人を愛した悪魔

雷電

第1話

 それは悠久の古より何処いずことも知れぬ虚無の淵にて眠りについていた。


 それは誰にも顧みられることなく、それゆえに名前すらもない。ただ永劫の時間を無為に過ごすだけの存在であった。


 しかしあるとき、光すら存在しない虚無に揺らぎが生じた。絶無であった変化を深淵に見出したそれは、しかし体を起こすのは億劫だったので、自身の端末を伸ばして揺らぎを覗き込んだ。


 揺らぎの先には光が溢れていた。匂いがあり、音があり、何よりも生命があった。それの作り出した端末は感覚器官の集合体であり、肉で出来た真球に目鼻と耳、口に相当する器官だけが存在する異形の姿をしていた。


 初めて触れる外界、恐ろしいまでの情報量にそれは歓喜した。思うが侭に空気を貪り、手当たり次第周囲を見て聞いて嗅ぎ回った。


 果たしてそこには端末以外に小さな生命が存在していた。その生命体はとても美しかった。刹那の時間でくるくると変化し、楽器のような音色でさえずる。それは一目でその生命を好きになった。


 その生命は端末に向けて音楽を奏でるように囁きかける。左右対称に存在する突起を振りたて、さながらダンスを踊るかのようだった。あまりの愛らしさに感極まり、思わず端末を開いてその生命に似せた突起を作り出して触れてみた。


 その効果は劇的であった。それは非常に脆く柔らかかった。あれほど目まぐるしく変化していた動きが停止し、いつまでも聞いていたいと思った音楽が止まった。ちぎれてしまった突起を元にくっつけても、とまったそれは動いてくれなかった。


 しかし活動を止めてすら、その存在は美しかった。色とりどりの中身から溢れる香り、鮮やかで粘性のある液体が広がる様までうるわしい。地面に散らばってしまった中身を集めようとしたとき、唐突に端末が切り離された。


 それは再び永劫の静寂に引き戻された。一度得た興奮は麻薬となり、それは存在して初めて感じる飢えに苦しんだ。明確な意思を持って光を求めた。



◇◆◇◆◇◆◇◆



 時間は少し遡る。


 その男は醜悪であった。父親はおろか、母親すら定かではない。街頭に立つ娼婦が誰の種とも知らぬ子を宿し、路地裏のゴミ山に生み捨てた不具の赤子であった。


 生まれながらに片目しかなく、鼻は溶け落ちたかのようにただれて、裂けた口蓋こうがいと繋がり四つに裂けた穴として口となり、腕が極端に長く足が短いという奇形として生を受けた。そのまま息絶えれば幸せであったのであろう、しかし運命の悪戯いたずらか見世物小屋を営む男が赤子の泣き声に気づき拾い上げた。


 彼は文字通り飼われた。悲惨な怪物として見世物にされ、成長していった。成長して知性を得た彼は神を呪った。誰からも祝福されず愛されることもない己を生み出した母を、死なせずに見世物にした主人を恨んだ。


 そんな彼に転機が訪れた。見世物小屋の主人が事故で亡くなり、引き取り手も無かった彼らフリークスは自由の身となった。しかし異様な姿かたちから忌み嫌われ、その日の糧すら手に入れられず死を待つのみとなった。


 男は吼えた、自分に苦痛しかもたらさない世界に対して、命の火が消える前に一矢報いてやると牙を剥いた。


 彼は世界で不徳とされる事をすべてやった。物陰に潜み長い腕を使って女を襲い、痛めつけ犯し殺して食った。引きずり出したはらわたで地面に絵を描き、湯気を立てる血で化粧を施し、惨劇の現場で踊り狂った。


 そして男は世界が割れる音を聞いた。薄暗い路地裏で女の衣服を燃やす炎に照らされて真の異形が現れた。それは肉をねて作った球体にむき出しの眼球、裏返った鼻孔に外耳を持たぬ耳孔のみを穿った単純かつ異様な化け物だった。


 男は自身よりも巨大で、明らかに人外である本物の化け物に恐慌し、逃げ惑い臓物に足を滑らせ無様に転倒した。その化け物はむき出しの眼球をうごめかせ、恐ろしい音を立てながら近づいてくる。


 男は絶叫して暴れ回り、力尽きて実も蓋も無く命乞いをした。這いつくばり精いっぱい憐憫れんびんを誘う声で助けてくれと乞うた。異形の存在は男の目の前まで迫ると男の口のように四つに裂け、自身を内側に飲み込むと元通りに閉じた。


 血と内臓、糞尿と吐瀉物に塗れた惨劇の空間は神の敵対者たる悪魔の仕業とされた。



◇◆◇◆◇◆◇◆



 それは永遠に続く飢えに苦しみながら次の揺らぎを待った。あの愛らしい存在に会いたいと強く願った。


 そして再び虚無の淵が揺らいだ。それは簡単に揺らぎが途切れぬよう周囲を強化し、少しでも愛らしい存在に似せた端末を揺らぎに差し入れた。


 そこには光があった。地面には幾何学的な図形が描かれ、煌々と闇を切り裂く光を浴びて愛してやまぬ存在が居た。それも数体に増えた生物は、それの端末に向けて麗しい音色で囁きかけた。


 強く弱くリズムを付けて繰り返される音色にそれは酔いしれた。それぞれの生物同士が発する音は異なる音色を奏で、囁きあい絡み合い求愛のダンスを踊っている。


 それは学習していた。彼らは脆く弱い存在、抱きしめれば壊れてしまう。故に一番手前に存在していた生物に慎重に歩み寄り、恐る恐る一番上部に存在する突起に触れた。


 またもや悲劇が起こった。突起部分はもっと脆かった。あっさりと突起が取れた生物は動かなくなった。しかし他の生物が活発に動くようになった。


 愛らしい生物は端末に群がり、己の体をこすり付けてきた。歓迎されている! そう思うとそれは歓喜に震えた。手当たり次第に突起をもいだ。彼らは動かなくなったが、最後まで端末に向かって音楽を奏で、愛撫してくれた。


 それはますますその生き物が好きになった。その肉の一片にいたるまで取り込もうと端末を動かして回った。そして再び世界が閉ざされた。


 あれほど強化したにも関わらず再び闇に落とされた。それは嗚咽おえつ慟哭どうこくした、自分は彼らを愛し、彼らも自分を愛してくれた。それを分かつ存在を呪った。



◇◆◇◆◇◆◇◆



 時は中世。折しも悪魔崇拝の儀式サバトが開かれ、生贄の少女にナイフを振り下ろし、その心臓をえぐり出したところで世界が割れた。


 生贄の祭壇を中心に据えて描いた魔法陣の上空に空間の裂け目が生じ、そこから余りにも恐ろしい姿をした化け物が躍り出た。


 大まかに人を模した異形は内臓色の肌をもち、四肢はそなえているものの先端は蛸のような触手になっていた。まさしく悪魔を呼び出したと思った男は恐怖におののいた。


 しかし悪魔は魔法陣の内側でおとなしくしており、命令を待っているかのように思えた。男は尊大に命令した。自分に跪き足を舐めろと片足を差し出した。


 動き出した悪魔は男に近寄ると足ではなく頭を握り、力を込めた風も無いのに綿でもちぎるかのように引き抜いた。


 サバトに用いられる薬剤で興奮し、交わっていた連中も突然の惨劇に絶叫し、女は逃げ惑い男は武器を手に悪魔に向かっていった。


 あらん限りの言葉で罵倒し、呪いの言葉を吐きかけ、ナイフで切りつけ槍で穿ち、雨のように矢を射掛けた。しかし悪魔はその全てをことも無く受け止め、何事も無かったかのように反撃してきた。


 逃げ惑う人々に恐ろしい速さで駆け寄り、姿が霞むほどの勢いで触手を振るって的確に頭を引きちぎって回った。


 やがて全ての人々が死に絶え、悪魔が肉片を集めて回っていると血と臓物で魔法陣が消され、唐突に悪魔はこの世から消え去った。


 悪魔崇拝の儀式とその惨劇は世界を震撼させ、弾圧され迫害されてよりその性格を先鋭化させていった。



◇◆◇◆◇◆◇◆



 それは永劫の闇で苦悩していた。愛しい人に会いたい。そしてまた愛されたい。


 愛しい生物に似せた端末は喜ばれた。しかしあの程度では足りない。もっと似せなければ、もっと似せれば彼らは一層愛してくれると信じて疑わなかった。


 永遠に等しい時間を費やし、ひたすらに端末の試作を繰り返した。記憶に残る愛しい生き物を思い描き、作っては壊し作っては壊しを幾度繰り返しただろうか。


 三度みたび揺らぎは現れた。今度は閉じさせない。そう決意したそれは本体から直接端末を伸ばし、接続したまま揺らぎを潜った。


 端末を通して見たそこには数え切れないほどの愛しい生物がいた。端末が現れると彼らは一斉に群がってきた。己の脆さに気づいたのか、離れた場所から光る何かを投げてくる。


 単調な甲高い音と共に飛来するつぶてを無数に受け、端末はバランスを崩して倒れ込んだ。それは考えた、これが彼らのコミュニケーション手段かも知れない。


 端末に埋まった礫を同じ勢いで元の場所に打ち返す。果たして推測は正解であった。彼らは一層盛んにコミュニケーションを図ってくる。


 端末に使った素材が脆すぎたのか、彼らのコミュニケーションを受けるとすぐに磨耗してしまう。より強靭な素材に置き換えると磨耗が減ったが、彼らのコミュニケーションも激しくなった。


 角ばった石ころが一際強い光を放った。充分に補強したつもりだった端末があっけなく崩れ、再び闇へと落ちてしまった。それは失意にくれて悲嘆した。



◇◆◇◆◇◆◇◆



 時は近代。独裁者の圧政下に苦しむ宗教家が追い詰められ、魔法陣の上で己の心臓を抉り出し悪魔を呼び出した。鎮圧部隊が小銃を手に飛び込んできたその時に世界が割れた。


 おぞましい化け物が現れた。それは冒涜ぼうとく的な戯画カリカチュア。人間を模していながら随所で造形が破綻していた。巨大すぎる眼に耳まで裂けた口、両手に備えた五指は鋭い鉤爪のようであり、頭部から伸びた漆黒のねじれた角が恐怖を体現していた。


 鎮圧部隊の隊長は一目で気がついた。追い詰められた教祖が己の命を代償に悪魔をこの世に呼び出したのだと。彼は部下に号令を下すと、制圧射撃を開始した。


 彼らは悪魔に果敢に立ち向かった。手榴弾を投げ、小銃で銃撃し、無数の弾丸を撃ち込んだ。銃弾を受けて倒れた悪魔に対し、止めとばかりに拠点破壊用に持ち込んだダイナマイトを起爆した。


 爆発で巻き上げられた粉塵が風に流されると、変わらぬ姿の悪魔がそこに存在していた。悪魔は恐るべき反撃に出た。撃ち込まれた弾丸を全身から撃ちだし、こちらを攻撃してきたのだ。


 虚空から巨大な火の玉を作り上げると投げつけ、耳まで裂けた口を開いて地獄の業火を顕現させた。


 一瞬にして10人近い部下が消し飛んだ。隊長は声を張り上げ悪魔の足を狙えと叫ぶ。集中した銃撃に晒された悪魔の足は半ばから折れ、悪魔は膝を付いてうずくまる。すぐに足を再生して立ち上がるのだが、その一瞬だけは攻撃が緩む。隊長は部隊を纏め上げると虎の子の野砲を室内でぶっ放した。


 巨大な砲弾は悪魔の胸に命中すると奴を粉々に吹き飛ばした。多くの犠牲を払ったが、この世から悪魔を駆逐したのだ、兵士達の雄叫びが木霊した。



◇◆◇◆◇◆◇◆



 それは悔いていた。自身の存在は巨大すぎて揺らぎを潜り抜けられない。自分が向こうに渡れないのであれば、あの愛しき小さい人々をこちらに招けば良いのだ。


 それは素晴らしい考えに思えた。自身の端末も、より洗練したものに作り変えた。今まで出会った全ての愛しき小人達の平均を取り、極めて彼らに近い端末を作り上げた。


 次に揺らぎが訪れたときこそ端末を通して彼らに語りかけ、こちらの世界へといざなおう。こちらの世界には何もないが、彼らさえ居れば、それには充分だった。


 自分はこれほどにも彼らを愛しているし、彼らも自分を愛してくれている。ここで彼らと共に、永遠の安寧を享受しつつ暮らすというのは素敵な未来だと思った。


 しかしそれは幾度も失敗を重ねた。最初に招いた人々は環境の違いから弾けて消えた。彼らは空気が無ければ動かなくなると学習した。


 繰り返される失敗にそれは学んだ。彼らは非常に脆弱であり、光が無くても空気が無くても温度が無くても湿気が無くても弱ってしまう。密閉されたガラス瓶のような空間を用意しても、暫くは活発に動くのだがやがて弱ってしまう。


 彼らは絶えず外部から何かを取り込まなければ弱ってしまうと学んだそれは、揺らぎの向こうから色々な物を持ち込んで空間に散りばめた。今度は比較的長く活動していたのだが、やがて動かなくなった。


 彼らは孤独でも弱ってしまうのだ。幾人もの彼らを取り込み、空間を拡張していくと彼らは次第に長く活動するようになっていった。いつしか彼らは環境に適応し、その姿形を変えていた。


 それでも、それにとっては愛しい存在であることは変わらない。彼らが盛んに活動する様を満足げに眺めながら、それは少し微睡まどろむことにした。



◇◆◇◆◇◆◇◆



 この世界とは別次元に存在するという永劫の苦痛に満ちた世界、人はそれを指して『地獄』と呼ぶ。そこに住まう『悪魔』は時折こちらの世界に現れては、人間を地獄へと誘うのだと言う。


 『悪魔』は人に良く似ており、奸智かんちけ甘言をろうし、人の欲望に付け込んで騙し、その魂を堕落させる。人は『悪魔』を忌み嫌い、堕落しないようにと教え説く。


 しかし世界から『悪魔』が絶えることは無い。悪魔は人と人の間に現れ、その似姿は鏡の中にさえ現れる。宗教家は神こそが全てを生み出し、人を愛していると説く。


 全ての『悪魔ひと』を生み出し、深く愛した『あくま』は、今日も虚無の淵で永劫の時間からするとほんの一時ひとときの微睡みに沈んでいる。

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