♣
オトゥームと呼ばれた黒い異生が弾け散った際、撒き散らされた恐怖は、道連れに私の中の何かを砕いていった。力を失いへたり込む足を波が洗う。
それはどこの景色だろう。
緑色の空。
星を渡る永い旅。生まれたばかりの新しい世界。
それは誰なんだろう。
優しい女のひと。気弱そうな少年の顔。
「ひ……ヒヒッ。まだ終わらんよな……」
顔の半分が
誰だ? でもこの男のせいで。
わたしならほんの少しの殺意で殺せる。
こんな男のために大切だったものが――
耳元で銃声が鳴り響く。頭に2発。心臓に2発。
私が殺意を込める前に、絶命した男は波間に沈んだ。
「殺したのは、僕だ」
誰だろう。泣きたくなるほど懐かしい顔。
でも、思い出すとそれを糸口に、膨大な記憶が溢れてしまう。
ちっぽけな今の私なんか、押し流されてしまうほどに。
「嫌だ……変わりたくないよ。わたしはわたしのままでいたい」
「君自身を含めた、何人ものものたちが、それぞれの思惑で
優しく言い聞かせる声に、耳をふさぎ首を振る。
「それでも……今の私が大切に思っていたものは、どうして大切だったのかさえ分からなくなる……」
おばあちゃんと飲むひよこサイダーも。
畳でまどろみながら聞く風鈴の音も。
せがんで買って貰った麦藁帽子も。
友達と初めて喧嘩したときの気持ちも。
幼馴染の眼差しに感じた、この胸の高鳴りも。
「こんなの急すぎる! わたしは何も頼んでなんかいない!」
ぐずる私の顔を、彼は困った顔のまま見詰めている。きっと昔と何も変わらない表情で。
「……少し眠るといい。いろいろあって疲れてるんだ。起きたらきっと全て良くなってるよ」
彼は波間に立つ白い少女に声を掛ける。なんだか少し拗ねているような顔でわたしを見ている。
「キィ、頼む」
空に虹の橋が掛かる。その向こうには、懐かしい薄緑の空が見える。
「ごめんね」
唇を尖らせた少女の顔。何故だか彼女に謝らなきゃいけない気がして。
私は最後にそう呟いた。
§§
長身の黒人が、波を蹴立てて僕の元へ駆け寄ってくる。
「先生、ちょっとまってクダサイ。これハ懲罰ものデスヨ?」
僕は慌てるマキシに苦笑を返してみせた。
「ここに開きっぱなしの門が出来て、終わりが始まる可能性すらあったんだ。それに比べれば、ずいぶん穏やかな結末だよ」
「大いなるもののスペア、クティーラがあれバ、大いなるものノ実験自体を攻略すル鍵になるッテ言ったのは、先生デスヨ? それヲみすみす見逃すなんテ!!」
ああ。確かにこの件の作戦立案は僕が行った。それでも、好き勝手の度合いでは僕なんかより、席を置いているだけの魔術班の人間のほうが上だろう。
言ってしまえば、僕も拝島と同じ穴のムジナだ。
「正確には、僕が言ったのは『鍵になるかも』だ。可能性の話だよ。水に溶け込み、既にこの星のすべての生物に影響を与えている。あれを排除するなんて土台不可能な話さ」
「No! 骨折り損ってヤツデスカ?」
「
波間に浮かぶ肉塊を指す。血で赤く染まる海の中、オトゥームの眼が輝いている。あんな
「あれがあれば魔術班の顔も立つだろだろ。博士はいつも
「ム、ムゥ。そうデスネ」
僕の言い訳に渋い顔で
僕が汐入に来た最大の目的は、10年前、
拝島の身柄を拘束せず処分したことで、情報部には目を付けられるだろう。彼らはマキシほどお人好しじゃない。
「ハァ。でも、制御できル状態にあった、クティーラを確保しそこナッタのは、つくづく残念デス……」
「彼女はキィのお気に入りだったからね。押し通そうとすれば、全力のキィとやりあうことになったかも知れないね」
「Oh……」
げっそりとした顔になるマキシ。彼に言ったことは脅しではない。人の形をした生きた《門》であるキィは、不安定な存在だ。情操教育などその場
それに、夢を見続けていたいというのが、
もう届かない場所で眠る彼女を思って、僕は心の中で別れを告げた。
§§
暗く広い空間に荒い息遣いだけが響いている。
少女は両手を拘束されたまま、男の
充分に濡らしたと判断したのか。男は少女を組み伏せ、濡れてもいない秘所に欲望を捻じ込む。
少女の
化学班の検査で少女に生殖機能は無く、能力も一代限りの劣性遺伝と、とっくに判明しているのに。この男は事あるごとにこの無為な行為を繰り返している。
正確にはこの男ではない。この男の腰から上に、霊体だけで同化して存在する、狂人の執着だ。理性も知性も失くしたまま、次の
つまらないな。
緑色の空の下、波打際で夢見る少女の顔を思い浮かべる。楽しい夢でも見ているのか、彼女は微笑みを浮かべている。
生きる理由も目的もなく、ただ生かされ続けるだけの日々だったが、初めて興味を持てるものが出来た。
また、あえるといいな。
狂人の
END.3
https://kakuyomu.jp/works/1177354054884676877/episodes/1177354054884676949
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