第六話 土曜日の告白
今日は朝練がない。いつもなら、茜とかち合いそうになるのが嫌で嫌で仕方なかった。でも、今朝は逆だった。あいつと顔を合わせた時に、どうしても話したいことがある。そういう出合いがしらばったりを期待して家を出た時に限って、出くわさないんだよな。
「ちぇ。神様ってのも、相当意地がわりいなー」
ぶつくさ言いながらのったり歩いていたら、背中にどすんと罵声がぶち当たった。
「なにちんたら歩いてんのよ!」
昨日のしおらしさは嘘かって思うくらい、不機嫌爆裂、戦闘モード全開の茜が早足で俺を追い越そうとしていた。
「ほっとけや」
これまでならすぐにぶち切れて、足を止めての戦闘開始になっただろう。でも、俺は軽くいなした。あいつの棘をそれ以上の棘で返さない。それが、俺に今すぐできることだからだ。
「佐藤先生も余計なまねしやがって」
ぶすくれたまま、カバンの端っこに突っ込んでおいた茶封筒を抜いてひらっとかざした。それを見た瞬間、茜の顔が真っ赤っかに茹だった。
「うっ!」
「まあ……俺らのことで先生やみんなにはさんざん迷惑かけたから、仕方ねえんだけどよ」
リアクションに困ったんだろう。真っ赤な顔のまま、茜が全力で離脱しようとしたから、その背中に向かって叫んだ。
「放課後、児童公園!」
◇ ◇ ◇
授業中も休み時間も、あいつは自分の席に座ったまま。一度も席を離れなかった。もちろん、俺の方に振り返ることもなかった。俺は俺で、放課後のことで頭がいっぱい。誰に何を言われても上の空だった。クラスの連中は、俺らの不穏な関係がとうとう限界に来たと思ったかもしれないな。いや、そう思ってくれてた方が俺には都合がいい。
午前授業が終わって、いよいよ勝負だ。俺は部室に顔を出さずに、まっすぐ児童公園に向かった。腹は減ってたけど、どのタイミングで茜が来るか分からない以上、俺は待つしかなかった。そして俺は……あいつは必ず来ると信じてた。
それは、何の根拠もない俺の思い込み。外れたとしても茜を恨むわけにはいかない。でも、俺は信じてた。あいつは必ず来る。
児童公園の動物ベンチに腰をかけて、佐藤先生から返してもらった紙を広げ、二首の短歌をもう一度見比べる。
「どう言うか……だよなあ」
「なにを?」
いきなりどたまの上から声が降ってきて、ベンチから転げ落ちそうになった。心臓がばくばくする。
「お……どかすなよ」
「なによ」
俺は、あらためて昨日佐藤先生から受け取った紙をかざす。
「ゴリラはねえだろ」
何か言い返してくるかと思ったけど。俺の座っているベンチから離れて、隣の動物ベンチに座った茜が小声で謝った。
「ごめん」
「いや、それはいんだ。それよか」
「……うん」
「おまえ、おっきな動物全部苦手なんちゃう? ライオンとかそういうのだけじゃなくして」
俺は返事を急かさなかった。俺の疑問にイエスでもノーでも返事をすること。茜にとっては、ものすごく勇気がいるだろうから。
じっと俯いていた茜は。長い沈黙の後で、とうとうその事実を認めた。
「うん。そう。だから、もし昼間でも動物園は苦手なんだ」
「あーあ、そらあ不機嫌にもなるわな」
俺と同じ班ということだけでもストレスだったのに、その上苦手な動物園で、さらに恐怖が倍増する夜……か。でも、不安や不満を誰にも言えんかったんだろう。ずっとおおっぴらにしてる俺とのこと以外は。
「ばかみたいだよね」
けしょんけしょんにしょげかえった茜は、いきなりトラウマをげろし始めた。
「うんと小さい時に」
「おう」
「連れてってもらった公園のふれあい広場で、ヤギをなでなでしようとして、激しくど突き回されたの」
「げ……」
「それから、どうしてもダメなんだ。自分より大きな動物。怖いの」
「そうか」
俺が茶化さずにじっと聞いているのをちらっと見た茜が、もう一度同じセリフを並べた。
「ばかみたいだよね」
「いや……」
今度は、俺がでかい溜息を連発する。
「ふうっ。誰にでも苦手なもんはあるさ。そらあ、しゃあねえだろ」
「あんたにもあんの?」
「もちのろんだ」
てっきり自分のことを言われると思ったんだろう。茜が瞬時に応戦モードに戻った。今とげとげになられるのは困る。俺はすぐにげろした。
「俺が苦手なのは……兄貴なんだよ」
「えええっ!?」
ばっくり大口を開けた茜が、血相を変えて立ちあがった。
「う、うそ……」
「そらあ、好き嫌いじゃねえ。兄貴が好きか嫌いかって言われたら、俺は『好きだと言うしか』ねえ」
「あ」
「でも、苦手なんだ」
「どして?
「兄貴、でき過ぎなんだよ」
はあっ。俺は兄貴に対するひがみを親に対してすらげろしたことはない。それは……恥ずかしいことだと思ってたからだ。でも、そうやって自分を押さえつけていくのが、もうしんどくなってた。リミット外してナマでどんぱちできる茜ンとこだけが、俺の唯一の出口だったんだ。そんな歪んだ出口は、もうとっ払いたい。
「いじめられたとか?」
「兄貴がそんなことするわけねえだろ。ガキの俺なんざ、最初から相手にしてくんない。年離れてるんだし」
「そっか」
「でもよ。頭ぁ良くて、優しくて、スポーツもなんでもこなせて、しかも」
「うん」
「俺より、おまいをかわいがった」
「!」
「俺がどこに行って何をやっても、俺の先に兄貴がいる。じゃあ、俺はどうすりゃいい?」
「うー」
「だから俺は、自分の気持ちをストレートに出せなくなったんだよ。気持ちの出口に、兄貴が全部ふたしちまったんだ」
「でもぉ」
「ああ、分かってる。そらあ兄貴のせいじゃねえ。単なる俺のひがみさ」
俺の目の前に兄貴が立ってる。それは実物の兄貴じゃない。俺が勝手に作っちまった虚像だ。焦げ付いちまった茜のイメージだけじゃなく、兄貴に対するしょうもないコンプレックスもそろそろぶっ壊さないとならないんだろう。
ひゅっ! 座ったまま、そいつに正拳をぶちかます。
「そんなスネ夫みたいな自分が嫌で、根性鍛え直そうと思って空手やることにしたんだけどさ。なかなかうまく……いかねえな。ガキのまんまだ」
茜に、理解してくれ、同情してくれなんて言うつもりはない。俺が何をどう思ってるか知ってほしいだけだ。そして俺は、茜にどうしても直接確かめたいことがある。俺が棘を寝かすには、どうしてもそいつが必要なんだ。
「なあ」
「う……ん?」
「おまい、どうして俺にずーっとつっかかってきたんだ? どんなに思い返しても、俺には原因が分かんねんだよ。俺がいじめたとか、何かしでかしたとか。そういうのがどっかにあったか?」
今度の茜の沈黙は、深くて長かった。そして、答えは返ってこないかもなと俺が覚悟した最後の最後に。俺の腹が鳴ると同時に、茜がげろした。
「くやし……かったから」
「は?」
赤くなった目を拳で何度もこすりながら、茜がぼそぼそと白状する。
「小さい頃はわたしが勝てることもあったのに、引き分けにしかできなくなった。どうしても、勝てなくなった。そんなの認めたくない。どうしても……認めたく……なかった……の」
ああ……俺が昨日感じた茜の弱さ。虚勢。それ、違ったな。
茜は弱くない。だけど、すっげえぶきっちょなんだろう。
「そっか」
茜の今のげろがもし先週だったら。俺はそんなくだらないことで十年以上ずっと嫌な思いをしてきたのかって、激しくぶち切れたと思う。茜を見切っちまったかもしれない。でも茜の言う勝ち負けは、単なる意地の張り合いの勝ち負けじゃない。そんな単純なもんじゃない。それが……今ならわかる。
ハリネズミのジレンマ、か。
俺は、自分の棘の出し方、引っ込め方を兄貴とのやり取りで学んだ。だけど兄貴がでかすぎて、俺がどんなに棘を立てても兄貴には届かないんだよ。その無力感で、俺は棘をうまく立てられなくなったんだ。シゲが言ってた『まとも』。俺はまともじゃないよ。棘が立てられないからそう見えるだけさ。そんな俺が棘を立ててがつがつぶち当たれたのは、同じように棘を立ててる茜だけだったんだ。
茜は俺と逆なんだろう。兄弟がいない一人っ子の茜は、とりあえず棘を立てて他人にぶつけてからでないと距離調整ができなかった。ガキの頃にそれをいっぱいやらかして、俺以外はみんな茜の棘を怖がって引いちまったんだろうな。だから茜も、俺以外のやつには棘を寝かすしかなくなった。棘を見ても一歩も引かない俺に対してだけは、自分をくっきり示せる棘を寝かす必要がなかった……そういうことなんだろう。茜が、どんだけしんどい思いしながらトモダチとのやり取りをこなしてるか。それがまるっと見えてしまう。
茜の言う勝負は、棘のぶつけ合いから逃げないってこと。相手が先に棘を引っ込めたら勝ち。相手に自分の棘が届かなかったら負け。俺に勝てないっていうのは、いつ俺に棘が届かなくなるか分からないっていう不安の表れかもな。俺が茜をもう知らんて突き放したら……あいつは自分の棘の持って行き場がなくなる。そらあ、負けが認められるわけないよな。
「ちっ。めんどくせえなあ」
ぐすぐす泣きながらずっと目をこすっていた茜が、小声で聞き返した。
「なに……が?」
「いや。高校生になりゃあ、自分の棘くらいなんとかできると思ってたんだけどよ」
「うん」
「全然思うようにならんわ。しゃーぺんなんちゃらってやつも、余計なこと言いやがって」
「ふ……ふふ」
茜が。無理やりっぽく笑った。
「まあ、いい。分かった。今でもおまいのツラぁ見りゃ自動的に腹立つけどよ。でも」
「……」
「キツい言い方はもうしねえ。これからは、おまいがつっかかってきても流すかんな」
「どし……て?」
茜が、ざあっと青ざめた。
「そらそうさ」
十何年も溜まりに溜まったゴミの壁をやっとぶっ壊して、大掃除して。俺はすっきりした。その勢いで、いつか言おう言おうと思ってた言葉を素直に出せた。
「好きなやつに、この野郎なんて言えねえよ」
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