秋田編③
それを聞いて、郁弥は楽しみになった。どんな浴場が待ち構えているのだろう。寂れていればいるほど、秘湯らしさというものが増していくのだ。今日で店仕舞いと聞いて、むしろ心をときめかせていた。『入湯料100円』と書いた箱があり、そこに自分で100円玉を入れるだけのシステム。露天になっていて、寒風が吹き荒れている脱衣所。外の看板の光が差し込んでいなければ、暗くて何も見えないほどの明るさ。徐々に雰囲気が出て来た。郁弥は壁で仕切られただけの秘湯の洗い場へと足を踏み入れた。
(結構広いんだなぁ)
自然に笑顔になっていた。見知らぬ若者を誘ってくれた人がいたことも、こんなに素晴らしい秘湯に出会えたことも。嬉しくて仕方がなかった。だからという訳ではないのだろう。郁弥は珍しく、自分から老人に話しかけた。最初は、背中を流しましょうかなどというベタなセリフだった。
「おおっ、すまねえな」
老人は、急によく喋り出した若者のいうことを、頷きながら聞いていた。郁弥は、老人の背中を流しながら、自分のことを色々と話した。6年半前に母と死に別れたこと。その後は、父の元を離れ、寮に住んでいたこと。この春に高校を卒業し大学に進学すること。今日は秋田に泊まり、明日からは船で北海道に行く予定であること。1週間後に東京に戻ること。そして、郁弥が実家の話をすると、老人は、目を丸くして言った。
「昌平ヒルズって、秋葉原の?」
これには郁弥も驚いた。まさかこんな田舎の街に、昌平ヒルズのことを知っている人がいるとは思っていなかったのだ。
昌平ヒルズーシェアハウス。19年前から郁弥の父の陽一がオーナーをしている。6畳ほどの居室が240。共有スペースが広く取られている。そこでは毎日のように宴会がある。住民同士の距離が近いのだ。ー
世間は狭いというが、全くその通りだった。老人の孫娘は、去年大学への進学を機に上京。昌平ヒルズに部屋を借りているのだという。この偶然が、2人をより親しくした。
「あいつときたら、出てったっきり連絡を寄越さねぇんだ」
老人が愚痴をこぼしたのも、郁弥に対する警戒心がない証拠である。郁弥も郁弥で、老人に対しては昔からの知り合いのように何でも話した。
旅は道連れという。独り秘湯を巡る旅も楽しい。だがその土地に住む人との交流は、もっと楽しい。温泉よりも温かいものだと、郁弥は思った。昌平ヒルズの住人達も、人生という旅の途中で、他者との交流を求めていたのかななどと、この時に初めて思った。
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