第9話 現実逃避


 息を切らすほど、走ったのは久しぶりだ。

 ずっと、引きこもってばかりだった。

 だから、これは人間らしい行為だ。

 幻覚から逃げ出すのは、どう考えてもそう捉えられないけど。

 走るのは、嫌いだ。

 逃げるのもだ。

 でも、それ以外、私に何が出来た?

 今まで、逃げる以外のコマンドを使った覚えが無い。

「……はぁ………はぁ………。……疲れた」

 多分、自室の近くだ。

「幻覚…アレは幻…」

 そう、幻覚。あの悪夢のせいだ。

 間違っても本物の怪異じゃない。

 私は死なない。

 少なくとも、現実では。ここは風変りな人間がいるだけで、危険人物はいない。

 大丈夫だ。大丈夫。

 大丈夫で、なくてはならない。アレはただの悪夢に過ぎない。私は、あの悪夢を信じない。

「…休もう。…横になろう……」

 もう、平気のはずだ。

 明日から、ここで暮らしていくんだ。

 一日目で参ってどうするんだ。

 これからなんだ。私には先があるんだ。

 一日目で、これじゃあ職員の人に迷惑が掛かる。

 それは、嫌だ。

 ここでもお荷物は嫌だ。ずっと、外でお荷物だったのにここでもお荷物になって堪るものか。が、思わず、地面に座り込む。冷たい床の感触は、私の頭をちっとも冷静にさせてくれない。

 もう、一歩もここから動きたくなくなった。動く気力が完全に尽きた。頑張らないといけないと知っていてこれだ。

 やっぱり私は、救いようも無い屑だ。

 真っ当な人生を送っている全ての人類を呪いたい。

 殺してしまいたい。

「佐藤くん?」

「……………はい?」

 誰ですか、殺すぞ。そう口に出る寸前の所で、誰だかわかった。視界の端で朝に見た白衣がちらついたからだ。……アーネスト、という名前を微かに脳が認識する。

 アーネスト氏は、酷く心配そうに私を見ていた。

 「どうしたんだい、佐藤くん!? 凄く顔色が悪いよ! 何かあったのかい…?」

「アーネストさん…」

 みっともない。情けない。

 こんなまともな人の手を煩わせているなんて、嫌だな。自分で自分が許せなくなる。

 ……早く、自室に戻らないと。

「大丈夫です…」

「いや、大丈夫じゃないだろう…。本当に何があったんだい?」

「何でもないです。ちょっと嫌なものを見ただけです」

「嫌なもの?」

「…現実です」

「………現実」

「はい」

 アーネストさんは目を丸くしている。

 そりゃ、そうだろう。

 意味わかんないんだろうな、きっと。

 言っている私自身さえ、よくわかってないんだから。

 ドッペルゲンガーとか言ったら更に引かれるんだろうな。

 まあ、さすがにそこまで言わないけど。

「……それじゃ、自室で休みます」

「……ああ」

「大丈夫ですから」

 部屋に何とか戻った私は、ベッドの上に寝転がった。

「……疲れた」

 もう、悪夢を見ても良い。

 眠りたい。身体だけでも休めたい。

そんな私の願いが脳に通じたのか、私は、徐々に眠りに落ちていった。

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