第三話 水曜日の心理学

 関谷先生のどやしで俺と茜の罵り合いが封じ込められてしまってから、これまで以上に俺たちの間の緊張関係が強くなった。互いに口を利かない。顔も見ない。表情は俺もあいつもずーっとしかめ面。それじゃあ、前よりもっとひどい。


 授業の一環としてやる見学なんだから、班ごとにきちんとレポートをまとめてくれって言われてる。でも、確かにこれじゃレポートどころの話じゃないよな。俺もヤバいなあと思うんだよ。でも、どこから手をつけていいのか分からない。はあ……。


◇ ◇ ◇


「ああ、悪い。部活のあとで疲れてると思うが、明日が本番だからな」


 関谷先生の二度目の呼び出しは、もう予想していた。きっと、俺と茜との間の不穏な空気に怯えたクラスメートから、追加のタレコミがあったんだろう。それは仕方ないと思う。


 おとついと同じ指導室。でも今日は放課後だ。外はもう真っ暗になってる。俺の心の中と同じだ。しょげかえってる俺に、いきなり先生の説教が炸裂するかと思った。でも、先生は意外な話を始めた。


「なあ、遠藤」

「うす」

「ハリネズミのジレンマってのを知ってるか?」


 はあ?


「なんすか、それ?」

「ああ、知らなかったか」


 どこで用意していたのか、先生が亀の子たわしを二つ、俺の目の前に突き出した。


「これがハリネズミだとするだろ?」

「うす」

「この部屋みたいに寒いところにいて、二匹は凍えてる。あったまりたい」

「うす」

「どうすりゃいい?」

「ぴったりくっつけばいいんじゃないすか?」


 先生が、二個のたわしを合体させた。


「だよな。でも温め合おうとして近づくと、互いの棘が刺さっちまうんだ」

「あ……」

「だからって、離れると今度は寒い。耐えられん」


 先生が、持っていたたわしをぽんぽんと放る。


「ショーペンハウエルっていう哲学者が考え出した、寓話なんだってさ。オリジナルはハリネズミじゃなくて、ヤマアラシだけどな」


 ふうん。ハリネズミのジレンマ、かあ……。


「遠藤と高木の距離。ちっとも調整できてない。おまえらほど反りが合わなきゃ、普通は徹底的に距離を離すことで調整するんだよ。でも、おまえらのは逆だ。猛烈に反発し合ってるのに、無理に距離を縮めようとしてる。だから互いの棘がぶすぶす刺さる。性懲りも無くその繰り返しだ」

「う……す」

「距離が調整できないっていう事実じゃなく、どうして調整できないかっていう理由を考えろ」


 ひょいと手を伸ばした先生が、手にしていたたわしを一個、俺の頭のてっぺんに乗せた。


「痛くないだろ?」

「はい」

「棘があっても、それを行使しない限りは傷にならない。それがヤマアラシとハリネズミの違いなんだよ」

「え? 違うんすか?」

「ヤマアラシの針は、どんなにそっと触っても刺さる。恐ろしく鋭いんだ。その上攻撃的でね。相手がライオンだろうがヒョウだろうが、逆立てた棘を向けて突進していく」

「うわ……すげえ」

「でも、ハリネズミは違うよ。危険を察知した時に丸まって棘を立てる。威嚇と自衛が目的さ」

「へえー」


 先生が、俺の頭のてっぺんにちょこんと乗せてあったたわしを回収して、少しだけ笑った。


「ハリネズミの棘は、脅かさない限り立たない。寝かせてある時は痛くないのさ。だからジレンマにはならんよ」


◇ ◇ ◇


 説教なんかどうだかよく分からない話のあとで、先生が別の話をしだした。


「そうだな。もう一つおまけに、俺の経験談をしておこうか」

「先生の……すか?」

「そう。俺が教師として働き始めて間もない頃の話。十年近く前の昔話だな」

「うす」


 持っていたたわしを膝の上に置いた先生は、何かを思い出すような表情で天井を見上げた。


「まだ独身の頃。俺は、今よりはちょっとだけモテた」

「うへえ」

「信じてないなー?」

「ううー、なんか想像つかないっす」

「はっはっは! まあいいさ。俺が初めてクラス担任を受け持つことになった時、そのクラスに俺をすごく慕ってくれた女の子がいたんだよ」

「うわ!」

「まあ、先生と生徒とのロマンスは、俺らの業界では珍しくない。もちろん、生徒が在学中の恋愛沙汰はご法度だけどな」


 あ、そうか。


「学生が卒業すれば、先生と生徒という縛りは外れる。そこから先は普通の自由恋愛さ」

「はい」

「ただな」


 先生が、しんどそうな苦笑いを何度か繰り返した。


「学校の中で教師と生徒という立場で互いを見ている時と、卒業後に普通の男と女として相手を見ている時。その距離感は微妙に変わるんだよ」

「えー? そういうものなんすか」

「そらそうさ。在学中は、俺から彼女には一切アプローチできない。それはどこまで行っても、先生と生徒の関係でしかありえない」

「うす。そうっすね」

「当然、俺らの間に強制的に空いていた距離は、実物でないもので埋まるんだよ。相手を必要以上に美化したり、理想化したり」

「あ……」

「卒業後に付き合うようになってすぐ。そのズレが原因で破綻したのさ。俺は仕事があるから、彼女に全部のエネルギーは使えない。しかも二十代半ばなら、まだまだ男としては頼り甲斐のない時期だ。俺は、彼女のわがままや子供っぽさを全然うまくさばけなかった。ケンカばかりでね」

「じゃあ……別れたんすか?」

「三ヶ月も保たんかったなー」


 そっか……。


 俺に視線を戻した先生が、ふっと息をついた。


「ただな」

「うす」

「俺は、彼女が嫌いになったわけじゃない。俺も彼女も、相手をきちんと見て、それをもとに自分の立ち位置を調整するってことがうまくできなかったんだ。だからいたずらに自己保身の棘を立てて、相手を傷つけるばかりになってしまった。さっきのハリネズミのジレンマさ」

「う……す」

「想いを残しながら、仲が壊れてしまった。でっかい後悔だよ」


 俺は何も……言えなかった。黙り込んだ俺を見て、先生が静かな声で付け加えた。


「高校生ってのは、客観視がしっかり鍛えられていく時期だよ。そこでの経験は、きっと将来おまえの役に立つはずだ。これまでがどうだったっていう前提は全部取っ払って、一切の感情的な前置きなしで高木を見てみろ。おまえが固く目をつぶって見ないようにしてきたものの中に、なにか発見があるかもしれんぞ」

「分かりました」

「まあ。あんまりうじうじ考え込まんと。もっと気楽にやれ」


 ちぇ。できるようならもうやってるって。

 

「へえい。あ、先生」

「ん?」

「今の話は、高木には?」

「ハリネズミのジレンマの話はしたぞ。ただし俺からじゃなく、現代文の佐藤先生からのアドバイスって形でな」

「そっかあ」

「男性教師が女子生徒に、感情に絡んだトラブルへのアドバイスをするのは難しいよ。要らない誤解を招くこともあるからな」


 佐藤先生……か。俺たちの間でアイドルになってる、新任の女の先生だ。もう結婚してて、子供もいるけどね。関谷先生と佐藤先生のつながりがおやーって感じだったけど、アドバイス自体はよーく分かった。でも問題は、実際にそう出来るかどうかなんだよなー。はあっ……。


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