~~

 とっさに抱き寄せてくれた宗也そうやさんのおかげで、最もむごい光景は目にせず済んだ。


「ここまでですよ、拝島はいじまさん」

「……そうだな。私はもう終わりだ」


 海斗の敗北を悟り、崖の小道を駆け上がろうとしていた拝島伯父は、宗也さんに足元を撃たれ立ち止まる。

 いつも嫌味なほど整えられている髪は乱れ、汗まみれの顔に焦燥の表情を浮かべた彼は叫んだ。


晦冥かいめい様、いまこそ私がお守りしていた、大いなるものの娘を捧げます。以後私に代わりこの方を宜しくお守りください!」

「何!?」


 銃口を向けたまま、宗也さんは弾かれたように振り返った。その目は波間にそびえる岩礁がんしょうに向けられている。

 いや、この浜辺を見慣れているわたしが見間違うはずがない。あんな所に岩なんて、今の今まで無かったはずだ。


「潮が……」


 津波のような勢いでしおが満ちてくる。動きを止めたマキシと屍人達は揃って動きを止め、海を見る。生き残った魚人達は拝跪はいきを始めた。


「あれが貴方の、汐入の深みのものどもがまつるもの」


 岩礁がんしょうに見えた影は、背鰭せびれを立て、浜辺に――いや、わたしに向かい近付いてくる。魚人たちは一斉に歓喜の鳴き声を上げた。


 泥と海藻が絡みつき、そこかしこにフジツボが生えている。だらしなく開閉を繰り返す巨大な口には、びっしりと生えそろう細かい牙。濁った小さな目が、どこか人間めいて見えるのがむしろおぞましい。晦冥かいめいと呼ばれる歳経としへた魚人は、醜い底魚のような姿をさらした。


「さあ、お前達神智研しんちけんの相手はあの深きものだ! せいぜい神殺しの本分をまっとうするがいい!!」


 勝ち誇る拝島伯父の哄笑こうしょうが響く。わたしを捧げものにしている隙に、逃げ出す算段らしい。

 満ちた潮が靴底を洗い、わたしは恐怖で身動きが取れない。もうその鰭腕ひれうでが届くまでになった瞬間。巨大な底魚はその歩みを止めた。魚人たちの鳴き声も徐々に止み、ただ波音だけが響く中。不意に晦冥かいめいはその巨体を内側から引き裂かれ、血と肉片を撒き散らした。


「まったく……次から次へと」


 宗也さんが引きつった、余裕のない笑みを浮かべる。

 晦冥かいめいを引き裂いたのは、黒い触腕の群れ。黒くぬめる表皮を持つそれは、幾本もの腕を2本に束ね、立ち上がり海中から本体を現した。

 晦冥かいめいを凌ぐ高さにそびえた身体の中心が、女陰にょいんのように縦に裂け、割れ目から半球状の器官がのぞく。それは複数の瞳孔どうこうを持つ、巨大な赤い単眼だった。


「オトゥーム……何故……そうか!」


 今度こそ絶望し切ったのか、拝島伯父は崖に背を預けへたり込む。何かに気付き、わたしを睨みつけたその姿は、不意に見えない何かに弾き飛ばされ水面に落ちた。

 殺戮さつりくが開始された。浜辺にいた者たちが、魚人屍人の区別なく弾け飛ぶ。見えない何かが暴れ周り、無差別に引き裂きいているようだ。


 赤い目がわたしに向けられる。殺戮さつりくを巻き散らかす、見えない何かが迫る感覚に、身をすくませる。不可視の気配は私をつらぬくことなく、そっと頭を撫でるだけで離れて行った。


「……なんで?」


 マキシにはが見えるのか、消波ブロックの上で踊るような仕草を続けている。おそらくあれは避けているんだ。黒い異形の伸ばす不可視の触腕。彼の動きで、攻撃の正体をおぼろげながら理解した。

 潮が満ち、膝まで浸された状態で、キィもまた不可視の攻撃をかわし続けていたようだが、不意にい止められたかのように動きが止まる。


「キィ!!」


 そのまま2度、3度。小さな身体が無数の触腕に貫かれ、そのたび衝撃に黒髪が跳ねる。


「所長の了承は既に得ている。キィ。解放を許可する!」


 苦痛の表情を見せていたキィが、視線だけで宗也さんの叫びに応える。


「アlhazァァァァdッ!!」


 ソプラノの叫びと共に黒い留め具が弾け飛ぶ。そのままの勢いで、キィはあれだけ頑強だった拘束着を引き裂き、その裸身をのぞかせた。


 病的なほど青白い肌。

 女性としては未だ成熟しきらない身体のライン。

 月影つきかげに透ける髪は何処までも白く。

 本来の彩を取り戻した瞳は紅く輝いている。

 長すぎる腕と細い指。

 肘からは虹色の粒子を撒き散らす、鋭い突起物が生えている。

 アンバランスなパーツなのに、

 全体としては完成された兵器の機能美を感じる。


 きれいだな。


 月に素肌を晒しキィは笑っている。

 このは間違いなく強い。

 けれど、それ故にどこまでも孤独な存在。


 理由も分からぬまま、その全てを瞬時に理解した。

 誇らしげに空を仰ぐ彼女を前に、わたしは何故だか無性に泣きたくなった。


 異形の少女は月をつかむように掲げた左手を、

 太刀斬たちきるるように黒い巨体に向け振り下ろす。

 美しい虹の線がきらめき、少女と異生を繋いだ。

 弓を引く形に身体に引き付けた右手を、

 矢を射る如くはやく突き出すと、

 黒い異生を中心に衝撃波が走った。


 単眼の異生の戸惑いが伝わってくる。

 拝む形に合わせたてのひらを返すと、澄んだ金属音が響いた。

 鉤に曲げた指。

 こじ開けるような動作に合わせ、

 キィの眼前に虹色の道が開いて行く。


 痛み、か?

 黒い異生が数万年振りに覚えた違和感の正体に気付いた刹那せつな

 滅びへの恐怖と共にその巨体は四散した。


 引き裂かれた小神の向こうに垣間見える異界の風景に、

 キィは少しだけ誇らしげな顔を向けた。



https://kakuyomu.jp/works/1177354054884676877/episodes/1177354054884681091

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