ぶのが最近の酔っ払いの流行だった。


 知らぬ内にどこかの誰かが書いた物語の中で恋敵役にされていた少年は、空になったグラスを回してつまらなそうに舌打ちをした。すると、くすり、と笑う声がカウンターの向こうに聞こえ、ディンはしかめっつらで睨み付けた。


「……何だよ?」

「ふふ。ねぇ、ディンちゃん? ところでさあ、例の谷の賊を鎮めたのは、本当にあの騎士団長様だったのかね?」


 妙に色っぽい声を作ったジェシカに、ディンは呆れ顔で首を振った。


 ジェシカが言うのはちょうど二年前の一つの出来事――南部の谷に住む『ならず者集団』をジオの騎士団が壊滅させた事についてだ。例の本でもストーリーの山場として使われているこの出来事によって晴れて世界連合の仲間入りを果たしたジオは、今やただの田舎の王国から、世界に名だたる観光大国へと変わろうとしていた。


 いくら互いが想いあっているからとはいえ、平民出身の宿屋の息子が騎士団長という役職に就いたのも、姫との結婚を認められたのも一重にこの功績があってのことなのだ。


「……何が言いたいのか解らねえけど、誤解するな、あいつは強い。あの若さで騎士団長なのは伊達じゃねえよ」


「なんだい、連れないねぇ。今夜こそは聞かせてもらえるかと思ったんだけど……やっぱりもう少し飲ませときゃよかったかな?」


 くすりと笑ったジェシカは、手にしたグラスの氷をくるりと回し、ふと眼差しを緩める。


「……でもさ、あんたはホント、良くやったよ」


 カウンターの上、頬を支えるディンの指がぴくりと動いた。


「全くね、技術革新ってやつには恐れ入るよ。こんなちっぽけな氷だってさ、ちょっと前じゃあ考えられなかったんだからね。それが今じゃあ、こうして好きな時に酒のお供をしてくれるんだから驚きだ。……でもさ、ねえディン、そんなのもきっと、いちいち全部が、あんたらのおかげなんだよね」


 言って、ジェシカは掌の中のグラスを仏頂面の少年の頬に押し付けた。


 技術革新とは、大地の下を走る地脈の力を生成した『脈晶』を媒体にして様々な動力を生み出す『魔導機関マギア』が開発された事。その技術を独占している世界連合への加盟によりついにこの国にも魔導機関が交付されたことで、化石の国とまで呼ばれたジオの人々の暮らしは、念願の近代化を遂げつつあった。

 国を覆う深い森には街道が整備され、どの街からも日に一度は魔導機関を積んだ自走車が王都へ向けて駆る時代がやって来たのだ。


 頬に当たる冷たいグラスの感触から逃げる様に、少年はひょいと身を反らす。


「……ふふ、いいよ、別に何も言わなくて。あんたにとっては辛い仕事だったろうからさ」


 優しく微笑んだジェシカの顔がランプの灯りに照らされて、壁に掛けられたいくつもの花環の中に寂しげな影を落とし込む。


「……俺は渡しだ。割の合う仕事を持ってくりゃ、誰だろうとどこだろうと案内してやる。それだけだ」


 少年の呟きに合わせる様に勢いを増した雨脚が一際高くその音を響かせると、窓を見ていたジェシカがふっと笑みを漏らした。


「………ねえ、ディン。こういう日は何だか思い出さないかい? 確かあんたが――」


 と、その時。


 ――トントン。


 静かに、雨音よりも遥かに強く、旅立ちを告げる鐘が店の中に響き渡った。


「夕方に予約をした者です」


 夕刻のたおやかな声とは違う、凛と張った声が扉の外からはっきりと聞こえる。

 それは、間違いなくこの国の言葉だった。

 訝しげに入口を振り返ったディンが、肩を竦めて顎で扉をしゃくるジェシカに促されて席を立つ。


「開いてるぞ」


 取っ手に手を掛け、ぐっと外へと扉を開く。


「きゃっ」


 すると、こつんと額にぶつかった扉に驚いたように悲鳴を漏らしたお嬢様が、泥だらけのローブの下の目を白黒させた。


「……悪い」


 扉を押さえ続けるディンを睨み上げ濡れたフードを外したお嬢様は、用心深く店に足を踏み入れる。


「ええと、できれば急いで頂きたいのですが……」


 落ち着きなく右に左に視線を走らせる彼女を見て、渡し屋の女主人は大きく頷いた。


「そうだね。あんた、もう行けるかい?」

「んなもん、八つ鐘はとっくに鳴ってるだろうが」


 さすがだね、とジェシカから放られた荷物を受け取ったディンは、一瞬少女に視線を走らせ扉へと向かう。無言でフードを被り直してその背に続こうとした少女を、ジェシカの声が呼び止めた。


「ちょい待ちお嬢ちゃん、これをあげるよ」


 扉の手前で追いついた彼女は少女の汚れたローブをたくし上げ、その細い手首に小さな花の輪を結んだ。


「……これは?」

「なあに、おまじないみたいなもんだよ。こっちのは外の馬鹿に渡してやって。大丈夫、あんたは本当に運が良いよ。頑張りな」


「あ……はい、ありがとうございます、大切にします」


 緊張気味の顔で丁寧に頭を下げた少女は、外で待つディンの元へと小走りに駆け寄って行った。そうして扉の向こうで再び深く頭を下げた少女に対しジェシカが軽く微笑むと、雨空を見上げていた少年もひょいと片手を上げてきた。


 バタン、と音を立て、扉があっけなく閉まる。


「旅立つなら雨の日……か」


 苦笑交じりに呟きながら、ジェシカは扉に向かって手を振った。その昔、あの獣のような目をした少年と出会ったのもこんな雨の日だったと思い出しながら、誰もいなくなった店の中、しばらく後まで手を振り続けていた。

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