07 八月二日(3)

 いつものように空調のスイッチを入れ、ソファの定位置に腰を下ろす。

 部屋の中は今朝と変わらず散らかっていて、かなり蒸し暑い。

 ぼんやりと周囲の景色を見渡したユキは、膝を抱え、空の容器を目線の先に持ちあげる。

 名前も知らない子供が押し付けてきた飲み物は、今日、初めて口にした。開け方がわからず見よう見真似で先端をねじ切ったものの、失敗して、大いに笑われた。

 その子供が言った「天使さんも人間なんだね」という一言が、甘い水分が渇いた喉を通った時の感覚が、忘れられない。生きているという実感が、ずっと、身体の中で燻っている。

 対して、たくさんの情報が流れ込んだ頭はどうにも上手く働かない。考える、という行為を放棄すれば、耳にした言葉が棘となり、ひっきりなしに喉につかえる。

 千草の中にも、万知子の中にも、ずっと、自分とは別の〝ユキ〟が存在していた。ハチは全てを知りながら、長い間ずっと、何も言わず傍にいた――

 脳裏に浮かんでは消えを繰り返す事実は、虚無感よりも先に、羞恥心を湧き上がらせる。

 我が物顔で〝ユキ〟として居座る自分は、一体、三人の目にどう映っていたのか。きっと滑稽で、そこはかとなく救いようがなかっただろう。

 それは〝屋内に残ったものは全て処分して構わない〟という言葉に、最初から従い、家に留まっていればよかったとさえ思うほどに、知りたくない現実だった。

「……よし坊」

 抱えた膝に顔を埋めていると、ふいに、声をかけられる。

 どういう心境の変化なのか、敷地どころか勝手に室内に踏み込んできた厳三は、顔を顰めた状態で仁王立ちしている。よくよく考えれば、ハチの家族は、北沢だけではない――そう思い至って改めて、ユキは、責める権利があるもうひとりの存在に気付いた。

「ちょっと、年寄りの話に付きおうてくれんか」

 正座をして話を聞こうとすれば、厳三はふぅと息を吐き、指で背後を示す。廊下へと出る寸前、耳に忍びこんできた〝……ちょっとは掃除せぇよ〟という小言は、いつもと同じ声音なはずなのに、どうしてか、足を竦ませた。

 大人しく後ろをついて行くと、曲がった背中は二間続きの和室にずかずかと踏み込み、勢いよく窓を開け放つ。ギッと嫌な音を立てて沈んだ畳に目線を落とせば、脈絡もなく、ドサドサと何かの落ちる音が聞こえてくる。

 壁際に並んだ戸棚へと手を伸ばした厳三は、吟味しながら取り出したものを畳に積み上げ、百八十度方向転換。対面にある仏壇に向け驚くなかれの軽さで輪を鳴らしたかと思えば、さっさと元の位置に戻り、胡坐をかく。

 まるでジェンガのようになっている冊子の山は、分厚さと大きさからして、アルバムか日記だろう。表紙には年号が記されていて、それぞれ、色褪せ具合が違っている。

 この家にも、あっておかしくはない過去の記録――それなのに嫌な動悸を覚えたのは、赤の他人であるはずの厳三が、晒し、触れているせいだ。

「さて」

 舞い上がった埃が空中で輝く中、骨ばった手が、山のてっぺんをぽんぽんと叩く。

 視線に促されて腰を下ろしたユキは、先の見えない状況に息苦しさを覚えながらも、続く言葉を待った。

「昔、この町にはとてつもない美丈夫ジゴロがおってな。そらぁもてもてて、女からは引く手数多。おまけに博愛主義やったから、行く先々で……今で言う、わんないとらぶっちゅーのをしでかしとった。嫁がおるのに」

 唐突に語り始めた厳三は、口を動かすのと並行して、一番上の〝1968〟と書かれた台紙を開く。冊子はやはりアルバムだったようで、茶ばんだ紙面には数枚の白黒写真と、メモ書き程度の文字が記された紙が閉じられている。

「そんなジゴロ、ある時、京都の料亭でえらい気の強い美女を見つけてな。二か月ほど掛けて落としてねんごろになったんやけど、仕事で町に戻らんなあかんなった。元々博愛主義やし嫁もおるしで、美女とはそれきりやと思うて別れたんやが…………二年ほど経った頃に、何の前触れものうにその美女、子供抱えて目の前に現れたんや」

 指で示されたのは、一番上の、左隅にある写真――

「それが、万知子さんと、万知子さんの娘の楓」

 派手な着物姿で古びた家の前に立つ女は、何とも、気が強そうな顔をしている。腕に抱えている赤子の顔は見えないものの、話の通りならこれが――万知子と、千草の母親だ。

「万知子さんはジゴロにさぷらいずしたろ思ってたみたいなんやけど、ジゴロ、嫁がおることも仕事のことも黙ってたから、万知子さんの方がびっくりしてもてな。怒るんか、泣くんか……ジゴロは面倒なこと嫌いやったからどないしよおもてたら、万知子さん、子供抱かせたあとで、家に離縁されてこっちきたから家と金と稼ぐ術を寄こせと来た」

「………………」

「子供がおらなんだジゴロは、その赤子の無垢な目にやられてもて。つこてなかった自分の実家を譲り、生活費を渡し、的屋の場所を確保し……まぁ、あれよあれよと身銭を絞られ。万知子さんはといや、これ以上ジゴロのようなすけこましを増やしとうないと、家に悪さしでかしそうな子を招いて飯を作り始めた。ここまでの人生でおなごの尻に敷かれたことが無かったジゴロは、その新鮮な生活に心も胃も掴まれてもうて。嫁と別れ、万知子さんと再婚しよおもてさぷらいずかけたんやが……一人の女も幸せにできひん男はお断りや、て、家への立ち入り禁止命令を食らうという逆さぷらいず」

「………………」

 面白可笑しく揶揄された内容を俯くことで飲み込み、ユキは、静かに掌を握りしめる。粗方の事情は察せたものの、まだ、聞かなければいけないことがあるのだろう。

「家に顔出せんようになったジゴロは、途端に万知子さんと娘のことが心配になってな。なんせ、家には悪さしでかしそうなもんばっかりがぎょーさん寄っとる。せやったら、そいつら以上に悪いもんを、すぱいとしてこっそり混ぜてもたろと思って投入したんが、ジゴロの信頼できる右腕、冴島……の、二男坊や」

「…………え?」

「二男坊は、器量がえぇし腕も立つ、おまけに口達者やし顔えぇから、いつの間にか周りの家を買い上げて増築してな。色んな人間招いて、毎日ぱーてーみたいなことをしとった。万知子さんも、賑やかなん楽しいわぁて、えらい喜こんでどんどん人呼んで……その頃から、ジゴロの実家はボロ宿、て呼ばれるようになった」

 止まっていたアルバムのページが数枚捲られ、今度は、写真がセピア色になる。

「ところがどっこい、冴島の息子はジゴロ以上にジゴロでな。まさかの、娘が毒牙にかかってしもた。気付いた時にはお腹に子供がおって、おまけに二男坊がすぱいやと知った万知子さんそらぁ大激怒。ジゴロとおんなじ仕事しとる人間に娘はやれんと、えらい揉めた。結局、二男坊は仕事から足洗って、楓を嫁にやるんやのうて自分が婿に入るゆー話で落ち着いたわけや」

 少し大きくなった古い家の前で、撮られた家族写真――五十代くらいの万知子と、万知子に似た女性、その横に立つ男の姿を見て、ユキは唇を噛む。話に出てくる冴島の二男、というのは間違いなく千草の父親で、自分が知る〝ミナミ〟のことだ。

「二男坊はまぁ、優しい男でな。間違いなくジゴロやったんやけど、困ってる人間を放っておけんタイプのジゴロやった。万知子さんに怒られても、楓に殴られても、よー可愛い子を拾ってきて慰めとった。二人も、なんやかんや言いながら情あるし、二男坊の優しいところが好きやったんやろうで、拾ってきた子にも優しいにしとってんけどな……最後に来たんが、今までとはちょっと毛色の違うもんやった」

「…………それが、俺の母親?」

 思ったことを口に出せば、これまで一人で喋り続けていた厳三の顔色が変わる。

「……よし坊、おまえ……どこまで、知っとるんや」

「…………俺の母親が、千草の父親たぶらかしてできたのが、俺ってこと」

 黙っていても無駄だと踏み、ユキはきつく目を閉じて息を吐き出す。

 今日まで、色んな人を傷つけ、迷惑をかけても謝ることすらせずにここまで来た。その中には、どれだけ後悔しても言葉を伝えられない人がいる。

「違うぞ。それは」

「なぁジジィ…………ジゴロって、誰?」

 これまで無断で家に立ち入らなかった理由――それがわかった時点で、答えは見えていた。

 覚悟を決めて顔を上げれば、厳三は目を見開き、唇を戦慄かせている。

「…………ごめんなさい…………」

 どうしてこれまで、気付けなかったのか。

 もうひとりいた、自分を恨んでいるだろう相手を前に、ユキは深く頭を下げる。

「生まれてきて、ごめんなさい」

 ずっと胸の奥に閉じ込めてきた、告げないことが戒めだと思ってきた贖罪――それを口にしてしまったのは、きっと、心が弱りきっていたからだろう。受け止めてくれる相手がいるうちに、という言い訳の裏には、許されたいと、逃げたいと、願う狡さしかない。

「…………そんなこと考えて、今までこの家におったんか」

 震える声が降ってくるのと同時に、骨骨しい腕が頭を囲う。至近距離に来た服からは、老人独特の匂いと、ハチと同じ、洗剤の香りがする。

「わしも万知さんも、よし坊が生まれなんだらとか思うたこと一回もない。なんでそんな」

「…………俺の母親、ミナミが来なくなってからずっと、俺のこと産むんじゃ無かったって言ってたんだよ…………千草の両親が死んだのと、何か関係、あるんじゃねぇの」

「…………陽(みなみ)のこと、覚えとるんか…………そいでも、関係ゆーて」

「頼むから、本当のこと、教えて欲しい」

 口を噤んでしまった厳三を見上げ、ユキは、縋るように細い腕を掴む。これはきっと、今まで目を背けてきた事実を知る、最後のチャンスだ。

「…………楓と陽が死んだんは、酒飲んで運転したせいや。ほんまに、誰にも責任はない」

 ぽつ、ぽつ、と、独白を落とすにつれ、皺にまみれた顔には苦渋が滲む。

「優希が陽をたぶらかしたゆーのも、ちゃうぞ。逆や」

「逆って」

「陽が、優希に手ぇ出した」

「……でも、家族いんの知ってて乗ったあいつが悪いだろ」

「……よし坊にとったら、悪い母親なんかもしれんけど……優希は悪うない。あの子は、誰よりもこの家のこと大事にしとったし、よう気ぃの利く、謙虚で優しい子やった。万知子さんも楓も、優希を家族にしたりたい思うたから養子に入れて……恨んでへんから、そのまま籍残したんや。いつ帰ってきてもえぇようにて」

 昔話を始めた厳三は、どうしてか少し、迷っているように見える。気を使っているのか、事実を隠そうとしているのか――女や自分を責める言葉は、一向に出てこない。むしろ庇っているようにも聞こえて、ユキは知らずと眉を顰める。

「優希は、親の暴力から逃げてきた子でな。助けて拾ったんが、陽やった。せやから、優希が陽を慕っとるのは知っとったんやけども……まさか、陽の方が入れ込んどるとは思わんで、わしらは優希が家出るまで二人の関係に気付けなんだ。急に黙っておらんなって、連絡もつかんなって……その理由が、万知子さんと楓に顔向けできんから、ゆうんは、陽がよし坊のこと吐いてから見えたんや」

「……」

「正味なとこ、全部わかっとって知らん顔しとった陽が一番悪い。と、楓と万知子さんも言うとった」

 過去をひとしきり並べたあとで、厳三は、ばつが悪そうに頬を搔いてアルバムを閉じる。

「ただな。陽は、たまたま見かけたから後つけた、連絡取ってたわけじゃない、ゆーて……優希が出てった理由も、子供身ごもって産んどったんも知らんかったと言い張っとったわ。万知子さんにぼろくそ罵られて、楓に叩かれ回っても、ずーっとおんなじこと言うとったから……まぁ、ほんまやろ……それが、二人が事故に遭う一カ月ほど前や」

「……一カ月前……?」

「せや。三年位内緒で通い続けて、説得したけど自分では無理やったからゆーてな。優希に、子供連れて帰ってくるように言うてくれと、楓に頼んどった」

「……は?」

 記憶に残る人物像とはかけ離れている〝ミナミ〟の暴挙具合に、ユキは目を瞬く。元々言葉に疎かったこともあり、二人の会話は覚えていない。ただ、本当に、厳三のいう内容を話していたのだとすれば、女も〝ミナミ〟も、かなり非常識だ。

「もちろん、内容聞いてた万知子さんは大激怒。嫁さんおるのに他の女に手出して子供作った挙句、長いこと黙ってた、のもやけど……先に、楓に頼んだことがむかちゃっかふぁいあー」

「…………」

「で、私が行くから場所を教えろとなり……暴れるのを何とか宥めて、こっそり楓を説得したらしい陽の選んだ日が……万知子さんが家を空ける、祭の日やった」

 先の見えない話の渦中で、ふいに、パズルのピースがパチリと嵌ったような感覚がする。

 この家の住人であったはずの夫婦が、八月一日に事故に遭った理由――ずっと不思議に思っていた行動の先には、紛れもなく、自分と女が絡んでいた。その事実だけでも、相当に重い。

「あの日な、向こう出る前に、楓が電話くれたんや。優希は帰らん、でも子供は絶対に私らで引き取るから協力してくれゆーて……珍しいにお願いされたから、なんでや? て聞いたらあいつ……恨み吹っ飛ぶくらいに、気付いてやれんかったことに後悔したって泣いとった。優希から子供引き離すのも、このまま子供を優希の傍に置いとくのも、両方辛いけど……子供に美味い飯を食わせたりたいゆーて」

 どこまでが嘘で、何が本当なのか。

「優希に似て何も言わん子やから、私が愛情かけて育てて、返してやりたいて」

 厳三の零す、自分たちを一番恨んでいるだろう人の代弁が、勝手に喉元を苦しくする。

「優希の子が男の子で、きちっと育てられてへんゆーのはミナミから聞いとったんやけど、肝心の居所を持ち逃げされてもうたからどないもできんでな……生きとるかもわからんし、ずっと、気持ちが浮いとった。せやから、よし坊が自分から来てくれたん、嬉しかったんやで」

 初めてこの町に来た日の、厳三と万知子の表情はもう、思い出せない。

「万知子さんも、もう一人孫ができたて喜んどった。憎んどるはずがないやろ」

 それでも、パックに大量に詰め込まれていた焼き鳥の味だけは、ハチに取られてしまった大きなりんごあめの存在だけは、今もまだ覚えている。あれは確かに、万知子の愛情だった。

 勝手に零れる涙を見られまいと腕で拭えば、わしわしと頭を撫でられる。

「あとな。優希は、よし坊の父親はミナミやないと言うとったらしい」

「……え?」

「……まぁ、認めへんかった、ゆーのが正しいんやろけど」

 咳払いをひとつ落とした厳三は、アルバムをまとめたあとで、ズボンのポケットから何かを探り出す。小さく折り畳まれていた紙切れは、皺まみれで、文字が見づらい。

「酷な話するけどな。優希は、よし坊の出生届を出してへん。出せゆーたら拾った子やから自分が産んだんやないて言い張って、ミナミが出すゆーたら、関係ないんやから放っといてくれて返され、まぁ、どうにもならんかったそうや。ミナミと楓がよし坊を引き取るゆーたんは、二人の子として届け出して、戸籍を作るためでもあった」

 一体どういうことなのか、じっくり考えてみればすぐに意味はわかる。

 要するに、女は、自分を産まれていない存在にしたかったと言うことだ。

「……じゃあ、学校の……冴島って名字は、何?」

「よし坊が来た後に、わしがミナミの兄貴に頼んで作ったんや。……ほんまは、きちっと優希と話通さんなあかんことやねんけど……わしらでは、どないしても優希を見つけられんでな。よし坊も、どっから来たかとか年とか、わかっとらんかったから……」

 様々な葛藤をぐっと堪え、ユキは畳に置かれた紙を見据える。養子縁組届という文字が記された書類を目で追えば〝親〟の欄にあるのは「冴島 一成」「冴島 静」――

 知らない二つの名前の上には、何故か「多岐川 厳三」という、達筆文字がある。

「で、や。これは、よし坊が一八になったらしよ思うとった話なんやけど……」

 自分が十八歳を迎えたのは万知子が死んだ年で、確か、波知が厳三の元に養子に来た年だ。その意味と書類の意図を考えていれば、対面にある顔が、にやりと笑みを浮かべる。

「行く先が決まってへんのなら、わしの、養子にならんか?」

 これが、食えない狸の真骨頂なのか。

 厳三は何の前触れもなく、全く予想していなかった提案を切り出してきた。

「ほんまは、ミナミに跡を継いで欲しかったんや。ミナミが無理なら、ちー坊…………」

「いや、後って」

 思い返してみれば、波知は公園で〝跡取りがいないから〟という発言をしていた。だが、話を聞いている限り、厳三には血の繋がった身内がいる。表立ってはいないものの、千草は間違いなくこの偏屈老人の孫で、跡取りだ。

 あまりの話の離散具合に黙していると、厳三は眉を顰め、再びポケットを探り始める。

「さっきのジゴロ武勇伝、ちゃんと聞いとったか?」

「…………武勇伝?」

「万知子さんは、ミナミに足洗わせるくらい、ジゴロの仕事を嫌うとったて」

 寛大で優しい万知子が毛嫌いする、ミナミと千草に継いで欲しい職――

「…………仕事って、何だよ」

「多岐川組の親分や。ちぃさい組やけど、えぇ人材揃とるで」

 組、親分、その単語を聞く前から薄々察していた〝仕事〟の真意を察し、ユキは口角を下げる。確かに波知には不似合いで、千草ならば適任そうな職業だ。

「まぁ、今は冴島が頭してるんやけども……わしは引退して、悠々自適な会長さんや」

 こちらの反応は見ることなく、厳三は、追加で取り出した紙切れを差し出してくる。

「ちなみに、この家の光熱費とちー坊の携帯代は、何でかわしが払わされとってな。まぁ、電気、ガス、水道……地代はまけといたろ」

 数字が並んでいるところを見ると、家計簿なのだろうか。上部に「まちさんち」という文字が書かれたメモには、たくさんの項目と〝計五八〇〇〇也〟という、赤丸付きの金額が記されている。これが事実であれば、自分は二年間、完全に隣人の世話になっていたということだ。

「三カ月以内に全額払いきれんかったら、その時に判押して貰おかな」

 楽しそうな鼻歌が聞こえてきたことで、ユキは、渡された紙切れの端を握り締める。

 五万八千円という額面は決して少なくないものの、今朝見たものよりはずっと現実的だ。三ヶ月という期間も、条件付きの養子縁組も、ミナミと千草を引き合いに出すことも――全て、偏屈な老人なりの優しさなのだろう。

「…………ぜってー、押さない」

「…………そか」

 いつも通りを意識してみれば、厳三はきょとんとしてから、寂しそうに頬を掻く。まさか本当に判を押させたかったのか、と一瞬は戸惑ったものの、多分、解釈は間違っていない。

「よし坊」

 名前を呼ばれたことで前を向けば、骨ばった指が両頬を挟む。

「おまえがえらいもん抱えてここにおったんは、よぉわかった。でも、頼るんと、甘えるんとはちゃうからな。思とることも、言わな人には伝わらん」

「…………」

「わしが生きとる間は、どうにもならんことがあったら手ぇ貸したる。辛かったら泣いたらえぇ。せやから、これからはしゃんと生き」

 普段の茶化し具合はどこへやら、疑う余地もない真っ直ぐな言葉に、ユキは唇を噛む。

 何度拒んでも、邪険にしても、厳三は〝よし坊〟という呼び名を使い続けた。頑固で気は効かず、人に合わせることも媚びることもない。常に飄々としていて、当たり触りのない日常を過ごしている。だからこそ、この老人だけは、昔からずっと――〝ユキ〟ではなく〝由貴〟として、自分と接してくれていたのだと気付く。

 嫌味ったらしい物言いも、子供を諭すような向きあい方も、芯の強さも、ハチの性格は、間違いなく厳三譲りだ。何も返すことができない自分に情をかけているあたり、偏屈で物好きなところも似ている。怒ることも、無理強いすることもなく傍にいてくれた二人は察するに不器用で、万知子以上に、優しい。

 だからこそ、もう、困らせることはしたくなかった。

 千草がどこまでの事情を知り、過去に女のことをどう思っていたのか――それを問うてしまえば、きっと、二人の現状や、自分との関係まで露呈する。もしかすると既に、知られているかもしれない背徳的な行為を、裏切りを、隠したかったのは見栄だろう。

 これまで見守り続けてくれた人を失望させたくない、その一心で飲み込んだ言葉は、どんな苦痛にも勝る、重い枷になった。

「……ありがとう」

「急にしおらしいにすな。きもちわるい」

 礼を言えば、厳三は呆れたように顔を背ける。

「…………なんもしてやれんで、悪かったな」

 小さく丸まった背中が矢継ぎ早に零した一言は、どうしてかまた目頭を熱くして、ユキは古びた家の空気を胸一杯に吸い込んだ。

 数十冊のアルバムを抱え部屋を出ると、ぬるい風と、車の走行音が傍らを吹き抜けていく。先ほどは気づかなかったが、どうやら厳三が、二階の雨戸と窓を全開にしていたらしい。陽に晒された長い廊下は、これでもかと言わんばかりに、杜撰な日常を浮かび上がらせている。

 曇った窓硝子に抜け落ちた床板、半分剥がれたトタン壁、埃の上に残るたくさんの足跡――感傷には程遠い現実は、厳三が呆れるのも頷ける。右足を持ち上げてみれば、長時間サンダルで歩き回ったせいなのか、はたまた埃を踏んでいたせいなのか、足の裏は真っ黒だ。

 壁の雨染みを目で追いながら一階へ降り立つと、風に乗って、蚊取り線香の匂いが漂ってくる。二階とは違って埃がない廊下の先では、今日も暢気に、鳩時計がコチコチと音を鳴らす。

 昔は、毎日、当たり前のように触れていた夏の気配。いつからか、知らない間に〝懐かしい〟と思うようになっていた日常は、これからどんどん増えていく。昨夜の花火も、数分前に見た埃の上の足跡も――きっと、この家での何気ない全てが恋しくなる日が、来るのだろう。

「げんさーん……干からびちゃうー」

 居間に入ると、ハチは縁側で仰向けになってだれている。庭の草は、雑ではあるものの大半が刈り取られていて、視界の先が無駄に広い。

「悪い悪い。ほな、寿司でえぇか?」

「んー……丼がいいかな。がっつり行きたいかも」

 露わになった壁と樹木を眺めていれば、傍らで、昼飯の相談が始まる。

 この家で過ごす、最後――ならば、残ったものは使い切らないと勿体ない。

 六年前の調味料を、確認もせずに平気で使おうとするハチのことだ。きっと、食材関係を持ち帰らせたところで腐らせて終わるだろう。

 そう思い至って、ユキははたとした。

「待て。俺が作る」

 談義を止めに入ると、隣人たちは、きょとんとした顔で見つめてくる。

「「え?」」

 似た者同士も、似た者同士。

「ユキさん、ご飯作れるんですか?」

「よし坊、飯、作ったことあるんか?」

 全く同じ反応を返してきた隣人は、どうやら本気で無理だと思っているらしい。厳三の表情は見る間に険しくなり、ハチは不安丸出しで様子を伺ってくる。

 確かに、ハチが訪ねてくるようになってからは全く手を付けず、好んでやりもしなかったが――掃除も、炊事も、ある程度はこなせる。何せ、この家に来てからずっと、万知子に教えられてきたものだ。今思えばこれも、育ってきた環境を察しての愛情だったのかもしれない。

「……おまえら、まちばぁ死んでから千草出てくまでの期間、忘れてねぇか……」

「ちぃさんが買ってきたもの食べてたんじゃないんですか?」

「わしは、ちー坊が作ってるおもてた」

 嫌味のない素直な答えにため息を落としたユキは、机にアルバムを降ろし、踵を返す。

「……ちょっと待ってろ。不味かったらその時に出前頼め」

 何の取り柄もない自分ができる、唯一の、小さな恩返し――

 結局、千草が喜んでくれることはなかったものの、目の前の二人の腹を満たすくらいなら、と、思考は何故か前向きで、自然と口角が上がる。

 とは言え、きちんと確認してみれば、冷蔵庫の中は果てしなく空に近い。

 卵が四つと、野菜が数種類。あとは腐りかけのスイカに、ビール。肉や魚はなく、かろうじて残っている調味料は味噌とめんつゆだけ。これでは、使い切るという単語すら意味がない。

 久方ぶりに立った台所は、隣がぽっかりと空いている。

 綺麗に磨かれた作業台と二口コンロ。吊り下げられたフライパンや鍋の隙間から差し込む光も、出窓に並ぶ調味料も、乾物が詰まったかごの位置も、あの頃と変わらない。

 ひとまず米を洗い、鍋に素麺の束を投入していると、後方から視線を感じる。

「残りの草でも引いとけよ」

 振り返らずに嫌味を口にすれば、背中にはしゃらしゃらと涼しげな音が届く。

 平穏で、平凡な、どこにでもありそうな日常。

 いつもとは違う穏やかな昼下がりは、どうしてか無性に、胸を苦しくする。

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