5月8日 結婚前夜
第1話 雨の王都
一 旅立ちは雨の日に
ペステリア歴二百六十六年 五月八日
「あちゃあ、こりゃ降りそうだね」
とても独り言には聞こえない声量で呟いて、扉から空を見上げていた女性が店の中へと戻っていく。
そこはジオ王国の王都ジオの街外れにある小さな酒場である。と同時に深い森に抱かれたこの国特有の仕事――《渡し屋》を営む店でもあった。渡し屋とは要するに街の人の依頼を受け、手紙や商人や旅行者などのヒトやモノをあっちの街からこっちの街へと渡す商売だ。
時代の変化と共に廃れかけた商売とは言え、いよいよ明日に迫った麗しの王女様の結婚式のために一月ほどお祭り騒ぎが続いていたこの店も、今夜は奇妙に静かであった。
雲の様子をうかがっていた『お姉さん』と呼ぶべき年頃の女性の手によって薄暗くなった店内にランプの灯が点されていくと、木組みの壁を彩る飾り布や凝った造りの花環達がその陰影を濃くし、棚に並べられた色とりどりのビンが幻想的な影を撒き散らし始める。
「明日の式は晴れるといいんだけどねえ」
店の中に客は一人。歪んだ木をそのまま利用したカウンターに腰掛け、女性の呟きに興味も示さずぼんやりと頬杖を付いているその少年の背に彼女はツカツカと足を進め、獲物をしとめる鳥の様に広げた両手を一気に彼のこめかみにぶち当てた。
「雨が降るのかって聞いてんだけどなあ!?」
「ぬあっ、痛え! 痛えって、離せジェシカ!」
少年の頭ををぐりぐりと拳で締め上げ、去り際に後頭部にチョップをくれてからカウンターの中へと入っていく店主――ジェシカの攻撃で涙目になった少年は、こめかみをさすりながら年若い女店主を睨みつけた。
「いってえなちきしょう。……降るよ、降りますよ。一晩中雨で、少なくとも明日の朝まではあがんねえな」
「聞こえてんなら返事しやがれってんだよ、アンポンタン」
「ああ、悪かった。まさか週末の夜だってのに他に客がいないとは思わなかったからさ」
「だからあんたが帰ってくれりゃ、店じまいできるんだけどね?」
「はっ、俺がいなきゃ商売になんねえだろうが」
丸太を真っ二つに割って作られたカウンター越し、二人は慣れた様子で軽口を叩き合う。
ここ最近、王女の結婚式を目当てに街に溢れた観光客のおかげでずいぶんと稼いだ腕利きの《渡し》であるその少年も、久しぶりに訪れた休暇の予感に上機嫌な様子だった。
棚から取り上げた四角い瓶から琥珀色の液体を注いだジェシカは、コトンという音を立ててグラスと共に腰を下ろした。
「どっちにしたって、今日はもう客なんか来やしないね。嵐の前の何とやらさ、みんな明日に備えて内臓を休ませてんだろ。あんたも今日は終いにして飲んでくかい?」
「……いや、こういう日は誰か来るかもしれねえからな、もう少しだけ待ってみる」
グラスを持ち上げて見せたジェシカに対し、再び頬杖をついて扉をちらりと振り返った少年を彼女は笑った。
「『旅立つなら雨の日だ。去りゆく足跡を消してくれる』ってか? 今時いやしないよ、そんな奴」
ジェシカの諳んじた有名な冒険譚の一節に、黒髪の少年は鼻白む。
「……別に、そういうつもりじゃねえよ」
「おやおや、とぼけちゃって、丸暗記しちまう程好きなくせに」
カウンターに身を乗り出して、ちょこんとその生意気な鼻を突いたジェシカはくすくすと笑った。
「触んじゃねえ」
「おお、怖。お姉さまに触られてドキドキしちゃったのかな?」
ちょっと刺激的すぎたかしらん、などと言いながら自慢の胸元を押さえる女店主に溜息を返した少年――ディンは小さく舌打ちをし、ゆっくりと席を立つ。
「あれ? 何さディン、もうちょっと見て行ったっていいんだよ?」
「うっせえな、トイレだよ、トイレ」
「あはは! そう怒るなって、ああ、ついでに閉店の看板を出しちゃってくれるかい?」
「へいへい、了解」
ひらひらと片手を上げたディンが、店の外にあるトイレに向かおうと木製の扉に手を掛けたその時。
「失礼」
声と同時、ぐいっと扉が外に向かって開かれた。
「……あぁ?」
カラリンと言う鐘の音と共にぬるりと店に入ってきたローブの男を睨め上げて、ディンは訝しげに首を傾げる。
「あ~らいらっしゃい。運のいいお客さんだね。ほらあんた、お客さんの邪魔をしない」
途端に愛想のいい笑顔を浮かべた店主を振り返ったディンは、三人組のローブと店主の顔を見比べると、肩をすくめてグラスを手に取り壁際の席へと移動する。
「あれ? もう降ってきたんですか?」
店先でローブを脱ぎ始めた先頭の男から僅かに滴る水滴を見て、ジェシカが声を掛けた。すると、男はくいっと眼鏡を押し上げて柔らかく微笑み、彼の横に並んだ地味な男がぼそぼそとその耳元に口を寄せた。
「『はい。つい先程から降りはじめました。良かったですよ、これを着ていて』」
育ちの良さを伺わせる物腰と品の良い発音で喋った眼鏡男の言葉を、澄んだ声の従者が訳す。
「あら、もしかして外の人? お国はどちら?」
にこやかに微笑むジェシカの言葉が別の国の言葉に変わっていく間に、最後の小柄な一人が扉をくぐる。濡れたフードを外してみると、長い金髪の少女だった。
「『ピスタティアから参りました。この度は、レイシア姫様のご結婚、大変おめでとうございます』」
宗教国ピスタティアらしい美しい礼をする三人の影が、ランプの灯りでゆらゆらと壁に映し出される。するとその影に重なるように背中を丸めてちびちびとグラスに口をつけていた少年が、尖った声を投げかけた。
「で? こんな店に何の用だ? お堅い国のお偉いさんが、お子様連れで飲みに来たってわけじゃあねえんだろ?」
ほんのりと頬を赤く染め、見透かしたような物言いで壁にふんぞり返ったディンは、顎で真ん中の少女を示す。
年の頃は十四、五といった所だろうか。
『神々しい程に美しい』――そう言ってしまえば聞こえは良いが、病的な程に白い肌と痩せた頬が全身から溢れる気品と相まって畏怖の念さえ感じさせる様な、そんな美しさを持つ少女だった。
腰まで届く長く柔らかな金髪に縁どられた横顔には、ピスタティア出身ということを抜きにしても酒を嗜みそうな雰囲気は感じられない。
背の高い眼鏡男が何かを喋っている間、ふいに少女の冷たい瞳が壁際のディンを捉えた。
「『ご明察です。今日は観光のお願いに上がりました。こちらのお嬢様が是非 《光の海》をご覧になりたいそうでして』」
男の言葉が通訳によって伝えられる。
「ああ、成程ね、了解したよ。で、出発はいつにするんだい?」
しかし、にこやかに微笑んだジェシカの顔は続く男の言葉に苦笑に変わった。
「『できれば、今夜』」
「あはは……う~ん……今夜ってか? どうだい、そこの?」
問われたディンは、呆れた顔で通訳の男の顔をしゃくる。
「おいあんた、お前はこの国の出じゃねえのかよ?」
「……いえ、私はピスタティアの者です」
明らかに年下のディンに対しても礼を払い、ピスタティアの色髪通訳は答えた。それでもジオの若者は横柄な態度を崩さずに首を振る。
「ああ、そうかい。んじゃ、そっちのお嬢ちゃんに伝えてくれ。『アホか』」
少年の尖った声と言葉に詰まった通訳を見て、聡明なお嬢様はたおやかな声で何事かを彼に話しかけた。
「ええと……『何か、失礼なことがあったでしょうか? そうでしたら謝ります』と」
「いえいえ、ごめんなさいね。この馬鹿が勝手に酔ってるんですよ。オホホ」
ジェシカは客に向けた顔の右半分で笑いながら、残りの半分でディンを睨み付ける。さすがに少々罰の悪い顔をしたディンは、軽く自分の頭を叩いてからピスタティアの一団に向き直った。
「いくら積もうが今夜は無理だ。この雨じゃ今から出発したって光の海に着くのは明日の昼になっちまう。あれは昼に見たって意味ねえし、第一あんたらは明日の結婚式に呼ばれてるんだろ?」
言って、ディンが壁に掛けられた花環をぽすりと叩いて見せると、眼鏡の男は困ったように首を捻る。
「『この店にいるディンさんと言う《渡し》ならば、今夜中に光の海まで行って、明日の式には戻ってこられるという評判を伺ったのですが』」
「う~ん……悪いんだけど、あいつは今日は別の客に付いててね、さっき森の向こうへ渡しに行ったばっかりなんだよ」
これまた困った顔を浮かべたジェシカが、申し訳なさそうに言葉をつなぐ。
「ていうわけで、今日のところは勘弁だよ」
通訳が訳す説明を聞いていた一団の中で、最初に言葉を発したのは僅かに思案した様子の少女だった。
「『では、先の予約はできますでしょうか』」
見た目に違わぬ落ち着いた声に、ジェシカはカウンターの隅っこでグラスの液体を舐めるディンを一瞥すると、苦笑を返した。
「まあ明日になったところで、ウチにはあの子しかいないけどいいのかい?」
その言葉に、少女の表情が僅かに輝く。
ジオ以外の異国語を解さないディンには意味不明な音の塊を吐き出しながら、観光目当てのお嬢様は嬉しそうにカウンターに近づき、ジェシカのつたないピスト語を頼りに契約書へと記入していく。
「ヤー、ヤー、トッテモステキデスネー、そうですか、ジエナから船に乗るとはお目が高いデース! ええと、ええと、ああ、はい、はい…………ダイジョブデース、マカセテクダサーイ。ちなみに前金は三割デース! あら、お嬢さんお金持ちネ! ……………おい、そこの酔っ払い。お嬢様達は明日の夜 《光の海》を見て、ジエナから船でお帰りだそうだ」
「ジエナ? ああ、北ね……わかった、了解」
「……はぁ、あんたね、酒はそれぐらいにしときなさいな」
呆れた口調ながらも客の背に向けてにこやかに手を振った女店主は、去り際にちらりと眼差しを向けてきた少女にこっそりウインクを返し、少年の前に先程結ばれた契約書を置く。
閉まる扉を見ていたディンは、あくび交じりに呟いた。
「結構降ってきやがったな」
「だね。まさに旅立ちには相応しい夜になりそうだよ。去りゆく足音なんざ、だーれにも聞こえやしないってね」
くるりんと指を回してにやけたジェシカに見つめられ、壁にもたれた少年は面倒臭そうに視線をそらし、背後の花環を拳でしめす。
「……つうか、パスだって言ったろ? 怪しい匂いがしてしょうがねえよ、あいつら」
壁に掛けられたいくつもの花環の内、イロスナ、チヨラン、カゲヒツギの花をアマウリの蔓で紡いだそれが意味するところは『不信と拒絶』。先程彼がそれに触れたのは、花で言葉を紡ぐジオの民にとっては『やばいぞ、断れ』といった意味合いだった。
「まあね。確かに嫌な感じの男だね……でもさ、あの娘――」
ジェシカはそこで言葉を切って、トン、とカウンターの上に置かれた契約書に指を置く。
「綺麗なジオ語を書きなさる。何だかちょっと、面白そうだとは思わないかい?」
つられるように視線を紙の上の文字列に落としたディンは、眉間に深く皺を寄せた。
「……どういうことだ?」
「さあね。とにかくただの浮かれたお嬢様って訳じゃなさそうだ。何せあの子の希望したのは――」
腰に手を当ててニヤついていたジェシカの指が、契約書の文字を踊る様になぞりだす。
「――時刻は今夜八っつ、女一人、とにかく外へ」
『とにかく外へ』――それは、旅立ちにはいつも雨の日を選んだという男が遺した、かの有名な冒険譚の始まりを告げる言葉だった。
偶然かどうか雨の日に訪れた客が残したその一文に、ディンの瞼が反応する。
「……『外へ』って、光の海が見たいんじゃなかったのか?」
「事情があるんだろうさ、事情が。どうする? ディン? もう一杯飲んでお嬢様をお待ちするかい?」
「……やめとく。ジェシカ、何か酔いの醒めるやつを」
「あいよ。八ツ鐘まではウチの奢りだ」
カウンターの上に積まれた果物の山からオリッジの実を一つ取り掌の中でナイフを回すジェシカに、契約書とにらめっこしていたディンがふと声を掛ける。
「なあ、ジェシカ」
「ん? 何だい?」
「これ、最後のところは何て書いてあるんだ?」
ディンが指差したのは契約書に走り書きされた中の最後の一文。徐々に震えが大きくなるような文字列の中で、その乱れが頂点に達したかのような感情むき出しの殴り書き。
「ああ、それかい? それは多分――」
ジェシカは視線を手元に落としたままで、瞬きを一つ。
「――『助けて』だ」
ストン、と
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