第五話 金曜日の短歌

 確かに、俺が全力で望んでいたターニングポイントは来た。絶対に行きたくなかった夜の動物園見学。暗くて何もよく見えないはずの動物園で、俺は茜のこれまで見えなかった部分を、その弱みを見ることができた。

 たった一つの新しい見え方で、俺の中の茜のイメージがぱたぱたとおもしろいように書き換わっていく。それはよかったんだ。でもよ。


「だから、どうすりゃいいんだ?」


 俺が態度を変えて全部はっぴーになるなら、それでいいんだけどさ。十年以上凝りもせずにぎゃんぎゃんやり合ってきたのが、一日で全部ひっくり返るってことはないな。たぶん顔見りゃ自動的にむかつくし、一度エンジンかかっちまうとこれまでと同じことの繰り返しになるだろう。


 だけど俺はもう……不毛な削り合いは二度としたくなかった。どうしてもしたくなかったんだ。問題は、それをどうあいつに納得させるか、だ。


 うーん……。


◇ ◇ ◇


 金曜日。俺と茜の間には、昨日とは別の理由で奇妙な緊張感が漂っていて。俺らは今までみたいにやり合えなかった。

 俺はやり取りを変えるタイミングを掴めなかったし、茜は俺とは違う理由で俺へのアプローチを避けていたと思う。あいつは、俺に弱みを見せちまったことを負けだと感じてる。決定的な攻め手を与えてしまったことに、ものすごくがっかりしてる。そんな風に見えたんだ。


 いや、俺への直接攻撃を控えてくれるのはありがたいんだけどさ。俺は、あいつにもっと根底から意識を変えてもらいたいんだよ。俺とのやり取りをせめて中立に戻してくれってな。そうすりゃ、俺がこれからあいつにどうアプローチするかをゆっくり考えられるから。


「ふう……」


 最悪の状況からは抜け出せたけど、まだまだ道のりは遠い。俺は、そう感じていた。


「いいですかー?」


 佐藤先生の声が前から飛んできて、はっと我に返った。いかんいかん、授業中だった。


「今日は短歌を取り上げます。百人一首にあるような古典的な和歌は古文でやりますので、今日は現代短歌を題材にします」


 きゅっきゅっとチョークを鳴らしながら、先生が黒板に短歌を書き上げた。


『白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ』


「若山牧水の有名な短歌です。白鳥は、空や海の青に染まらず真っ白いまま漂っていて、悲しくないんだろうか。これを風景描写の句として見ても美しいですし、孤高の哀愁を詠んだ歌としても素晴らしいんです。たった三十一文字ですが、そこに実景、心情、感動、風刺……何を詰め込んでもいいんですよ」


 ふうん。なんかめんどくさそうだな。


「牧水の短歌は少しクラシックなので、現代らしく俵万智さんの有名作もあげておきましょうか」


『「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日』


 お。なるほどー。こんなんでもいいのか。


 手に付いた粉をぱんぱんと叩き落とした先生が、俺らに一枚ずつ紙を配った。


「固苦しく考えないで、最近あったことを題材に短歌を書いてみましょう。無理やり五七五七七に合わせなくてもいいです。三十一文字くらいの短い詩を書く。そういう感覚で」


 なんかこっぱずかしい……そういう俺らの雰囲気を感じ取ったのか、先生がぱたぱた手を振った。


「ああ、みんなの前で読めとか、傑作を一つ選ぶとか、そんなんありません。あくまでも練習ね。みんなの作品にわたしが感想を書いて、そのまま返します」


 そんなら書けるかなあって感じで、無理ぽっていう空気がほわっと緩んだ。もちろん俺も以下同文。


「じゃあ、時間を十五分取ります。最低一首。書ける人は三首まで。ちゃんと枠内に収まるよう書いてくださいね。では、始め!」


 さて、何書こうかって言っても。俺が書けるとすれば昨日のあれしかなかった。


 今までまるっきり見えなかった……いや見えていたのに俺が頑なに見ようとしなかった茜の弱さ。虚勢。それは、同時に俺自身の弱さや虚勢だった。俺らは、まるで鏡を見てるみたいだったんだ。

 茜は俺の中に自分のネガを見る。俺はあいつの中に俺のネガを見る。そんなゴミじゃなくて、もっと相手のいいところを見たいのに、自分の許せない部分を相手に見ちまう。そんなどうしようもないゴミの壁が俺らの間にどかあんと立っていたのに、どうして俺たちがばらばらにならなかったか。俺は信じたい。それは、ネガを上回る引力が俺らの間にあるからだって。だから、あいつの弱さを見つけたっていう短歌にはしたくなかった。


「そうだなー」


 軍手をはめて、宝石でも見つめるようなきらきらした笑顔でハリネズミを持っていた茜。それは、あいつが友達に向けるために調整した笑顔や態度じゃない。あいつの、そのまんまの感情。そのまんまの笑顔だ。俺はそれに気付くことができた。これまでなら絶対分からなかったことに、一つ気付けたんだよな。


 じゃあ、それをそのまま短歌にしちゃおう。


『ハリネズミ それ見てはしゃぐ あどけなく 見られてよかった 君の一面』


◇ ◇ ◇


 部活が上がったあとで一度教室に戻ろうとしたら、ちょうど帰り際だったシゲに呼び止められた。


「ケン。佐藤先生が探してたぜ」

「え? 関谷先生じゃなくして?」

「佐藤先生。授業の時の短歌、書かんで出したとか?」

「いやあ、ちゃんと書いたけどなあ」

「まあ、行ってみれば?」

「そうするわ」

「じゃあな。お先ー」

「おう、さんきゅ」

「おっと、そうだ。忘れるとこだった」

「ん?」


 走り寄ってきたシゲに、ぐるっと見回される。


「高木見つけたら、同じこと言っといてくれ」

「俺だけでなくて、あいつもか」

「場外乱闘?」

「知らんわ」


 苦笑いでごまかすしかない。


「ふん? 珍しいな」

「なにが」

「おまえ、高木に絡むことだとむきになるだろ」

「これまではな。先生から雷落ちたし。さすがに……な」

「へー」

「遅くなるから行ってくるわ」

「んだな。また明日なー」

「おー」


 下手に食いつかれると、口の軽いあいつに何を言いふらされるか分かったもんじゃない。俺は、そそくさと職員室に向かった。


「佐藤せんせー。なんすかー?」

「あ、遠藤くん、来たか」


 佐藤先生から、何か入った茶封筒を手渡される。


「これって?」

「今日の短歌よ。来週の現代文の授業でみんなに返却するけど、事故防止のために先に返しとくね」


 事故防止ぃ!? なんじゃそりゃ?

 俺がぽかあんとしてたら、佐藤先生が茶封筒を指差した。


「わたしのコメント見たら分かるよ。来週の授業で遠藤くんに返す封筒の中身は、白紙だから」


 あ、そういうことか。


「分かりました。お先っす」

「高木さんにはもう渡したから、ノータッチでお願いね」


 やっぱり茜絡みだったか……。


◇ ◇ ◇


 家に帰ってすぐ、制服着替えるのももどかしく茶封筒を開ける。俺の書いた短歌の横に、佐藤先生のきれいな字でコメントが書いてあった。


『とてもストレートに心情を表した、いい短歌だと思います。高木さんも動物園の短歌を書いてましたので、それも一緒に並べておきますね』


「えっ!? ちょ、ちょっと」


 あいつの短歌が俺のところに書いてあるってことは、もしかして俺のもあいつのとこに?


「げえー」


 思わず頭を抱えてしまった。気は進まないけど、茜のを読んでみる。なんだって?


『夜がこわい わたし助けて くれたのは ライオンより強い ゴリラの手』


「おいっ! 俺はゴリラかよっ!」


 でも頭に来るよりも、思い切り脱力しちまった。あいつの国語の点数、ぼんぼろりんちゃうんか?


 俺のと茜のやつ。並べてみると、もっと笑える。


「こらあ、どっちがオトメなんだか分かりゃしねえな。ふっふっふ。ぎゃははははっ!」


 いやあ、笑った笑った。涙が出るくらい笑ったわ。


 ……うれしくて。


◇ ◇ ◇


 ベッドに転がって、俺と茜の短歌を何度も眺める。


 俺も茜も、書きたかったことが全然書ききれてないと思う。佐藤先生にはストレートに書いたように見えたかもしれないけど、それは俺や茜がそう見えるように書いてるからだ。俺らは、まだまだ自分をごまかしてる。


 茜が怖かったのは闇じゃなくて、動物の方だろう。でも、そう書けてない。俺だってそうだよ。短歌に書きたかったのは、夜のライオンに怯えた茜の弱さに気づいたこと。でも、そうは書けなかった。


「ふう……」


 じっと二首を見比べているうちに。俺はハリネズミの棘を思い出した。俺と茜の自己保身の棘は、まだびんびんに立ったままだ。俺らがそれで傷つかないようにするには、知ってると思い込んでる相手の中身を確かめて、棘を寝かせていかないとだめなんだろう。勝手に決めつけて、敵のイメージ作っちまって、それに怒りをぶつける前に。

 ただ……俺らのど突き合いは根が深い。条件反射に近くなってるから、すぐに棘を寝かせることはできないと思う。だけど、明日から即できることもあるんだよな。


「まず。ヤマアラシからハリネズミのレベルまで、棘のヤバさを下げねえとな」


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