第15話 教室のドッペルゲンガー

イルは黒板に何かを描き出す。

 こつこつというチョークの音が耳に心地よい。

 こつこつ。

 こつこつ。

 こつこつ。

 学生時代に逆行したような気分だ。

 私はチョークの音は嫌いじゃない。

 生徒の喋り声という雑音は、この教室には無い。

 私は、安心してこの音を楽しめる。

 目を閉じて、音に集中する。

 こつこつ。

 かっ。かっ。

 こつこつ。

 こつこつ。

 音に聞き入りながら、イルは何を描いているのかと想像する。

 絵か。

 長い文字の羅列か。

 数式か。

 どれも、不正解な気がした。

 目を開ける。

 イルはまだ、書いている。

 どうやら、何らかの文字や落書きを描いているようだった。

 文字は、汚すぎて読めない。

 落書きは、小学生が好むうんこマーク。

 あいつは、何をやっているんだ。

「……相合傘まで描いてる…」

 私がいたクラスにもいた。

 こっそりと、ノートや机に描いたり、彫り込んでいた奴が。

 本人は青春の思い出を残せたと思い満足するかもしれないが、後から使用する人間からすると迷惑千万な落書きの一つだ。

 他人の恋を知ったところで得れるものなど一つもない。

 気分を害するだけだ。

 実際、私はそうなった。

 恋という代物が他人を巻き込んだ際の迷惑度は計り知れない。

 当人たちだけで回っている内は良いが、他人を巻き込むトラブルになった際、最悪な代物へと変貌するだろう。

 可哀想な恋人達と、世界。

 どちらかしか救えないのだとしたら。

 私はどちらも救わない。 

「……まあ、今日日そんなシチュエーションは、ありきたりだな…」

 それでも映画や漫画、小説などで未だ見かける類のものだ。 

矢張り、王道こそが、至高なのか。

ただ単に受けが良いだけかもしれないが。書きやすいとか。

「……それにしても、何時まで落書きしているんだアイツ」

 消す時のことを失念しているんじゃなかろうな。

 見たところ、かなり高い位置にも落書きを描いている。よりによって何で全体に描いてしまうのか。

「放っておくか…」

 私には、別に関係ないし。

 黒板から視線を背け、教室全体を見渡す。

 生徒が一人もいない、教室というのは矢張り不気味だ。一つも窓が無いのが、不気味さに拍車を掛けている。手持ち無沙汰に勉強机を見ると埃が積もっていた。長年、誰も使わなかったことが察せられた。この教室は、何のために存在しているのか。

 誰も学ぶことの無い教室に価値は無い。人のいない教室にとどまり続けるのに意味が無いのと同程度に。

 でも、他に行き場は無い。

 あるのかもしれないが、今の私には見つけられていない。

 背後ではチョークの音がまだ聞こえてくる。

 いい加減、この音にも飽きてきた。

「…何もないな…」

 教室全体を見ても、何も置かれていない。

 本棚や傘立ては勿論、掃除用具入れさえも置かれていない。

「…気持ち悪いな」

 この教室を見ていると、気持ち悪さを感じるのは何故だろう。

 ずっと見ていると、不安定になりそうだ。

 人がいないからではない。

 寧ろ私にとって、それは好ましいことだ。

 そうではなく。

 自分の知っている教室の情景とこの教室の情景が何処かずれているからだ。

「…イル、そろそろ…」

 出よう、と告げようとした所で。

 教室の片隅に、黒い何かを見つけた。

 黒いものは、不定形な形から、徐々に人の姿へと変わっていく。

 私は、恐怖した。

 人型を取った、ソレは益々人らしい姿へと変わっていく。

 私は、その顔に見覚えがあった。

 その顔は、私の顔だ。

「…ああ……」

 忘れる筈がない。

 奴はドッペルゲンガーだ。

 また、現実にアイツが現れてしまった。

「……イルッッ!!」

 私は、イルに呼び掛け、抱き着いた。イルは驚き身をよじるが私は藁をも摑む思いでイルに縋った。

「どうした、行き成り。気持ち悪いぞ。まだ、オレの傑作が出来上がってない…」

「そっ、それ所じゃない!! ドッペルゲンガーが!!ドッペルゲンガーがいる!!!!」

「はぁ?」

「後ろを向けばわかる!! アイツがいるんだ!! アイツが!!」

「なんだよ…」

 私はイルの背後に隠れる。

 ドッペルゲンガーの姿も、視界に入れたくなかった。

 夢ならまだしも。現実に現われたら。

 現実で殺されるなら、私はどうすればいいのだろう。

 逃げ場が無い!何処にも、何処にも!!

「…………」

「なあ、イル。頼む……助けてくれよ…」

「あのさ…」

「何さ………」

「誰も、いないけど」

「え……!?」

「教室全部見渡したけど、オレとお前以外の人間、いねーぞ」

 イルの背後から、ドッペルゲンガーのいた場所を見てみると確かにイルの言う通り誰もいない。

「…お前、幻覚でも見たんじゃねーの?」

「………幻覚」

「そうだよ。そもそも、ドッペルゲンガーって死ぬ間際の幻だろ? あんまり気にするなよ」

「…………幻覚」

 アレは、幻覚だったのか。…いや、アレは……本当に幻覚だったのか?

 前も、現実に奴が現れた。

 あの時は幻覚扱いをした。

 でも、さっきのは。

 私の直感が言っている、アレは間違いなく本物だったと。

 でも、本当に?

「佐藤、おい、佐藤、大丈夫か、なあ?」

「………イル、早く出よう」

「…ああ」

 教室を出れば、少しは落ち着く筈だ。

 大丈夫、大丈夫。

 大丈夫。大丈夫。

 でも、それは本当に?

 頭の中で、知らない人の声がそう言った気がした。

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