紫陽花

(株)ともやん

第1話

会社から帰る途中、乗り換えのために降りる駅ビルの7階にある書店。

それほど大きくはないけれど、週に1度くらいのタイミングで入り口付近の書評コーナーが変更されていて、僕はいつもそれを楽しみにしていた。

手書きの丁寧な字で綴られた書評は、そこの書店員がどれほど優秀かを判断するには十分だった。


彼女と出会ったのは、いつもと同じように書評コーナーを眺めている月曜日の夕方だった。

彼女は、僕がいつもしているように書評を眺め、僕のレシートに書いてあるのと同じ本を手に取ってレジの列に並んでいた。

最初は偶然くらいに思っていたけれど、次の週も彼女は同じように書評を眺め、僕がさっきカバンにしまい込んだのと同じ本を買っていた。


同じようなことが7回くらい続いて、だいたい8割くらいは同じ本を買っていたと思う。

僕が買った本、すでに持っている本、これから買いたいと思っていた本。

彼女が知らない本を持って並んでいるのを見ると、気になって手に取ったりもした。

それもやっぱり面白くて、きっと趣味が合うはずだと思った。

そうして、僕は彼女と話してみたいと思うようになった。


声をかけようと決心をして、そこからはまた少し時間が必要だった。

まず、知らない人に声をかけることをしたことがなかったから、どう声をかけたらいいかわからなかった。それでもどうにか話したくて、決意をしてから4回目くらいにようやく声をかけることが出来た。


「あの、その本好きなんですか?」

「え?」

「えと、僕も好きなんです。その本」

「は、はい。私も好きで……」


彼女が戸惑っているのがわかった。


「あ、僕……」

「いつもこの時間にいる人ですよね?」

「そ、そうです!」


思わず大きな声を出してしまい、彼女は少し驚いていた。

しまった、と思い口を塞ぐと、彼女が「びっくりした……」と言って笑った。


「いつもいるな、って思ってて、私が買いたい本先に買っていくから気になってたんです」

「あ、僕もです」


僕と彼女は、顔を見合わせて「同じですね」と言って微笑んだ。

少し話をしてわかったけど、やっぱり僕と彼女の趣味は完全に同じだった。

作者や作品はもちろん、シーンやセリフ、文章構成の評価に至るまでが同じ感想だった。


「あの、もしよければもっとお話ししたいです。このまま食事でも行きませんか?」

「え、あ、あの……」


戸惑っているのがわかった。

僕は夢中で言ったから最初はわからなかったけど、途中から「これはまるで僕がナンパをしているように見えているんじゃないだろうか……」と気付いた。

後から聞いた話だけど、このとき彼女は「男性に誘われたのは初めてだったから、どうしたらいいのかわからなかった」らしい。

今でも、このときの話を思い出しては顔が熱くなる。

だけど、やっぱり彼女に声をかけて良かったとも思っていた。


雰囲気の良いリーズナブルなレストランに入り、あっという間に3時間ほど経ってしまった。

僕はまだまだ彼女と本の話をしていたくて、その場で連絡先を交換して「また話しましょう!」と興奮気味に言って別れた。


彼女は、容姿は平均で、メイクもそれほどしないから、街に出ても目立つタイプじゃなかった。性格も大人しくて、本以外の趣味はほとんどなかった。

それでも、彼女と本の話をするのは僕にとって幸せな時間だった。

最初のうちは、本屋で会った帰りにカフェやレストランで話すだけだったけど、そのうち休日も予定を合わせて会うようになっていった。他の日も予定さえ合えば会うようになったし、僕の中で彼女と会話をしない日はほとんど無くなっていった。

3ヶ月もそんな風に会っていれば、彼女を好きになっていくのは自然だったと思う。


「悠斗さん、私と付き合ってください」


僕が彼女に告白をしようと決意した日のことだった。

いつもよりランクの高いレストランを会社の同僚に教えてもらい、いつもよりスーツをキッチリと着こなして、いつ告白しようかと作戦を考えていたときに彼女が言った。


「私、悠斗さんが好きなんです……」

「はい! 僕もです!」


驚きやら嬉しいやらで興奮していた僕が大きな声で答えると、彼女は少し驚いて、そのあと「同じですね」と言って微笑んだ。




付き合い始めてから結婚までは早かったと思う。

お互いに初めての恋人だったから、恋人らしいことはあまりしていなかったように思う。

だけど、僕が「本屋に行かない?」と言うと、彼女は嬉しそうに「うん」と答えてくれた。

今までと特段変わったことはしなかったけど、歩くときに手を繋ぐようにはなった。

本屋に行って、カフェに行って、本の話をして。

たまに僕の家に彼女が泊まりに来ると、一般的な恋人がするようなことをそっちのけで本を読んで感想を言い合っていた。

それでも、3ヶ月が経つ頃には彼女とキスをして、そのまま体を重ね合った。

お互いに初めてだから緊張していたけれど、僕が「緊張するね」というと彼女が「同じだね」と言って笑った。


付き合い始めてから7ヶ月が経つと、僕は彼女と結婚するんだろうと思っていた。

そのことを話すと、彼女も同じ気持ちだったようで、笑顔で「うん」と答えてくれた。


結婚してから3ヶ月後、彼女が妊娠した。



「ぱば、だっこ!」


3歳になる優希が、そう言って僕の脚にしがみついた。

初めての遊園地を満喫して疲れ切ったのか、抱き上げた次の瞬間には寝息をたてていた。

僕はそっと優希をベビーカーに乗せ、茜からハンドルを受け取る。


「まだお昼も食べてないのにね」

「仕方ないよ。あんなにはしゃいでたんだから」


ベビーカーの中でぎりぎりいっぱいまで豪快に手足を広げて寝ている優希を見て、僕と茜は笑った。


僕と茜の間に生まれた男の子は、優希と名付けた。

茜は僕の名前を取って悠希にしようかと言っていたけど、僕みたいにのんびり屋になってしまうと気になる女の子がいても話しかけられないかもしれないから違う字にしたいと言った。

茜は、それならと“悠”を“優”の字に置き換えて「優しさはいくらあっても困らないでしょ?」と言って笑った。僕も「それが良い」と答えた。

ただ、生まれてからは夜泣きがとてもパワフルだったから、そのときばかりは2人して「もう少しのんびり屋でも良かったかもね」と言って困った顔をした。


「今日は来て良かったね」

「まだ来てから2時間も経ってないよ。その言い方だともう帰っちゃうみたいだ」

「そうする?」

「うーん……、さすがに勿体なさ過ぎるんじゃないかなぁ」


誰に似たのか本好きになってしまった優希は、保育園でも生粋の読書家になってしまった。

絵本はもちろん小説だって読むし、僕たちと優希の会話といえば、大半は「これ教えて」と漢字の読み方と意味を聞いてくることだった。

保育園ではいつ迎えに行っても本を読んでいるし、友達は小説の中にいると言わんばかりで、僕と茜は友達が出来るのか少し心配になった。

だから、今日は優希も大好きなテーマパークに連れて来てみた。

話したいことが出来たら、友達と話すことも増えるかもしれないから。

そんな僕と茜の心配をよそに、あっさりと寝てしまった優希を見て、僕はまた心配になった。


「大丈夫よきっと。さっきだって、ぱぱ! まま! ぼくあくしゅしてきたよ! すごいふかふかだったんだ! って嬉しそうに話してたじゃない」


茜は、僕の心配を見透かしたようにそう言った。


「ご飯を食べよ。また起きたら遊びたいって言い出すかもしれないでしょ?」



結婚してから5年が経つ頃には、茜は2人目を身籠っていた。

優希は兄弟が出来るのを本当に心待ちにしていたし、彼の本を読む時間の半分は兄弟が出来たらどんなことをしたいかを話す時間に変わっていった。

僕も、仕事を休んで家の手伝いをすることが増えた。

幸い、職場は育児に理解がある方だったし、休むことはそれほど大変ではなかった。



僕がリビングで家事をしていると、プルルルルと電話が鳴った。

いつもあまり使わない家の電話を取るために立ち上がる。

スマートフォンがこれほど普及しているんだし、何も出る場所が限られる固定電話でなくてもいいのに。まぁ、緊急連絡先なんかに番号を書いたこともあるから、何か大切な用事なのかもしれない。

受話器を取り、通話ボタンを押す。


「はいもしもし、藤田です」

『あ、もしもし。私、瀬田と申しますけれど、藤田悠斗さんでお間違いないでしょうか?』


丁寧で落ち着いた口調の女性だった。

瀬田と言われても聞いたことがないし、声を聞いてもまるで覚えがない。

幼稚園の先生だろうか? それとも近所の人?

もしかしたら、覚えていないだけで昔の同級生かもしれない。

向こうは僕を知っているようだし、間違い電話とも思えないから。


「はい、藤田悠斗は僕です。瀬田さん……、でしたか? 妻のご友人でしょうか?」

『いえ、藤田茜さんとは友人ではありません』


茜の友人でもない。

いよいよ何の繋がりかわからない。

僕は、失礼かもしれないと思いながら聞いてみることにした。


「えと、大変失礼かと思いますが、どういったご縁でしたでしょうか?」

『いえ、私の夫と藤田茜さんが不倫をしたとのことで、大変ご迷惑をおかけ致しました。許されることではないと思いますが、せめて謝罪をさせていただければと思いまして』



電話の後、僕はしばらく何も手をつけられなかった。

茜が帰ってくる前に終わらせる約束をした掃除、洗濯、夕飯の準備はまったく進まないまま、時計の針は“5”の字を示そうとしていた。

瀬田と名乗った女性は、電話で「茜が不倫をした」と言っていた。

もちろん、勘違いだったってこともあるだろう。

だけど、勘違いで夫婦の名前を揃って言い当てるなんてあるだろうか?

それでも、たまたま茜が疑われているだけかもしれない。


話によれば、半年ほど前に瀬田さんの夫と見知らぬ女性が歩いているのを瀬田さんの友人が見かけたらしい。

夫を問い詰めたところ不倫を白状し、相手の名前と連絡先を入手したとのことだった。

瀬田さんの夫、瀬田春樹さんは、近所の保険会社で働く営業マンらしい。

営業中に茜と出会い連絡先を交換、後日カフェで話をし、ホテルへと向かったらしい。

それがちょうど2ヶ月前。

茜のお腹にいる子供が、その男との子供でも何ら不思議はない。


自分の妻の身籠った子供が、自分との子供ではないかもしれない。


その疑念は、僕を苦しめるには十分だった。

そうだ、優希を迎えに行かないと……。

思い出して立ち上がる。

僕の足取りは重かった。



「ただいま。あれ、優希は?」

「優希なら、一度実家に預けてきたよ」

「そうなの? あ、もしかして優希がわがまま言ったとか? 悠斗さんの実家、優希の好きな本多いもんね」

「うん……」


いつもと変わらない様子で、茜が帰ってくる。

勘違いや人違いなら良かった。

でも、きっとその可能性はほとんど無くて……。

だとしたら、茜は僕に隠しきれると思っているのだろうか?

それとも、茜にとって僕は“不倫をした”と罪悪感を覚えることもない相手なのだろうか?


僕がこれから紡ぐ言葉は、僕にとって毒でしかないのだと思った。


「…………茜、僕に隠してることある?」

「……え?」

「瀬田さんて人から、連絡があったよ」

「……………………」


沈黙があった。

僕は茜の顔を直視できなかった。

それでも、その沈黙が何を示すのかくらいはわかった。


「茜、僕に隠してることある?」

「………………………………」


少しだけ視線を茜の方に送る。

カバンの握られた手元を見ると、布の生地がくしゃりと折れていた。


「……ごめんなさい」


一言だけ、茜が呟いた。

僕は何も言えなかった。


つとめて冷静でいようと思った。

そうでなくては、もうどれくらいこの関係を打ち砕いてしまうかわからなかったから。

ゆっくりと、僕は話し始めた。

僕が何を聞いたのか。

話している間、茜は何も言わずただぎゅっとカバンを握り続けていた。

僕の心臓も、カバンと同じように握り潰されているように感じた。

いつも仕事が終わって帰るのが楽しみだった“この場所”は、地獄に変わってしまったんだと思った。


「なんでしたのか……、理由を聞いてもいい?」


僕が聞くと、茜は「寂しかった」と答えた。

僕が「どうして?」と聞くと、「貴方が完璧過ぎて、私は必要ないと思ったから……」と答えた。


不安で、もしかしたら自分は必要とされていなくて、そんなときに瀬田という男が来た。

なんでも聞いてくれるその男に悩みを話していたら、少しだけ救われた気がした。

そして、また話を聞いてくれるという彼の誘いに応じ、気がつけばホテルにまで行ってしまったのだという。


僕は、「なんでそんなことを?」とはもう聞かなかった。

そのかわり、深呼吸をしてから「君はどうしたい?」と尋ねた。

彼女は、「私は貴方を傷つけたから、何も決める権利は無い」と言った。

僕は冷静でいられる自信がなくて、「少し1人にしてほしい」と言ってリビングをあとにした。


自室のベッドに座り込み、頭を抱える。

僕が間違っていたのだろうか?

いつだって家族を優先してきたつもりだったし、いつでも家族を愛しているつもりだった。

もちろん、茜だって例外じゃない。

彼女がいたからこそ僕は頑張ってこれたし、これからもずっと支えていてほしかった。

彼女も、同じ気持ちでいてくれるだろうと勝手に思っていた。

それが悪かったのだろうか。


それでも僕は、彼女を許す気にはなれなかった。


彼女に寂しいと言わせてしまったのは、僕のせいかもしれない。

彼女の悩みを聞いてあげられなかったのは、僕の怠慢かもしれない。

だけど、彼女の行いは、僕にとって到底許せるものではなかった。


子供の頃から、僕は“幸せな家庭”というものに憧れていた。

穏やかな父と優しい母、そして元気な子供たち。

そんな普通の、あたたかい家庭に憧れていた。

僕と彼女が別れてしまったら、子供たちはどうなるんだろう。

彼女のお腹には子供がいる。

僕の子供でなかったとしても、その子に罪はないと思う。

優希だって、これからの多感な時期につらい思いをさせてしまうかもしれない。

優希の明るさを奪ってしまうかもしれないと思っただけで、また心臓が潰れそうになった。

あの子の可能性を、僕が奪いたくない。



リビングに戻ると、茜は静かに椅子に座っていた。

目元が赤くなっているように見えた。


「茜、すこしいい?」

「…………うん」

「僕は、君を許すことはできない」

「…………うん」

「でも、だからといって、子供たちには悲しい思いをさせたくない」

「……………………うん」


彼女の目から、涙が溢れた。

俯く頬を伝っていた粒が、ぽつりと膝の上に落ちたように見えた。


「子供たちが大人になるまで、今までのように夫婦でいてくれ。でも、それが終われば、僕たちは他人に戻る。いいね」


彼女が「ごめんなさい」と言った。

この選択は、きっと僕と彼女にとって地獄となることはわかっていた。

それでも僕は、“家族”という関係を捨てることはできなかった。



翌日、12時ちょうどに瀬田夫妻が来た。

妻には自室にいてもらい、僕だけが対応のために玄関で出迎えた。

至って真面目で誠実そうな男は、とても不倫をするようには見えなかった。

奥さんの方は強気な性格のキャリアウーマンといった感じで、僕に深く丁寧なお辞儀をして謝罪の言葉を述べた。

男の方は、どこで聞いたのか妻が妊娠していると知っており、子供がもし自分の子であれば、せめて養育費だけでも払わせてほしいと言ってきた。

僕は、養育費も何もいらないので金輪際家族には関わらないでほしいと言った。

男はそれでもと食い下がってきたが、僕が意思を変える気がないとわかり諦めてくれた。

去り際にもう一度僕が「金輪際家族には関わらないでください」と頭を下げると、瀬田夫妻は「大変申し訳ありませんでした」と言って帰っていった。


数週間後、瀬田夫妻の離婚が決まったと聞いた。



妻のお腹にいた子供は、元気な女の子だった。

もしかしたらあの男の子供かもしれないと考えると心中は穏やかではなかった。

だけど、その疑問はすぐに晴れた。

生まれてきた女の子の血液型はOだったからだ。

僕と妻はO型で、あの男はAB型だと知っていたから、生まれたきた女の子は紛れもなく僕と妻の子だとわかった。

妻はその事実を知り、「貴方の子供で良かった」と言った。

それでも、妻があの男をたった一時でも愛した事実は変わらなかった。



子供たちは、スクスク育っていった。

僕と妻は、ごく普通の幸せな家庭を丁寧に再現していたようと思う。


優希はいつのまにか友達が増え、外で遊ぶことも増えた。

いつだったか友達と喧嘩をして、顔に傷を作り帰って来たことがあった。おもちゃの取り合いという可愛らしいものだったけど、本人がいたって真剣に怒っているのに笑ってしまった。そして、「喧嘩をしたときは仲直りをしないといけないね」と言うと、優希は素直に「うん」と頷いた。

背が伸び始めたころには、「好きな女の子にフラれた」と言って泣きついてきたことがあった。まだ思春期にもなる前だったし、僕は「気にすることない」とアドバイスをした。妻は、「女の子も、優希の魅力がわかるようになるのはもう少し後だから大丈夫」と言っていた。

体が成長して随分とたくましくなったころ、優希が女の子を連れて来た。

僕が「優希の彼女?」と聞くと、優希は「うん」と答えた。

そして、「お父さんとお母さんみたいに仲良しな夫婦になりたい」と言った。

少し間を置いて、「そうするといい」と笑顔で返した。

そのときの僕は、極めて優秀な演者だったと思う。


女の子には“葵”と名付けた。

妻の“茜”とは色が対象的で、友人からは「葵ちゃんも、きっと茜さんみたいに素晴らしい女性になるよ」と褒められた。

葵も、僕や妻、優希と同じように本好きになった。いつだってプレゼントには本を欲しがっていたし、好きな作家の新作が出れば、誰よりも早く情報を手に入れて買いに行っていた。

まだ幼稚園に通っていたころ、葵は少しづつ自分で物語を考えるようになっていった。

はじめは、平凡な家族の物語だった。

それがいつしか本格的なミステリーを書くようになった。

穏やかなようで、なんだって見透かしてしまう探偵を描く葵は、僕には少し怖かったのかもしれない。小説に出てくる探偵のように、僕と妻が夫婦を“演じている”と見透かされているかもしれないと感じたから。



「ねぇ、お父さん?」


あるとき、葵が聞いてきた。

僕が自室で1人なのを見計らって来たようだった。


「お父さんとお母さんは、仲がわるいの?」


僕は一瞬答えに迷った。

もう全てを知ったうえで聞いているのなら、僕が誤魔化しても意味はないと思うから。

そして、葵の真意を確かめようと考えた。


「なんでそう思うの?」

「お父さんとお母さん、私たちがいないところで話したりしないから……」


確かに、僕と妻は子供たちのいないところで会話することはなかった。

僕から妻に話しかけることはなかったし、妻からもそうだった。

それで困ったことはなかったし、それで良いと思っていた。


「確かに、あんまり話したりしないね」

「あんまりじゃないよ……、全然話してない」


葵の言葉は、少し問い詰めるようだったと思う。

もう誤魔化せる雰囲気でもなかった。



「私、お母さんから全部聞いたんだ……」



18年つけ続けた仮面が、砕けていくように感じた。


「最初は気のせいかなって思ってた。お父さんもお母さんも、私とお兄ちゃんの前だとすごく仲良しに見えたもん。だけど、なんか変だなって。2人とも私たちがいないところでは話してなかったから。それで、お母さんに聞いてみた……」


葵の表情は、暗く沈んでいた。

“女の勘”とは、よく言ったものだと思う。

まさか17歳の娘に、“夫婦”という嘘を見破られるとは思わなかった。

自分でも完璧に演じきっていたと思っていたのに……。


「そうか。それで、茜は言ってしまったんだね」

「お母さんを責めないで。私が無理言って聞いたんだから」


僕の言葉が責めるように聞こえてしまったのか、葵がたしなめるように言った。

僕が「ごめんね。そんなつもりはなかったんだ」と言うと、葵は「うん」と返した。


「私、お母さんがそんなことしたなんて信じたくないよ。お母さんもお父さんも大好きだもん……」


葵の目には、涙が浮かんでいた。

ぽろぽろと大粒の涙が溢れて、ぽたぽたと床で音を立てていた。

本当は沢山言いたいことがあっただろうに、感情でいっぱいになった葵は言葉を紡ぐことが出来そうになかった。


この18年間、理想の家族として在り続けた。

僕は一生懸命に働いたし、それでも週に2日は家族サービスにあてていた。

半年に一回は大型のレジャー施設や温泉、旅行なんかにも連れて行けたし、コミュニケーションも欠かしたことはなかった。

妻も、まさに理想の母であったと思う。

毎朝の弁当作りを休んだことはなかったし、最初はお世辞にも上手とは言えなかった料理は、最近は職場や学校で評判となっていた。

優希も葵も、友達を家に呼んでは「お母さんの料理美味しいでしょ?」と自慢していた。

それは僕も同じだった。


優希も葵も、本当に優しく育ってくれた。

自ら進んで手伝いをしてくれることはもちろん、僕や妻が風邪を引けば、家事の一切は子供たちの領分だった。

特にこだわりが強いのは優希で、掃除洗濯なら家族で敵うものはいなかった。

料理だって、最近は妻に教えてもらって上達している。


「お母さん、お父さんにいっぱい謝ってた。本当に傷つけたから、こうなるのは仕方ないって。でも、お父さんのことすごく大切にしてるよ。この間買い物に行ったときだって、これはお父さんが好きなもの、これはお父さんが苦手なものって……」


僕は好き嫌いはあまりしないようにしているけど、全く無いわけではない。

でも、そんな話を妻の前でしたことはなかった。

それなのに、彼女は僕の好き嫌いを理解していた。



18年間、僕と彼女は夫婦を演じ続けて来た。



おそらく、僕の心中は決して幸福とは言えなかっただろう。

彼女の裏切りから目を背けるために僕は“良き夫”であり続け、“良き夫”であり続けるがために彼女の裏切りと向かい続けて来た。

彼女の顔を見るたびに、あの男の顔を思い出した。

そして、僕の意思とは無関係に、脳内では彼女があの男に抱かれている姿が浮かんでいた。

どんなふうに愛し合ったのだろうか、どんなふうに触れ合ったのだろうか、どんなふうにくちづけを交わし、どんなふうに体を重ねたのだろうか。

彼女の姿を見るたびに、彼女の体をひどく不気味なものに感じた。

この18年の中で、僕が彼女と夫婦を演じ続ける選択をしたことを、後悔しない日はなかった。


彼女には、いったいどんな18年だったのだろうか。

あのときから、僕と彼女が愛し合う瞬間はなくなった。

それでも妻であり続けた彼女は、以前と変わらず僕を見続けていたのだろうか?

決して愛してくれることのない相手を想い続けたのだろうか?

彼女の目に、僕はどんなふうに映っていたのだろうか?

いったい何を想って、彼女は妻であり続けたのだろう……。


「ごめん……、1人にしてくれ」


その言葉を絞り出すので、僕はもう限界だった。



『お父さん! お母さんが!』


仕事がひと段落した夕方のことだった。

葵の取り乱した声が、ひどく耳に痛かった。


“早く来て”

“お願い”

“お母さんが”


ただひたすらにそれだけを繰り返す葵の声は、死にかけの蝉のように五月蝿かった。



病院に辿り着くと、病室にはベッドで穏やかな寝顔を浮かべる妻と、妻の手を握りしめて離さない葵がいた。

お母さんは手首を切ったのだと、葵は言った。

学校から帰宅した葵がリビングに行くと、血で濡れた床に妻が倒れていたのだという。

傍らにある包丁には血が掠れるようについており、手首には何度か刃を当てて躊躇った傷もあったという。


病院からの帰り道、葵は「もうお母さんを許してあげて……」と僕に言った。

僕にはもう、どうしたらいいのかわからなかった。



妻の傷は深かった。

それでも、葵の適切な処置と迅速な対応のおかげで2週間もしないうちに退院を言い渡された。


妻は、「迷惑をかけてごめんね」と僕に謝った。

僕が「気にしなくていい」と返すと、妻はもう一度「ごめんね……」と言った。

僕が「少し話そうか……」と言うと、妻は一瞬驚いて、その後に「うん」と答えた。



2人で訪れた公園には、紫陽花が咲いていた。

僕は椅子に残った雨をハンカチで払って、濡れないのを確認してから「座ろうか」と言った。


「傷は大丈夫?」


僕が聞くと、彼女は自分の手首を触りながら「うん」と答えた。

グルグルと巻かれた包帯は、決して彼女が剥がしたりしないよう頑丈に留められていた。


「…………君にとって、この18年はどうだった?」


決して幸せではなかっただろうと知りながら、僕は彼女に聞いた。

彼女は少し俯きながら、それでも笑顔で「幸せだったよ」と答えた。


「貴方といられたから、私は幸せだった」


僕が「本当に?」と聞くと、彼女は「本当に」と返した。

彼女の笑顔は、慈しみに満ちて穏やかだった。


「僕は、幸せとはいえなかった」


僕が言うと、彼女から笑顔が消えた。

そして、「ごめんなさい」と呟いた。


「君に裏切られたと思うと辛かった」


それから、僕と彼女は昔のことを語り合った。

付き合い始めたころのこと、結婚を決めたときのこと、優希が生まれてからのこと、葵が生まれてからのこと。

僕は彼女を必死に消そうとしていたのに、彼女の想い出にはいつも僕がいた。

彼女は、僕のことを愛しているとは言わなかった。

だけど、彼女の想い出一つ一つに、僕への愛情が詰まっていた。

“嘘”と“演技”で塗り固められた僕の18年は、彼女にとってかけがえのない“本物”だった。

18年前のことを、彼女は悔やみ続けていた。

自分の過ちで、どれだけ僕を悲しませたのかと。

それでも、家族の幸せを想って“妻”と“母”であり続けた時間は幸せだったと。


思えば、僕はずっと彼女に支えられてきた。

彼女がいなくては、僕は決して優希と葵を育てられなかっただろう。

優しく聡明に育ってくれた子供たちが、彼女の母としての素晴らしさを物語っていた。


「君はどうしたい?」


僕が聞くと、彼女は僕から離れて1人で暮らすつもりだと答えた。


「それが貴方との約束だから……」


今も昔も、彼女は僕への罪を償い続けていた。

それがどれだけ深い愛情を必要とするのか、僕には想像が及ばなかった。


「僕たち……、やり直せないかな」


口から出たのは、そんな言葉だった。

今まで許さなかったのは僕なのに、なんて勝手なことを言うんだろうと思った。

それでも、紛れも無い本心だったと思う。

裏切った事実は変わらなくても、彼女ほど僕を愛してくれる人はいないだろうと思った。

彼女は「裏切ったのは私なのに……」と言ったけれど、僕は「それでも良い」と答えた。


「茜、僕はたぶん、君を好きなんだと思う」


僕が言うと、彼女は「私も」と答えた。

僕はそれを聞いて「同じだね」と言った。

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紫陽花 (株)ともやん @tomo45751122

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