第四話 木曜日の動物園

 そして。俺と茜との間がどうしようもなくこじれてふん詰まったまんま、本番が来てしまった。関谷先生の警告は一回だけじゃない。俺も茜も二回警告を受けてる。これ以上ごたつくと、きっと警告だけじゃ済まなくなるだろう。だからと言って、俺たちが性根を入れ替えるには時間がなさすぎた。それなら徹底的に黙るしかない。そうやって黙っていれば済むか? 済むわけないじゃん。極度の緊張状態でがりがりにとんがった俺と茜は、まさに一触即発だった。同じ班の連中は、呆れるを通り越して怯えてたと思う。


 授業が終わったあとでジャージに着替えた俺たちは、バスに乗って市立動物園に移動した。バスの中では他の班の連中がわいわい盛り上がってるのに、俺らの班だけはお通夜状態だ。どうしようもない。


 動物園の前で、ぞろぞろみんなが下車する。班ごとに整列したところで、関谷先生が注意事項を復唱した。


「飼育員さんから、いろいろな説明がある。だらっと聞き流すんじゃなくて、ちゃんと覚えておくようにな。園内の明かりがぎりぎりまで落とされてるから、こけないように懐中電灯を使え。ただ、それを人や動物に向けないように」


 ぐるっと俺らを見回した先生が、追加で警告した。


「小中のガキじゃないんだ。私語やだらけた態度は厳禁だからな。態度の悪いやつは、途中でつまみ出す」


 そう言って俺と茜を睨んだ。その途端、班メンバーだけじゃなく、クラス全員の視線が俺と茜にぶすぶす突き刺さった。う……いてて。


 まだ明るいうちだったら、いくら警告されていてもどんぱちが始まったかもしれない。でも暗くなって互いの表情が分かりにくくなった。それが、ほんの少しだけど救いだった。

 ぞろぞろとクラス単位で移動し、猛獣舎の前で飼育員さんの説明を受ける。


「みなさん、こんばんは」


 若い女性の飼育員さんが、小声で俺らに挨拶した。


「わたしは、ライオン舎担当の小島と言います。今日は、みなさんのガイドを務めさせていただきます。よろしくお願いします」


 大きな声を出すなと言われているから、俺らはお辞儀を返すしかない。


「野生動物の多くは夜行性です」


 小島さんが、振り返って畜舎を指差した。


「みなさんは、動物園のライオンがいつもだらしなく寝ているというイメージを持っているかもしれませんね。でも、彼らの行動は夜がメイン。つまり、みなさんが昼間見ている彼らの姿は、全体のほんの一部にしか過ぎないということなんです」


 全体の……ほんの一部、か。

 俺は、昨日関谷先生に言われたことを思い出していた。


『これまでがどうだったっていう前提は全部取っ払って、一切の感情的な前置きなしで高木を見てみろ』


 無意識に視線が茜に向いた。あれ?


 いつも強気でちゃきちゃきしている茜が、妙に不安顔になってる。あいつ、どうしたんだ?


「暗くなると動物が見えにくくなるので、みなさんもう少し檻に近づいてくださいね」


 そう言った小島さんが、俺らにもう数歩ずつ近寄るように促した。だけど班長として先頭にいた茜は、なぜか逆に後ずさった。もしかして……。


 俺は黙って茜のポジションと入れ替わり、一番前に出た。


 俺の目の前には、でかいメスのライオン。昼と違って薄明かりの下だと距離がよく分からない。檻で隔てられてると言っても、めっちゃ怖い。すっくと立って、俺らをじろりと睨み回している姿は、昼間だらしなく寝そべっているイメージとまるで違う。迫力がはんぱね。ぐるるるる……。低いうなり声が直接聞こえる。まじで、びびるわ。


 小島さんが、俺らをぐるっと見回してライオンの説明をした。


「ライオンが狩りをするのは、主に夜です。草食の有蹄類が眠っている隙を突くためだと言われています。他の大型肉食獣たちも、同じ理由で夜行性のものが多いですね」


 小島さんがライオンの檻の前を離れて、何種類かの大型動物の畜舎の前に移動し、その度にいろいろ解説をしてくれた。でも俺は、正直動物は見ていなかった。俺がずっと見ていたのは茜だった。目が離せなかった。

 なぜか。俺がこれまで茜に対してずっと持っていた、不屈のファイターっていうイメージ。それが、どんどん壊れていたからだ。おかしい。どうもおかしい。ライオンだけでなく、大型動物全体が苦手っていう感じで……。ずっと美山の背中の後ろに隠れて移動してる。


 予定していた畜舎をぐるっと一回りして、元のライオン舎の前に戻ってきた俺らは、そのあと小動物の畜舎のある館内に移動することになった。


「みなさん、どうもお疲れ様でした。夜の動物たちはどうでしたか?」


 小声だけど。すげーとか迫力あったとか、そういう感想がひそひそ漏れてきた。


「みなさんがこれまで動物たちに対して持っていたイメージ。それがちょっとでも変わるきっかけになれば、とても嬉しいです。では、このあとは小動物を見て和みましょう」


 小島さんのあとについて、ぞろぞろと歩き出したクラスメートの塊。俺もその中にいたんだけど、ふと振り返ったら茜がそこから取り残されていた。それまで茜が盾にしていた美山が他のやつと話をしていて、茜の異変に気付いてない。


「やっぱりな……」


 俺の疑念は、確信に変わった。列から外れて、取り残されていた茜のところに駆け寄る。


「おまえ、ライオンが苦手なんだろ」

「……」


 俺の前では絶対に認めたくなかったんだろう。でも、足がすくんで動けなくなっていたのがすぐに分かった。俺は茜を見ずに、ライオンに目を向けた。


「こんなん、おまえでなくてもしゃれになんねえよ」

「う……」

「めっちゃめちゃおっかねえ」

「う……ん」

「こいつら見ないで済むように、こっち側歩け。小さいのは大丈夫なんだろ?」


 返事は返ってこなかったけど、小さく頷いたのがかろうじて見えた。俺は茜の手首を握って、少し強引に引っ張った。


「行くぞ」


◇ ◇ ◇


 強いから食ってかかるんじゃなく、強くないから食ってかかる。俺は、あいつがいつでも真正面から挑んでくるやつだと思ってた。でも、違う。あいつのは……虚勢だ。虚勢だったんだ。ハリネズミが保身のために立てる棘。茜のは、まさにそういう棘だったんだろう。


 その棘をなんで俺にだけ向けたか。中身が分かってるやつにしか向けられなかったんだ。つまり……そこは俺と何も変わらない。自分を丸めて人に合わせる。俺は、茜以外にはずっとそうやってきて、そんな自分自身をなんだかなあと思っている。きっと、茜もそうなんだろう。

 もっと生の自分を出したい。ぶちかましたい。そういう欲求はいつもあるのに、どうしても自由に出せない。歪んでるけど……出せる相手が俺だけだったということ。俺は、そう解釈した。


 俺の考えが合ってるかどうかは、茜に直接確かめるしかない。だけど、俺の中では確かめようっていう決意が固まった。

 何度でも言う。俺は、茜は嫌いじゃない。好きなんだよ。それなら、俺と茜の間で食い違ってるところをどこかで直しておかないと、いつまでもチャンスが来ない。


 あいつにコクるチャンスが、な。


◇ ◇ ◇


「触れ合いコーナーの小動物にも、夜行性のものはいっぱいいます。代表格はハムスターですが、他にもモルモットやハリネズミがそうです。飼育員が触り方を教えてくれますので、みなさんしっかり触れ合ってくださいね」


 小動物舎の明かりも落とされていたけど、大型動物の畜舎みたいなごつい圧迫感はない。


 館内に入った途端俺の手を振り払った茜は、ハリネズミのケージに向かって吹っ飛んで行った。ちぇ。


「うわ、かっわいいっ!」

「触ってみますか?」

「あの、棘刺さらないですか?」

「生手じゃ痛いですよ。軍手を用意してます」

「そっかあ……」


 茜は直接触れなくて残念そうだったけど、貸してもらった軍手をはめてハリネズミをすくい上げ、ご満悦だ。俺には絶対に見せない顔だよ。ちぇ!


「ううー、めっちゃかわいい。飼いたいけどなー」

「飼えないんですか?」

「父が、動物系一切だめでー」

「あらら」


 茜と飼育員さんとのやり取りに聞き耳を立てていたら。いつの間にか隣に関谷先生が来てた。


「遠藤。どうだ? 少しはイメージが変わったか?」

「そっすね」


 ばふっとでっかい溜息をついて。それからがりがりと頭を掻く。


「それはそれで。後が大変っす」

「まあな。そんなもんだ」


 先生が、俺の目の前に何か細長いものを掲げた。なんだあ?


「これがヤマアラシの棘だよ。飼育員さんに貸してもらった」

「げげえっ!」


 話には聞いてたけど、これってもろ武器じゃんか。おっそろしく硬くて長い。先ははんぱなく鋭い。まるで槍の穂先みたいだ。先生が、パンフレットに棘を突き立てる。棘は苦もなくパンフレットを貫通した。


「うっわ! 凶暴性、はんぱないっすね」

「ヤマアラシの攻撃を受けると、ライオンやニシキヘビですら死ぬことがあるってよ」

「分かるっす。絶対に近寄りたくねー」

「ハリネズミなんか、まだかわいいもんだろ?」


 ふっと笑った先生が、目を細めたまま茜に視線を移した。


「だけど、おまえらはハリネズミやヤマアラシなんかじゃないよ。棘以外に使えるものがいっぱいあるからな」

「うす」


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