一瞬、美魚の瞳に逡巡しゅんじゅんとも後悔ともとれる色がらいだが、あごを上げ見下ろすわたしと目が合うと、憎しみと決意の色で染まった。


「ぎッ……!? あああああああぁぁあッッ!!!」


 気遣う様子を欠片も見せず、無造作につらぬかれた美魚が獣じみた絶叫を上げた。乱れた着物のすそからのぞく白い足に血が流れる。


「ふ……ふふ。たまわりましたよ晦冥かいめい様……確かに!」


 涙と唾液と吐瀉物で汚れた顔で、美魚は晦冥かいめいの醜い顔をあおぎ見る。その鉤爪を手首まで腹にねじ込むも、晦冥かいめいは反応を示さない。


「その醜くて空っぽの頭はもう要りませんね。後私にはお任せください」


 美魚の言葉に従うように、晦冥かいめい鰭腕ひれうでは自分の頭部を削ぎ落とした。魚人たちが戸惑うなか、晦冥かいめいと繋がった美魚はその巨体で海斗へと歩み寄る。上体を反らし、腹に刺した腕でその身を支える美魚は、逆しまの顔で笑った。


「さあ、これで良いんですか!? 私も力を手に入れましたよ!!」

「美魚ッ!!」


 大振りな鰭腕ひれうでの打撃を、なぜか海斗は避け損なう。吹き飛ばされることもなく、同じ位置に立ち尽くしたまま。


「なんで……」


 海斗の足元の水面は、不自然なほど静かで波立たない。遅まきながら、晦冥かいめいに捕まえられたのだと気付くも、わたしに海斗を救う手立てはない。棒立ちで打たれ続けた海斗は膝から崩れ、そのまま水面に浮かんだ。


「海斗!」

「きゃははッ!! 弱い。弱い! 海斗だってダメダメじゃあないですか!!」


 狂笑する美魚は完全に壊れた眼をしている。もう彼女自身、何がしたくて何をしているのか理解していないだろう。倒れた海斗を執拗しつようなぶっていた美魚は、あごを反らしわたしを見る。わたしへの憎しみは忘れていなかったようだ。崖に張り付いて動けないわたしに、口元を釣り上げさかしまの顔で笑いかける。


 絶望的な状況の中、ふと何者かの気配を感じ見上げると、落石防止柵のほんの小さな足場に、拘束着の少女がしゃがみ込んでいた。


「キィ? こんなところでなにしてるの?!」


 ブーツのつま先だけでバランスを取る彼女は、「てつだってほしい?」と言わんばかりに小首を傾げてみせる。

 こんな状況なのに、思わず笑みがこぼれた。同時に、キィの顔を見て思い出したことがある。――いや、忘れようとしていたことか。


「ありがとう。でもいいよ」


 首を振ってキィに応える。これはわたしの問題だ。わたしにはだらだらと惰眠だみんむさぼり、分かっているはずのことを先延ばしにし、美魚を追い詰めた責任がある。


 鰭腕ひれうでの一撃が来る寸前、自ら手を放し壁を蹴る。うまくかわせたと思ったが、滑る潮が触腕のように伸び、きれいに右足首を斬り飛ばされた。


「きゃはッ!! きゃははは……!?」


 海面に叩き付けられたはずのわたしに、止めを刺すべく向き直った美魚は、両の足で立つわたしの姿に困惑の表情を浮かべた。


 海水に触れた瞬間思い出したやり方で、周囲1kmの眷属けんぞくの生命を、わたしクティーラおかあさんクトゥルフの名において差し出させた結果だ。

 腹を見せ浮かぶ魚人たちの姿を見て気付いたのか、美魚が叫ぶ。


「化物め!! うつわを完全に砕けば、もう再生するための命が無いでしょう!?」

「二度目は無いってば」


 指一本動かすまでもなく殺意の波動だけで、美魚だったものは波間にくずおれた。


 キィがふわりと波間にのぞく車の屋根に降り立つ。

 わたしはそのに構わず、歳若い眷属けんぞくをボンネットに投げ出してやった。


 いちばん古いつがいの直系の血を、少しだけ惜しく思ったからだ。

 まだえら呼吸は覚えていないらしい。海水を吐き出し呼吸を始めるのを見届けたあと、歳経としへ眷属けんぞくを手玉に取った稚魚ちぎょに目を向ける。このも直系だったか。


 まだ暖かい胸から心臓を抜き取り、少しだけ力を下賜げししてやって美しい鰭を持つ魚を生み出した。500年ほど生き抜いて、わたしの元に帰ってくれば、また楽しむこともできるだろう。ほんの気まぐれだ。


 稚魚ちぎょは長い鰭をなびかせ、しばらくわたしの足元で遊んでいたが、やがて海に向かって泳ぎだした。

 入れ替わるように、おむかえの気配が近付いてくる。


「わるいね。もう帰る時間みたい」


 巨大な漆黒の眷属けんぞくは、触腕でわたしを包み込むと、遠い寝所しんじょへ向かって泳ぎ始めた。ずいぶん長く探させてしまったようだが、わたしにとってはひと眠りの間だ。


 約束をすっぽかす形になったけれど、こんどはきっと楽しめる。

 別れぎわに見た、キィの可愛いむくれ顔を思いながら、わたしは眠りに落ちた。


END.2



https://kakuyomu.jp/works/1177354054884676877/episodes/1177354054884676949

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