第5話 606号室

忘れ方を忘れた僕は、覚える事も出来ないまま溺れて死ぬんだ。

天井を呆然と眺めながら、そう思った。

確信めいた理論はなく、ただそう思ったのだ。

嫌なことがあっても、忘れることなんて出来なかった。

悲しいことがあっても、それを拭い去ることなんて出来なかった。

いつのまにかそれらが折り重なるように僕の心を濁らせていった。

楽しいこと、嬉しいこと、人並みに感じてきたはずなのに思い出せない。

覚えていられない。

やけに眩しいひかりは、僕に世界の存続を伝えにくる。

世界なんて、どうでもいいのに。

僕の望む世界は、疾うに壊れてしまっているというのに。

それでも、窓の外に広がる誰かの世界は、僕と共存することを強要してくる。

誰かとつながりたいなんて、そんなの繋がることが出来る奴が言えることだろ。

息が出来なくなって、溺れて死ぬ。

誰かが望んだ世界と生きながらえるくらいなら、僕は僕の世界を貫きたい。

掛け算よりも分数の足し算よりももっと、大事なことを先生たちは誰一人教えてはくれなかった。でもきっと彼らも知り得ないことなのだろうと今ならそう思える。

五十音を「あ」から順番に呟いていく。

大した意味なんて持たない羅列を教えられ学んできた。

もっと、大事なことがあるはずなのに。

でもいつまで待っても解明されないんだろうな。

どうせ溺れて死ぬなら、海にでもダイブしようか。

海の藻屑をなって消えてしまえたら、どんなに楽だろうか。

生憎、ここから海は遠い。自転車でも漕いで向かおうか。

嗚呼、死んでしまいたい。

点滅したままの電灯は、僕の命のように自分を否定している。

誰か、僕が最期まで僕であったことの証明をしてください。

世界を否定しきれず、誰かの救いを乞う僕。

結局僕は死にきれないまま、鼓動を連ねる心臓を証明している。

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