オトゥームと呼ばれた黒い異生が弾け散った際、撒き散らされた恐怖は、道連れに私の中の何かを砕いていった。力を失いへたり込む足を波が洗う。


 それはどこの景色だろう。

 緑色の空。うたう魚達。

 星を渡る永い旅。生まれたばかりの新しい世界。

 それは誰なんだろう。

 優しい女のひと。気弱そうな少年の顔。


「ひ……ヒヒッ。まだ終わらんよな……」


 顔の半分がれ、右の半身を失い狂気に囚われた男が、波間から手を伸ばし、わたし足をつかんでいる。

 誰だ? でもこの男のせいで。

 わたしならほんの少しの殺意で殺せる。

 こんな男のために大切だったものが――


 耳元で銃声が鳴り響く。頭に2発。心臓に2発。

 私が殺意を込める前に、絶命した男は波間に沈んだ。


「殺したのは、僕だ」


 誰だろう。泣きたくなるほど懐かしい顔。

 でも、思い出すとそれを糸口に、膨大な記憶が溢れてしまう。

 ちっぽけな今の私なんか、押し流されてしまうほどに。


「嫌だ……変わりたくないよ。わたしはわたしのままでいたい」

「君自身を含めた、何人ものものたちが、それぞれの思惑ではめめたかせが外れただけだ。何も怖がることはない。君は君自身だし何も変わらないよ」


 優しく言い聞かせる声に、耳をふさぎ首を振る。


「それでも……今の私が大切に思っていたものは、どうして大切だったのかさえ分からなくなる……」


 おばあちゃんと飲むひよこサイダーも。

 畳でまどろみながら聞く風鈴の音も。

 せがんで買って貰った麦藁帽子も。

 友達と初めて喧嘩したときの気持ちも。

 幼馴染の眼差しに感じた、この胸の高鳴りも。


「こんなの急すぎる! わたしは何も頼んでなんかいない!」


 ぐずる私の顔を、彼は困った顔のまま見詰めている。きっと昔と何も変わらない表情で。


「……少し眠るといい。いろいろあって疲れてるんだ。起きたらきっと全て良くなってるよ」


 彼は波間に立つ白い少女に声を掛ける。なんだか少し拗ねているような顔でわたしを見ている。


「キィ、頼む」


 空に虹の橋が掛かる。その向こうには、懐かしい薄緑の空が見える。


「ごめんね」


 唇を尖らせた少女の顔。何故だか彼女に謝らなきゃいけない気がして。

 私は最後にそう呟いた。


         §§


 長身の黒人が、波を蹴立てて僕の元へ駆け寄ってくる。


「先生、ちょっとまってクダサイ。これハ懲罰ものデスヨ?」


 僕は慌てるマキシに苦笑を返してみせた。


「ここに開きっぱなしの門が出来て、終わりが始まる可能性すらあったんだ。それに比べれば、ずいぶん穏やかな結末だよ」

「大いなるもののスペア、クティーラがあれバ、大いなるものノ実験自体を攻略すル鍵になるッテ言ったのは、先生デスヨ? それヲみすみす見逃すなんテ!!」


 ああ。確かにこの件の作戦立案は僕が行った。それでも、好き勝手の度合いでは僕なんかより、席を置いているだけの魔術班の人間のほうが上だろう。

 言ってしまえば、僕も拝島と同じ穴のムジナだ。


「正確には、僕が言ったのは『鍵になるかも』だ。可能性の話だよ。水に溶け込み、既にこの星のすべての生物に影響を与えている。あれを排除するなんて土台不可能な話さ」

「No! 骨折り損ってヤツデスカ?」

亜神あじん一柱に小神しょうしん一柱。神殺しとしては充分すぎる戦果じゃないか。それに――」


 波間に浮かぶ肉塊を指す。血で赤く染まる海の中、オトゥームの眼が輝いている。あんな残骸ざんがいに成り果てても、まだ滅んでいない。


があれば魔術班の顔も立つだろだろ。博士はいつも英雄エローコア鋳造ちゅうぞうが最優先課題だって言ってるし、打って付けじゃないか」

「ム、ムゥ。そうデスネ」


 僕の言い訳に渋い顔でうなづくくマキシ。人が良い彼は僕の詭弁きべんを知った上で見逃してくれるらしい。

 僕が汐入に来た最大の目的は、10年前、義妹いもうとさらうために僕の父と母を殺した拝島への復讐だ。

 拝島の身柄を拘束せず処分したことで、情報部には目を付けられるだろう。彼らはマキシほどお人好しじゃない。


「ハァ。でも、制御できル状態にあった、クティーラを確保しそこナッタのは、つくづく残念デス……」

「彼女はキィのお気に入りだったからね。押し通そうとすれば、全力のキィとやりあうことになったかも知れないね」

「Oh……」


 げっそりとした顔になるマキシ。彼に言ったことは脅しではない。人の形をした生きた《門》であるキィは、不安定な存在だ。情操教育などその場しのぎでしかない。いつか必ず、周囲を巻き込み自滅するだろう。その時まで、せいぜい良い先生でいてあげなければならない。


 それに、夢を見続けていたいというのが、義妹いもうとのたった一つの願いなんだ。ろくでなしで人でなしの兄として、叶えてあげない訳にはいかないじゃないか?


 もう届かない場所で眠る彼女を思って、僕は心の中で別れを告げた。



         §§



 暗く広い空間に荒い息遣いだけが響いている。

 少女は両手を拘束されたまま、男の屹立きつりつするものに舌をわせている。

 充分に濡らしたと判断したのか。男は少女を組み伏せ、濡れてもいない秘所に欲望を捻じ込む。


 少女のらすのは生理的な反射としての吐息だけ。覆い被さる男も快楽は感じていない。ただ機械的に腰を振り続けている。

 化学班の検査で少女に生殖機能は無く、能力も一代限りの劣性遺伝と、とっくに判明しているのに。この男は事あるごとにこの無為な行為を繰り返している。


 正確にはこの男ではない。この男の腰から上に、霊体だけで同化して存在する、狂人の執着だ。理性も知性も失くしたまま、次のうつわが決まらない事に、ただ焦っているらしい。


 つまらないな。


 緑色の空の下、波打際で夢見る少女の顔を思い浮かべる。楽しい夢でも見ているのか、彼女は微笑みを浮かべている。


 生きる理由も目的もなく、ただ生かされ続けるだけの日々だったが、初めて興味を持てるものが出来た。


 また、あえるといいな。


 狂人の哄笑こうしょうが響く中、少女は少しだけ微笑んだ。


END.3



https://kakuyomu.jp/works/1177354054884676877/episodes/1177354054884676949

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