第2話 峠の怪物

 1

 春先に芽吹いた葉が濃い緑と変わりつつある山の中を、荷物を乗せた馬達を囲うように武装した男達が付き従って歩いていた。繁栄を誇るように茂る木々を切り開いて造られた街道は、馬車を使うには狭く勾配がある。その道の行き先を見れば、南から北に掛けて連なる山峰の僅かに低くなった峠を目指していることが知れるだろう。時折吹く山特有の冷たい風が、俺を含む人馬達の火照った身体を癒す安らぎとなっていた。

「気持ちのいい光景だよな。だが、こんな綺麗な場所に人間を食う化物が潜んでるってんだから。街の外は本当に油断が出来ねえな!」

 俺の隣を歩む男が良く言えば気さくに、悪く言えば馴れ馴れしく声を掛けてきた。彼は古びてはいるが、要所を板金で補強した鎖帷子を纏っており、両手で扱う戦斧を肩に担いでいる。腰には予備と思われる長剣も帯びており、かなり重武装の戦士だ。それ以外にも私物を入れた背負い袋を身に付けていたが、山道に難儀しているようには見えない。俺も背丈は人並みにはあるのだが、そんな俺よりもこの男は頭半分も背が高く横幅も広い。彼はその見た目どおり体力に恵まれているようだった。

「まあ、街の外はそんなもんだろう・・・むしろだからこそ、安全に過ごせる街を・・・人間は造り上げたって言えるんじゃないか?・・・それとラース、俺はお前ほど体力に自信はないから・・・返事がキツイ!」

 いつもは行商人らしく丁寧で謙った口調を心掛けている俺だが、この大柄の戦士ラースとは歳が近いこともあって忌憚なく受け答えた。日に焼けた彼の顔は精悍な印象を与えるが、大粒の目はあどけなさを残しており純真な少年のようにも見えた。

「なるほど、そういう見方もあるんだな。やっぱり、あんた一人で行商人をやってるだけあって、頭が切れるみてえだな!もっとも、体力はねえがな!ははは」

「ふん!」

 ラースの笑い声に俺は鼻息で応える。笑われたが、不思議なことにそれほど腹も立たないし嫌味もない。おそらくは感じたままに受け答えただけなのだろう。こいつは逆に頭は切れないが、思っていることをそのまま口にしても人に嫌われないという奇妙な才能を持っているようだ。とは言え、体力に関しては抗議を入れたかった。俺がヘタレなのではない。お前が体力馬鹿なだけだと。

 俺は薬を扱う行商人でもあるので、背負い袋には限界近くまで多数の薬を詰めていたし、それ以外にも極めて重要な魔道具も隠し持っていた。また護身用として腰には片手剣を帯びて、身体も鉄の鎧こそ纏ってないが厚手の革胴着を防具として着込んでいる。この格好で山道を登っているのだから、お喋りをする余裕がある方が異常なのだ。

「まあ、あんたとは一緒に見張りに就くことになってるからな。後でゆっくり話そうや!」

「・・・そうしよう」

 最後にそれだけを伝えると、俺は山道を登るのに集中した。


 俺とラースは、リデミア大公国とバーレガル王国を結ぶ山道を行く隊商に加わっている。基本的に単独行動を好む俺だが、今回に限っては隊商のリーダーに頼み込んで峠越えに参加させてもらったのだ。何しろこの山道には謎の怪物が現れるという噂があり、これまで消息不明となった隊商や旅人が何十人も出ていたからだ。

 俺も片手剣の扱いには多少の心得があるが、それは対人戦に対してだけであり、一人で正体不明の怪物に立ち向かうほど勇敢でも愚かでもない。そして、隊商側も人が増えればそれだけ警戒の目が増えることでもある。旅慣れた薬の行商人で、ある程度は戦えると評価された俺は隊商の一員として参加することを許された。また、この隊商は機会があれば怪物そのものを討伐しようとしており、事態に備えて荒事を引き受ける無頼の冒険者や傭兵達を多数人雇っていた。ラースはその中の一人で、俺達は事前の取り決めで歩哨の時は一緒にコンビを組むよう言い渡されていたのだ。

 そして、なぜ俺がそんな危険を冒してまで峠を越える必要があったのか?これについては話を二日前まで遡る。

 

 2

 エルフの壷に関する狂言事件があった街、ウェスナーを後にした俺は、その翌日には国境の街カルデンに辿り着いた。カルデンも地方領主が治める田舎街ではあるが、ウェスナーと比べれば二回りは発展している。理由は隣国のバーレガル王国の鉱山街シュゲルと交易があるからだ。鉱山街であるシュゲルは食料の生産力に乏しく、街の人々の食を外部に頼っている。カルデンはシュゲルの鉄を始めとする鉱物資源と引き換えに食料を卸して富を得ていた。

 外国に食料を求めているシュゲルの街ではあるが、シュゲルを擁するバーレガル王国とカルデンを擁するリデミア大公国は、大陸東方地方にかつて存在した古の帝国バーニスの流れを汲む姉妹国家であり、経済活動だけでなく政治的、軍事的にも結び付きが強かった。本来、両国の取引は南の海に面した海岸沿いの街道や船を使った交易が主流とされているが、内陸部でも二つの国を分けるエルド山脈を越えるほど取引が活発であったのだ。それ故にカルデン、シュゲル間は両国の裏街道とされていた。

 そして、バーレガル王国は俺の生れた祖国でもある。しがらみのない自由な生き方を求めた俺は、一人前の歳になると故郷の家を出て冒険者となった。その過程で所有権が存在しないであろう、古代の宝物回収を専門に扱う盗賊となり、苦労の末に例の黄金の神殿を探し当てて〝あの女〟の従僕に成り下がったというわけだ。自由と栄達を求めた結果がこの様とは・・・人生とはなんとも上手くいかないものである。

 当初は盗賊時代から活動の拠点としていたリデミア大公国で主人に捧げる〝ネタ〟を集めていた俺だったが、契約が一年目を迎えた辺りで限界を感じ始める。何しろドラゴンは控えに見ても人間より頭が良い。記憶力も抜群らしく似たような話は使えない。常に新しい話題を仕入れる必要があった。リデミア大公国は決して小さな国ではないが、それでも一年が経つ頃には多くの街を巡り尽くしていた。このような理由により俺は大公国の西側に位置し、土地勘もあるバーレガル王国に足を向けた。特に王都マイゼラは東方地方最大の都市である。良くも悪くもこの街には様々な人間が集い、多くの人生の喜怒哀楽を包み込んでいる。王都に辿りつけば、〝あの女〟が聞きたがる逸話や謎に事欠かないだろう。もっとも。週一度の期限はそれまで待ってはくれない。俺はカルデンの街でも早速、仕事を開始したのだった。


 いつものように中程度の旅籠屋に一人用の客室を確保した俺は、噂を求めて夜の酒場へと繰り出す。この時はドラゴンに報告する約束の曜日である金の日まで五日の余裕があり、俺は収集と吟味に余裕を持って当たることが出来ると思っていた。

 出足は順調だった。いつものように退屈気味の酔客を見つけ、情報交換を装いながらそれとなく街の近況と噂話を探る。長年この街で荷馬の世話をしているという中年の男が語ってくれた、シュゲルとカルデルを結ぶ峠の街道に謎の人食い化け物が出現しているという話を聞いた時、俺は密かに心躍らせたものだった。これは使えそうだと。だが、より詳しい話を聞き、更に別の酒場を渡り歩いて複数人から情報を集めた段階で俺はそれが直ぐには使えない〝ネタ〟であると判断しなければならなかった。

 当初の予定では街で語られる噂を元に怪物の正体を〝あの女〟に推測させようと画策していたのだが、出て来る情報は未解決なこともあり決定的な要素が掛けていた。それでもこれまで情報を纏めるとこのような時系列となった。

 一カ月前からシュゲルに向かう隊商の幾つかが消息不明になっていたこと。無事にシュゲルから帰って来た隊商もいるが、無事だった隊商はまったくの無傷で怪物の影も形も見ておらず、当初は何か別の理由で街道を外れて遭難したか、山賊にでもやられたのだと思われていたこと。それでもカルデンにとってシュゲルとの交易は街の繁栄に必要な産業である。行方不明者の捜索と山賊退治のために冒険者が雇われた。そしてこの捜索によって、峠越えに参加していた商人の死体が発見される。

 それは誰が見ても異様と思う死体だったと言う。見つかった犠牲者は全身の血を抜き取られたか、吸われたような変わり果てた姿となっていたのだ。山賊がいくら人の道から外れた悪党だったとしても、こんな殺し方をするはずはなく。この事実によって初めて人外の怪物の存在が知られた。これらは俺がカルデンの街に着く一週間程前に判明したことだった。

 人間の血を求める怪物としては吸血鬼が有名であるが、発見された死体が再び動き出すようなことはなく。幸いにして吸血鬼の疑いは直ぐに否定された。それに隊商襲撃が吸血鬼によって行われたとすれば、カルデンの街は対策を取る暇もなく吸血鬼によって征服されていただろう。吸血鬼とはそれほど狡猾で強大な怪物なのだ。まあ、怒らせた金色の古龍に比べればまだマシな部類なのかもしれないが・・・。

 話は逸れたが、街で手に入れられる情報で判明したのは、国境の峠に人を襲う怪物が潜んでいるのは間違いないが、その正体は不明という中途半端な状態だったのだ。そして怪物の存在はカルデンの街にとっても不幸の種だが、俺にとっても頭の痛い問題となった。何しろ街の景気を左右する大きな障害だ。カルデンの繁栄はシュゲルとの交易があればこそである。この噂は街の死活問題として住人達最大の関心事になり、それによってこれ以外の話題がシュゲルの街から消えて忘れ去れるとういう事態になっていた。

 もちろん丹念に聞き出せば、しばらく前に南の海岸沿いに作られた主街道が再整備されて、地域を巣食っていたゴブリン族が討伐された等の話もあるにはあったが、謎を好む〝あの女〟がこの程度の噂話に満足するとは思えなかった。しかも、カルデンの街に見切りを付けて次のシュゲルに期待しようにも、その道筋の半ばに問題の怪物が居座っているのである。俺は進退窮まる状態に追い込まれたのだった。

 焦る俺だったが、これまでの経験で諦めずに何かしらの行動を起こせば活路が現れることも知っていた。そのような理由で俺はもう一つの顔である薬の行商人として、この街の薬店に手持ちの薬の売り込みに出たのだ。薬師は商人ではあるが、知識人階級でもある。酒場の酔客とは違った交際関係を持っている。それに賭けたのだ。

 この試みは打開策を見つける結果となった。俺が売り込みに行った薬店はこの街の領主の遠い親類で、大物商人との伝手を持っており、俺が早くシュゲルに向かいたいと思っていることを伝えると、護衛を充分に用意した隊商がまもなく出発することを教えてくれたのだ。

 俺は直ぐにその商人の元に出向き同行を願う。運が良ければ冒険者達が怪物を倒してその正体を暴いてくれるかもしれないし、峠越えは二日の日程なので最悪でも金の日までにシェゲンに辿り着くことが出来る。シェゲンでも怪物の話題でもちきりの可能性はあったが、シュゲルは鉱山街だ。そちらの方面での逸話ならそれこそ掘り起こすことが出来るだろうと思われた。

 これが峠越えの隊商に加わった経緯だ。怪物の正体や規模が判明していないので、かなり大胆な判断とも思えるが、手ぶらで金の日を迎える恐怖を思えば大したことではなかった。

 

 3

 延々と続く上り坂を進む隊商だったが、街道の傍らに開けた草むらを見つけるとリーダーによって今日の移動の終了と野営の準備が言い渡された。時刻はようやく西の空が僅かに朱に染まる頃で、夕暮れまでにはまだ時間があったが、この山のどこかに正体不明の怪物が潜んでいる。余裕を持って夜に備えようとしているに違いなかった。

 また、普段は一人で旅をする俺からすれば、野営地について困ることなどないのだが、隊商は俺を含めて計二十七人の人間と十頭の馬で構成されている。これだけの規模だと野営地に相応しい場所を見つけるのも簡単ではないのだろう。暗くなってから慌てるよりも早目に落ち着きたいという理由もあるようだった。

「まずはおいら達の番だな」

「そうだ。行こう」

 野営の準備と馬の手入れを始める商人達をよそにラースが俺に声を掛ける。俺は隊商の正式な護衛ではないが、歩哨に参加することを条件に便乗を許されているので、義務を果たす必要があった。とは言え、食事や寝床は隊商側が提供してくれるので、客観的に見れば相応の取引だろう。俺は頷くとラースに従って移動を開始した。

「なんだ、背中の荷物を置いてこなかったのかい?行商人って奴は疑り深いんだな!」

「この中には俺の全財産が入っているからな、いざって時は直ぐに逃げられるようにしている」

 野営地と街道の間を陣取るようにして俺達は見張りを務める。もっとも軍隊ではないので、衛兵のように直立不動で不測の事態に備えるわけではない。俺とラースは適当な倒木を見つけては、そこに腰を掛けて街道と暗い影が落ちつつある山の木々に視線を送ると言った具合だ。当然、退屈を持て余すので自然と会話が始まる。

「なるほどね。おいら達、傭兵にとっての鎧や武器と同じってことかい。武具があれば傭兵として金を作ることが出来るが、武具がねえと雇ってもらえねえからな!ははは!」

「そんなもんだな・・・ふふふ」

 俺はラースに追従の笑いを浮かべる。背負い袋を野営中でも手元から離せられない真の理由は、中に〝転移の鏡〟があるからなのだが、それは誰であっても秘密にしなければならなかった。この鏡は現在の魔法技術では製造が不可能と思われる貴重な魔道具だ。もし、売り払ったとしたらどれだけの値が付くかは想像も出来ない。下手をすれば小さな街程度ならば丸ごと買えるかもしれなかった。そして金銭的価値も圧倒的だが、根本的な問題はこの鏡は〝あの女〟からの借り物で所有権は彼女にあるということだった。

 黄金の古龍は盗みという行為に対して尋常でない敵意を持っている。単純にケチとか物欲が強いと言うよりは、約束事を破るという行為を許すことが出来ないようだ。また、彼女は自分の所有物は全てどこにあるか完璧に把握出来るらしい。もし〝転移の鏡〟が盗まれるようなことが起きたらどうなるのか・・・。俺は管理責任を取らされるであろうし、盗人はドラゴンの怒りをその身で知ることになるだろう。そしてその怒りがどの程度で解消されるかはドラゴン次第なのだ。

 ある意味とんでもない代物を背中に隠し持っている俺ではあるが、不自然にならないように誤魔化した後もラースとの会話は続ける。彼は流れの傭兵であるので、ひょっとしたら面白い話が聞けるかもと期待したのだ。だが結果的には〝ネタ〟に使えそうな逸話や噂を聞き出すことは出来なかった。もっともこれは〝あの女〟向けの謎を含んだ話を期待したのであって、見張りの合間に聞く話としては悪くなかった。例えば、人食い鬼として知られるオーガーと一人で戦い、間一髪のところで逆転し生き延びた逸話は相当に話を盛っているのだろうが、なかなかの臨場感があり聞き応えがあった。またエルフ女とのロマンスも語ってくれたのだが、残念なのは俺の主人はオーガーなど鼻息だけで黒焦げにし、エルフも羨む美貌と寿命を持った古のドラゴンということだ。こういった話題で彼女を喜ばすのは、俺がオーガーを素手で倒すくらい難しいだろう。

 お互いの与太話で山の何処かに巣食う怪物の恐怖を和らげた俺達は無事に一回目の歩哨を終える。その後は用意された夕食を貰い次の交代に備えて仮眠を取る。俺は粗末な天幕の中で背負い袋を枕にしてマントと毛布に包まると精神と身体を休ませた。もちろん熟睡ではなく、異変があれば直ぐ起きられるような浅い眠りだ。これは盗賊時代から培われた技術である。おそらくは隣で寝るラースも似たような状態だろう。怪物に対する警戒心はあるが、休める時には可能な限り休む。これは野外で、いや街中でも自分の力だけを頼りに生き抜く者の基本技術だった。

 

 夜間の歩哨は二カ所、二人ずつの三交代で行われている。一度に四人の人間が目を光らせているわけだが、定められた時間帯を務め終えると、その時見張りに就いていたコンビの片方が次のコンビを起こす交代方法となっていた。だから、起こされるまでは自分の睡眠時間として少しでも多く身体を休ませるのが普通だし、そうするべきでもあった。だが、俺は奇妙な胸騒ぎを感じると中途半端な時間に目を覚ました。

 俺は重装の戦士でもないし魔法の心得もないので、単純な戦闘力ではラース達のような傭兵に敵わないであろうが、これまでの遺跡探索によって危険や異変の予兆を感じる勘は培っていた。俗に言う〝鼻が利く〟という奴だ。俺はこれまで命の危機を救ってくれたその直感に従い、外の様子を窺おうと天幕を出た。森や山ならどこにでもいる梟の鳴き声が聞こえないことに気付いたからだった。

 芳醇な果物を思わせる甘い匂いが俺の身体を包み込むように出迎えるが、それを吸った俺は激しい眩暈を感じる。薄れつつある意識だったが、俺はこれが只事ではないと精神を集中させて抵抗する。今ここで気を失ってしまえば死ぬ。そんな絶対的な予感があった。

 片膝を付きながらも俺は死に繋がる眠りへの誘惑に勝った。激しく咳き込みながらも、更に意識をはっきりするために頭を振り立ち上がる。そして状況を確認しようと周囲を見渡そうとした。

 次の瞬間、全身の肌が粟立った。淡い焚火の光の中に浮かび上がる異形の姿を見たからだ。俺は最初〝それ〟を馬に乗っている裸の女だと思った。何しろ、肌の白さが目立つ女の顔と上半身は丁度馬に乗った高さにあり、黒くて長い脚が垣間見えたからだ。だが、それは人でも馬でもなかった。週に一度、黄金の古龍の前に立つ俺でさえも、その異形の怪物を目にして恐怖を感じる。いや正確には嫌悪感だろう。〝それ〟は巨大な蜘蛛の背に女の上半身が生えた化物だったのだ。女の顔付きと身体が無駄に整っているだけに、余計に悍ましさが際立っていた。

 蜘蛛女は自分を見つめる俺の存在に気付くと、それまで蜘蛛の脚で器用に掴んでいた白い塊を投げ捨てる。一瞬の出来事ではあったが、俺はそれが蜘蛛の糸によって絡め取られた人間であることを直感で理解した。蜘蛛は捉えた獲物を食うのではなく、その体液を吸い取ることで栄養を得ると言う。こいつが峠の怪物の正体に違いなかった。

「ラース!怪物だ!」

 俺は剣を抜きながら大声を上げてラースの名を叫んでいた。援軍を乞うこの行動は客観的に見ても正しいはずではあったが、蜘蛛女の敵意も一心に集める結果となる。異形の化け物は蜘蛛の腹部を丸めるようにして俺に向けた。

「・・・!」

 俺は再び直感に従って横に倒れるように転がる。目の端に俺が一瞬前までに立っていた位置に一筋の糸が射出され、その奥にあった木の枝が絡め取られるのが見えた。

「おい、皆!ラース!起きろ!化物だ!」

 胆を冷やした俺は、続いて声を張り上げてこの危機を皆に報せるようとするが、起き出す者は一人もいない。絶望を感じながらも俺は先程の眩暈と謎の匂いのことを思い出した。おそらくはあれは蜘蛛女の魔法か能力であり、隊商の仲間達はそれに嵌って意識を失っているに違いなかった。

「くそ!!」

 俺は悪態を吐きながらも現状を打開しようと天幕に向かって走る。強制的に寝かされていたとしても、外部から衝撃を与えれば起こせるはずだと。俺は天幕の布地越しにラースの身体を蹴り上げた。短い悲鳴と脚に伝わる手応えに俺は笑みを浮かべるが、ほぼ当時に軸足としていた左脚を引っ張られて地面へと転がされる。辛うじて受け身を取るが、その衝撃で頼りの武器である片手剣を手放してしまった。

 痛恨とも言える失敗だが、それを後悔する暇もなく、俺は激しい力で蜘蛛女の元へと引き摺られる。先程のように射出した糸によって手繰り寄せられているのだ。俺は不安定な体勢ながらも腰から短剣を抜いて糸を断ち切ろうとした。

 俺の判断は悪くはなかったはずだ。ただ誤算があったとすれば、蜘蛛女はそんな俺よりも素早く力強いということだ。俺が足首に絡み付く粘り気のある糸に短剣の刃を当てようとした頃には、俺の身体は化け物の下に手繰り寄せられ、何本もある毛むくじゃらの脚の二本を使って押さえつけられた。喘ぐ俺をその怪物は、真上から蜘蛛の頭に付いた八個の眼と更にその上から女の双眸で俺を睨みつけるのだった。

 圧倒的に不利な状態であったが、俺は無意識に蜘蛛女の顔の造形を吟味していた。なんでそんなことをしたのかはわからないが、俺には美人を見掛けると〝あの女〟と比べてしまう癖が付いていたからだと思う。そしてこの蜘蛛女の顔に俺は六十五点を付けた。六十点を超えたのはかなり久しぶりだったが、俺は首に突き立てようとする蜘蛛の巨大な牙に抗おうと短剣を振り回しながら、どうせ死ぬならあの黄金の古龍にやられたかったと考えていた。

「おらぁぁぁ!!」

 半ば達観した俺の耳に、激しい怒気を含んだラースの勇ましい声が響く。それと同時に俺の身体を踏みつけていた蜘蛛の脚の一本が巨大な戦斧によって断ち斬られた。俺は身体を捩じるように捻ると、左足のブーツを脱ぎ捨てて蜘蛛女からの縛めから逃れた。

「もう一発喰らいな!」

 俺の危機を救ったラースは身体ごと回りながら、遠心力を乗せた攻撃を再び怪物へと繰り出す。先程の攻撃はさしもの蜘蛛女も堪えたのだろう。嫌がるように素早く身体を後退させる。その巨体から信じられないほど素早く洗練された回避行動だった。

「恩に着る!助かった!」

「おう!」

 俺は礼を伝えるとともに立ち上がって周囲を確認する。ラースも深追いは危険と判断し、体勢を整えるために一歩下がる。彼が起こしたのだろう。他の仲間達の悲鳴や驚きの声が聞こえ始めているので、これから参戦する傭兵が増えるはずだ。俺も落とした剣を拾うと、ラースと協力して蜘蛛女への牽制に加わった。

「逃げんな!こら!」

 だが、人間の上半身を生やしているからか、蜘蛛女は自分の不利を悟ったように更に後退を続ける。そのまま夜の山に紛れてしまえば、夜目の効かない俺達人間に追う手立てはない。むしろ待ち伏せをされて順に狩りたてられるだけだろう。ラースは逃亡を阻止するために自分から怪物に襲い掛かった。

 ラースの豪胆さは賞賛に値するが、迂闊とも言えた。戦力が揃っていない状況での突出した動きは確保撃破の要因となる。蜘蛛女は正面から襲い掛かるラースに糸を射出し、彼の右脚を絡め取る。ラースは先程の俺のように地面に激しく打ち付けられた。

「馬鹿野郎!」

 命の恩人ではあったが、俺は激しく悪態を吐く。全く同じ手にまんまと嵌るとは馬鹿にも程があった。もっとも、彼をそのままにするわけにいかず、俺は距離を詰めて糸を断ち切ろうと片手剣を振るう、だが、蜘蛛女の糸は想定したよりも遙かに強靭で弾力があり切ることが出来なかった。まずいことに怪物はラースを糸に絡みとったまま山中に逃げ込もうとしている。俺は焦りながらラースが連れて行かれないように必死に彼の身体を掴んだ。

「た、助けてくれ!」

「うおおおお!」

 俺はラースの悲鳴を受けて必死に踏ん張るが、ラースの身体を繋ぎ止めることが出来ずにじわりじわりと山に向かって引き摺られてしまう。歯を食いしばって抵抗する俺の目に、消えかけた焚火の炎が唐突に映る。ある考えが浮かんだ俺はラースに短剣を手渡して地面に突き立てさせると。焚火へと走った。炎ならばこの忌まわしい糸を焼き切れると思ったからだ。

「ああ!見捨てないでくれ!」

 逃げたと勘違いしたラースは泣きごとを上げるが、俺は火の付いた薪を一本掴むと大急ぎで身を翻してその先端を糸に押しつける。素早さに関しては自信があったが、この時ほど自分が鈍いと感じたことはなかった。それでも俺の目論見は成功し、ラースが連れ去れる前に剣ではどうすることも出来なかった蜘蛛の糸を焼き切った。

 おそらくはとんでもない力がその糸に張り巡らされていたのだろう。大弓を放ったような音が周囲に響き渡る。俺は鼓膜を振るわせる嫌な音を聞きながら、再攻撃を警戒し化物が消えた虚空のような闇を睨みつけるが、そこにはもう何の気配も感じられない。怪物は完全に逃げ出したのだ。

「これで貸し借りはチャラだな!」

 俺は立ち上がろうとするラースに手を貸しながら、生き延びた安堵の笑顔を浮かべてそう語り掛けた。


 その後は隊商の参加者全員で再襲撃への警戒と被害の確認を急いだ。幸いにして全身を糸で絡め取られていた見張りの傭兵達は生きており、繭のような糸団子から助け出す際に松明の炎で火傷をしたくらいで、人的被害は出なかった。

 異形の怪物そのものは取り逃がしてしまったが、ラースが脚の一本を切り落としていたので、実在の証拠と正体の解明が進むと思われた。それに出現の前に眠りを誘う匂いを使うことや、糸には炎が有効であることが判明しただけでも価値があっただろう。カルデンとシュゲルを繋ぐこの道は双方の街にとって重要な生命線だ。どんなに時間と費用を掛けてでも、あの蜘蛛女の怪物を退治するに違いなかった。

 もっともそれは生き延びて峠を抜けた後の話だ。俺達は待ち焦がれた朝を迎えると、シュゲルに向かって逃げるように野営地を後にしたのだった。

 それ以降は何事もなく隊商は昼過ぎにはシュゲルの街に到着し、俺は世話になった隊商にそれまでの礼と別れを告げると本来の単独行動に戻った。隊商には怪物の報告や街中の商店に荷物を届ける仕事があるのだが、そこまでは付き合う義務はないので、俺はいち早く隊商から抜けたのだ。

「じゃあな、そっちも達者でな。俺はバーレガル王国の王都を目指す。機会があったらまた会おう!」

「ああ、もし次があったら今度はゆっくり酒を飲もうぜ!」

 そして短い間とは言え、コンビを組んでいたラースには特別に時間を設けて別れを告げた。もっとも、長い言葉はいらない。俺達はお互いを命懸けで助け合っていた。それで充分なのだ。最後に硬い握手を交わすと俺は友と別れ、シュゲルの雑踏の中に入って行った。


 4

「これが今回、私が体験した峠越えの逸話で御座います。いかがでしたでしょうか?私を襲ったかいぶ・・・敵の正体は未だ不明ですが、ご主人様ならこの手掛かりからお解かりになられるのではありませんか?」

 シュゲルで契約の日を迎えた俺は、自分が実体験した今回の冒険譚をドラゴンに披露した。自分の体験談を語るのはかなり久しぶりのことだが、今回は命を張ったこともあり俺は彼女の反応に期待した。

「ううん・・・今回はいまいちかしら・・・。あなたを襲った者の正体は謎でもなんでもないわ。蜘蛛の背中に人間の女の上半身が生えているってアラクネ以外ないじゃない!これはガーゼインの性悪女が戯れに創った眷属種の一つだわ!特に珍しくはないわね!」

「あ、アラクネですか・・・申し訳ございません。私ども人間にとっては・・・稀に見る存在だと思っておりました」

 俺は怪物の正体をいとも容易く看破したドラゴンの深い知識と交友関係に驚き恐れながら頭を下げる。ちなみに、まるで悪友のように語られたガーゼインとは神代の戦いに置いて闇側の軍勢として戦った狂気と嫉妬の女神の名前だ。一般的な人間からは邪神の一柱として恐れられていたが、このドラゴンにとっては古い知り合い程度のようだ。彼女が出鱈目を言うようなことは考えられないので、あの蜘蛛の化け物は邪神が古代に創り出した怪物に間違いないのだろう。

「まあ、あなたからすると確かに珍しい存在なのかもしれないわね。でも、謎の導入についてはもう少し工夫した方がいいわ。今回は敵の正体ではなく、なぜアラクネがその・・・道?人間達が地べたを這いずって移動する線上に急に現れたかに焦点を当てていれば、私も面白いと思ったでしょうね!」

「はあ、なるほど・・・確かにこれまで平穏だったカルデンとシュゲルを結ぶ道に、アラクネのような存在が急に現れたのは謎です。・・・では、どうしてなのでしょうか?」

 ダメ出しと催促を受けた俺は自分でも納得しつつ、金髪の美女に改めて問い掛けた。彼女の指摘は確かに今回の事件における根本的な謎だった。

「うふふ。知りたい?答えと思われる理由は既にあなたが聞かせてくれた話の中にあったわよ!」

「さ、左様でございますか・・・ですが、私には見当が尽きません」

 俺はいつものように勿体を付けて問い掛ける彼女に、神妙な顔をして先を促した。このやり取りはドラゴンへの機嫌取りも含まれていたが、何度見ても嬉しそうに笑う絶世の美女の姿は黄金よりも価値があると思われた。

「ふふふ、あなたはアラクネに襲われる前にも私へ捧げる逸話を探していたと言ったでしょ。その中には別の道とやらを人間達が整えて、ついでにゴブリンを退治したという噂話があったと報告している。確かにこれはつまらない話だけど、アラクネはあなた達人間やエルフのように二本足で歩くちっぽけな種族を襲う様に創られたガーゼインの眷属。ゴブリンと人間なんて大きな違いはないし、それまでゴブリンを狩っていたアラクネが獲物に困って新たな狩場を求めて移動したのではないかしら。・・・私にはわからないけど、空を飛べない者にとって山は大変な障害なのでしょう?エルド山脈に沿って移動したと判断するのが妥当・・・まあ、これはあくまで私の推測に過ぎないけどね!」

「・・・た、確かにその推測は・・・的を射ていると思われます!」

 俺はドラゴンの見解に目から鱗が落ちる思いで頷く。それは時期的にも位置関係的にも整合が取れた推測だった。彼女の指摘どおり海岸沿いの公国と王国を繋ぐ主街道の北に、俺達があの化け物に襲われたカルデンとシュゲル間の峠道が存在している。直線距離ではかなりの距離があるが、その間は山岳地帯が占めているのでほぼ未開の土地となっている。人間とゴブリン族を同類のように語られたことには異論があるが、彼女の存在からすれば致し方ないだろう。アラクネと呼ばれるあの蜘蛛の怪物が人型生物を好んで襲うのなら、人間の棲むシュゲルかカルデン近くまでやって来ることは充分にあり得ることだった。

「そうでしょう!・・・そうだ!そのアラクネはまだ人間達に倒されていないのでしょう?前回みたいに後日譚の補足として確認して来てもいいのよ!そのアラクネにどこから現れたのか聞いて来なさいな!やはり、答えとしてはっきりすると面白いからね!」

「そ、それは、ちょっと・・・」

「・・・ふふふ、冗談よ!私も人間の言う冗談の使い方がわかってきたでしょう?!さすがに人間の身に合わないことを頼むほど私は傲慢じゃないわ!それに・・・あなたに死なれると、週に一度の楽しみがなくなってしまうからね!・・・あなたも今回のようなことはあまりしちゃだめよ!」

 無茶を言い渡されて返事に窮する俺に金髪の美女は快活な声を上げて笑う。どこまでが本気かわからない俺としては気が気でないが、最後に心配してくれるような命令を出して更に俺を困惑させた。

「・・・ありがたきお言葉でございます」

「それと、今回の話についてもう一つ答えてほしい質問があるのよ」

 一安心して謙る俺だが、ドラゴンは追い打ちを掛ける。

「は、はい。なんでございましょう?」

「あなたは・・・そのラースという人間の男とは番ったのかしら?人間は男同士で番うこともあるのでしょう?聞かせてくれないかしら?」

「違います!俺・・・私とラースはお互いの実力を認め合っただけで、そんな関係ではありません!これは愛情ではなく男同士の友情なのです!」

「本当に?私が第三者に言いふらすわけないのだから、素直に語ってくれていいのよ!」

「本当に本当です!」

 どこで覚えたのか・・・いや俺が教えたことなのだが、このドラゴンの乙女は人間の同性同士、特に男性間での愛の営みに興味を示していた。以前に〝ネタ〟に困った時に人間の社会にはこんな愛の形もあるという程度で聞かせたのだが、なぜか気に入ったようで稀にこの話を持ち出すのだ。

 俺は対場を弁えながらも、自分とラースの名誉のために男の友情について熱くドラゴンに説明したのだった。


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