秋田編⑦

「いかん、もうこんな時間じゃ。小町や、はよういたせ」


 郁弥は、他の3人と一緒につうの店へと行った。まだ暖房がかかっていない定食屋の室内は暗くて寒かった。それでもいい匂いがするのは、仕込みが済んでいることを物語っていた。郁弥は、その匂いにつられてか、朝の騒動のせいか、急にお腹が減った。


「じきに現役の奴らも来るじゃろうからの」


 部屋の暖房をフル稼働させながら、つうが言った。現役の奴らというのは漁師たちのことである。この定食屋も先ほどの秘湯も、ひと仕事終えた漁師たちの憩いの場であり、情報交換の場なのである。


「朝はこれだけじゃ」


 そう言って出されたのは、ホッケの煮付けとエビの味噌汁、山盛りのご飯だった。店の値札を見ると300円とある。良心的な値段である。ぶつ切り、ごった煮の海の男の料理とは全く違う。箸をのせただけで身がスーッと避けた。口へ運べば、味よりも先に匂いが郁弥を襲った。醤油とも味噌とも言えないほんのりとした優しい香りがした。思わぬご馳走を堪能した。郁弥がお代を払おうと、ポケットの財布に手を伸ばした。その時、真っ白な細い手がそれを遮った。


「今日は、私にご馳走させて」


 小町だった。先に会計をすませると、続けて言った。


「その代わり、お願いがあるんだけど」


 それは、昌平ヒルズのことを詳しく聞きたいというものであった。源さんも興味があったようで、話に入ろうとしてきた。孫娘ののんが、昌平ヒルズにいるのだから無理もない。それを止めたのはつうだった。つうは、郁弥と小町を2人っきりにしてあげたかったのだ。

(昌平ヒルズのことは、あとで小町に聞けばいいじゃろ)

 などと小声で言いながら、源さんの耳をつねった。

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